第1話(後編)「5万2,000エーカー」 1779年5月21日~5月31日
ウェッブの事務所へ着くと、机の上には大きな地図と何冊もの書類が広げられていた。
エドワードは外套を使用人へ預け、挨拶もそこそこに机へ近づいた。
「手紙には大きな土地が出たとしか書いていなかったな。まず規模から聞かせてくれ」
ウェッブはエドワードへ椅子を勧めた。
「先に座った方がよろしいでしょう。約52,000エーカーあります」
さすがにエドワードも足を止めた。
「僕が探していた規模を、ずいぶん大きく超えてきたな」
「ほぼ一体の所領です。一部に他家の土地が入り込んでおりますが、全体として1つに管理されています」
エドワードは椅子へ腰を下ろし、ウェッブが広げた地図を覗き込んだ。
「仮にハロウデン所領と呼んでおります。中心となる大きな邸宅があり、その周囲へ農地、牧草地、森林が広がっています。所領内には11の村があり、小さな集落もいくつかございます。農場は70を超えます」
エドワードは地図へ目を走らせた。
すでに所有している1万エーカー余りの土地とは規模が違う。森も川も道路も村も、広い境界線の内側へまとめて収まっていた。
「これだけ広ければ、地代以外の収入もかなりあるだろう。現在の収支はどうなっているのか?」
「地代、森林、牧草地、水車、採石地などを合わせた総収入は年3万ポンドを超えています。そこから管理費、建物の修繕、道路の維持、使用人の給金などを引けば、現状で年2万4,000から2万6,000ポンドほどが残ると見ています」
エドワードは数字を頭の中で組み立てた。
「年2万5,000ポンドと考えれば、30年間で75万ポンドになる。その間に土地そのものがなくなるわけでもない。収入だけを見れば悪くないな」
「ただし、現在の収入がそのまま30年間続けば、という前提です」
「そこは分かっている。それで、売主はいくらを希望しているのか?」
「80万ポンド近くを考えているようです」
エドワードは眉を寄せた。
「年間収入と比べると、かなり強気だな。広いというだけで、そのまま受け入れる金額ではない」
「52,000エーカーありますから、売主としてはそれくらいの値を付けたいのでしょう」
「売却を急ぐ事情があるのなら、その辺りも知っておきたい」
ウェッブは別の書類を取り出した。
「借金です。ただし、所領だけに付いた負債ではありません。当主個人の借金と一族全体の事情が混じっており、正確な総額まではまだこちらでも確認できていません。まとまった現金が必要になっていることだけは確かです」
「土地を分けて売る方法もありそうだが、全部まとめて手放したいのか?」
「切り売りも検討されたようです。しかし農地、森林、水利、道路、村が一体で管理されております。細かく分ければ使いにくくなり、価値が下がる土地も出るため、できれば所領全体を引き受ける買い手を探しています」
エドワードは地図を見ながら事情を整理した。
英国には大地主はいくらでもいる。しかし50万、80万ポンドという現金を自由に動かせる者は少ない。大きな借金を新たに背負わず、一括で支払える買い手となれば、さらに限られる。
「僕が大きな土地を探していたから、この話を持ってきたわけだな」
「年1万や2万ポンド以上の収入が見込める大所領なら知らせろ、とおっしゃいましたからな。条件には十分すぎるほど合っています」
「確かに規模と数字は面白い。ただし、このまま帳簿だけを見て買うつもりはない」
「それがよろしいでしょう。52,000エーカーもあれば、良い場所ばかりということはありません」
「ジョナサンからも同じことを言われた。土地については僕より経験があるから、いずれ相談するつもりだ」
「現地へ一緒に行ってもらうのもよいのではありませんか?」
「まずは自分で見てみたい。買えば伯爵家の本拠地にする可能性もあるからな」
ウェッブは少し驚いた。
「単なる投資用の土地ではなく、お住まいになることまで考えているのですか?」
「これだけ大きな所領を持つなら、自分が一度も住まないまま管理人へ全部任せるより、伯爵家の本拠地として使う方が面白い。今ある邸宅についても詳しく知りたい」
「かなり大きい建物とは聞いておりますが、状態や間取りまでは現地で確かめる必要があります」
「使えるなら使えばいいし、僕たちの暮らしに合わないなら改修すればいい」
エドワードは地図と書類を順番に見ていった。
農地だけではない。森林があり、川が流れ、採石場もある。道路が村々を結び、その土地で暮らしている人々もいる。これほどの規模なら、収入源としてだけでなく、新しく得た伯爵位の本拠地を置く場所としても十分だった。
父リチャードのグレイミア館は、いずれ男爵位とともにエドワードが相続する。しかし、それは何代も前からヘイル家が受け継いできた屋敷である。
自分は国王から新たに伯爵位を与えられた。妻のアメリアも公爵令嬢として育った女性であり、国王夫妻とのつながりも深い。2人がこれから家庭を築いていく場所として、自分の代で新しい本邸を持つことには意味があった。
エドワードは地図から顔を上げた。
「現在の邸宅が使えないほど悪ければ、別の場所へ新しく建てることも可能なのだろう?」
「土地を購入すれば、改修も建て替えも、新築もあなたの判断でできます。ただし、土地代だけで80万ポンド近い話ですから、その上に大邸宅となれば相当な金額になりますぞ」
「だからこそ、先に土地の値段をきちんと詰める必要がある。売主の希望額をそのまま払って、あとから家へ金がかかりすぎたと騒ぐつもりはない」
「その考え方なら安心しました。新しい屋敷の話を聞いた瞬間、土地を見ないうちから建築費まで決め始めるのかと思いましたので」
「さすがにそこまで急がない。まず現物を見て、土地と建物の状態を確かめる。それから値段を決める」
「では、先方へすぐ連絡しておきます」
