第1話(前編)「18歳の花嫁」 1779年5月1日~5月10日
1779年5月1日。
エドワード・ヘイルは、妹エリザベスの花嫁姿を眺めながら、5年前の冬を思い出していた。
エドワードが17歳になったころ、13歳だった妹は食卓で平気な顔をして兄をからかっていた。当時のグレイミア館は、外から見れば立派な男爵家の屋敷だったものの、内情は苦しかった。使用人への給金が遅れ、厩舎の馬は減り、西翼棟の一部は冬の暖房費を節約するため閉められていた。
その妹も18歳になり、この日、第4代フェアフォード伯爵ジョナサン・レイシーの妻になる。
ロンドンの教会には朝から馬車が次々と到着していた。昨夜の雨で洗われた石畳にはまだ湿り気が残り、車輪が止まるたびに小さな水しぶきが上がる。馬車から降りてくるのは伯爵や子爵、その夫人や子女など、上流社会で名の知られた人々が多かった。
5年前のグレイミア男爵家であれば、次女の婚礼にこれほどの顔ぶれが集まることはなかっただろう。
エドワードは父の爵位を受け継いだのではなく、海上での功績と王室への奉仕を重ね、21歳で国王から伯爵位を与えられた。その後にはアシュフォード公爵令嬢アメリアとの結婚もあり、ヘイル家を取り巻く環境は数年前とは大きく変わっていた。
ロンドンの上流社会では、アメリアの出自を知らない者の方が少ない。その夫であるエドワードの妹となれば、縁談が増えるのも不思議ではなかった。
前年からエリザベスのもとには、男爵家の嫡男や子爵、伯爵家の次男、裕福な地主などから話が相次いだ。本人へ直接近づく若者もいれば、親を通じて正式に申し込んでくる家もあった。
その中からエリザベスが選んだのが、28歳のジョナサンだった。すでに父から爵位と領地を受け継ぎ、家計にも大きな問題はない。何より、エドワードが伯爵になる以前から社交の場でエリザベスを知っていた。兄の出世を見てから近づいてきた男ではないことを、エドワードは重く見ていた。
教会の控室では、母アンが娘の衣装を最後まで確かめていた。
「動かないで。せっかく整えたところが崩れるでしょう」
「母上、朝から何度も直しているではありませんか。このままでは式が始まる前に疲れてしまいます」
エリザベスが助けを求めるように姉を見ると、キャサリンは笑った。
「諦めなさい。私の時も同じだったもの」
「姉上からも何か言ってください」
「無駄だと知っているから、私は何も言わないのよ」
アンは娘たちの会話に構わず、白い衣装の襟元と袖を整えていた。細かな刺繍と上質なレースが使われ、丁寧に結い上げられた髪もあって、普段よりずっと大人びて見える。
入口から様子を眺めていたエドワードに、エリザベスが気付いた。
「お兄様も見ているだけではなく、母上を止めてください」
「僕には無理だ。母上を止められるくらいなら、父上がずっと前にやっている」
少し離れたところにいたリチャードが、聞き捨てならないという顔をした。
「私を巻き込むな」
「あなたは黙っていてください」
アンに即座に封じられた父を見て、エドワードは妹へ顔を向けた。
「見ただろう。僕にできる仕事ではない」
キャサリンとエリザベスが声を立てて笑った。
こうした家族のやり取りは5年前と変わっていない。それでも