「頼む。それと、こちらに100万ポンド近い現金があることは伏せておいてくれ。80万ポンドをその場で支払えるとも知らせる必要はない」
「承知しております」
「先方が現金を急いでいるなら、一括で払えること自体がこちらの交渉材料になる。最初から財布の中身まで見せれば、その利点が消える」
ウェッブは頷いた。
「そこまで考えておられるなら、私から付け加えることはありません」
「土地の状態が良ければ、あまり時間をかけるつもりはない。売り手が別の買い手を見つけてから後悔するのも馬鹿らしいからな」
「80万ポンド規模の取引を前にして、その決断の速さだけは昔から変わりませんな」
「金額が大きくなっただけで、やっていることは同じだ。値段と中身を比べて、買う価値があれば買う」
エドワードは立ち上がった。
「これからジョナサンのところへ行ってみる。土地を見る前に、確認するべき点をもう少し聞いておきたい」
「それがよろしいでしょう。私も売主側の借金と所領の収支を、もう少し詳しく調べておきます」
「頼んだ」
エドワードは必要な書類だけを持ち、事務所を出た。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、フェアフォード伯爵邸では、ジョナサンとエリザベスがエドワードの話を聞いていた。
「それほど大きな土地が、本当に一括で売りに出たのですか?」
ジョナサンの隣で聞いていたエリザベスも驚いている。
「約52,000エーカーだ。11の村と70を超える農場があり、年間で2万5,000ポンド前後の純収入が見込める。ただし売主は80万ポンド近くを希望している」
エリザベスは金額を聞いて兄の顔を見直した。
「80万ポンドですか。そんな話を平然としているということは、お兄様は本当に買えるだけのお金を持っているのですね」
「払うだけなら可能だ。ただし、希望額をそのまま渡すつもりはない。売主が現金を急いでいるなら、そこは交渉できる」
ジョナサンは苦笑した。
「妹君が驚いているのは値引きの話ではなく、80万ポンドを払えると言い切ったところでしょう」
「分かっている。だから外ではあまり話したくないんだ」
「ここには私もおりますが、その点は聞かなかったことにしておきます」
「助かる」
エリザベスは兄へ尋ねた。
「もし買ったら、その土地はどうするつもりなのですか?」
「収入を得るだけの土地にするか、伯爵家の本拠地として住むかは、現地を見てから決める。今ある邸宅が気に入らなければ、新しい本邸を建てることも考えている」
「土地だけでも80万ポンド近いのに、その上で家まで建てるのですか?」
「だから土地代はできるだけ下げたい。建物や道路に修繕が必要なら、それも交渉材料になる」
ジョナサンはとうとう笑った。
「エリザベス、あなたのお兄様は土地を買う前から、もうその後の金の使い道まで考えているようです」
「笑っている場合ではありません。止めなくてよいのですか?」
「私には止める理由がありません。実際に価値のある土地なら、買える者が買うこと自体は悪くないでしょう」
エドワードはジョナサンへ向き直った。
「だから相談に来た。52,000エーカーもあれば、数字だけ見て判断するのは危険だと思っている。現地で特に確認しておくべき点を教えてくれ」
「まず農地の状態と小作料の未払いです。それから道路と橋、水路、森林、農場建物、借地契約の残存期間も見てください。広い所領では、帳簿上の収入が良くても、数年以内に大規模な修繕が必要になることがあります」
「売主が借金で困っているなら、長い間修繕を先送りしている可能性もあるな」
「そこは特に注意した方がよいでしょう。ただし、修繕費がかかるからといって悪い土地とは限りません。その費用を価格へ反映できれば、むしろ買い手には有利な場合もあります」
「なるほど。その判断をするために、現地で状態を見ればいいわけだ」
ジョナサンは棚から紙を取り出し、確認する項目を順番に書いていった。
エドワードは説明を遮らずに聞いた。船についてはカートライト、金融や商売についてはウェッブを頼ってきたのと同じように、土地についてはジョナサンの経験を借りればよい。
話が一段落したところで、エリザベスが尋ねた。
「ところで、アメリア様にはこの話をもうしたのですか?」
「大きな土地を探していることは話してある。ただ、52,000エーカーの話が来たのは今日だから、まだ詳しくは伝えていない」
「それなら、帰ったら最初に話した方がいいと思います。そこへ新しい本邸まで建てるなら、暮らすのはお兄様だけではありませんから」
エドワードは返事をする前に、少し考えた。
土地を買う金は自分が出す。しかし、本邸を建てるならそこはアメリアの家でもある。どのような場所で暮らしたいのか、妻の希望をまだ聞いていなかった。
「お前の言うとおりだな。土地を見る前に、アメリアにも話しておく」
「新婚なのですから、家を建てる話くらいは夫婦で決めてください」
「結婚して20日ほどのお前から夫婦生活の助言を受けるとは思わなかった」
「20日でも妻は妻です」
エドワードは笑った。
「それなら先輩の忠告として聞いておこう」
ジョナサンから受け取った紙を外套へ入れ、エドワードは妹夫婦の屋敷を後にした。
外へ出ても、5月の夕方はまだ明るかった。
馬車へ乗り込んだエドワードは、改めてウェッブから聞いた数字を頭の中で確かめた。52,000エーカーの所領には11の村と70を超える農場があり、森林や川も含めて年2万5,000ポンド前後の純収入が見込める。購入資金は用意できるが、それだけを理由に80万ポンド近い金を払うつもりはなかった。
所領の状態、将来の収入、必要になる修繕費まで確かめ、そのうえで価格に見合うと判断できるかどうかが重要だった。次は帳簿ではなく、土地そのものを自分の目で見ることになる。




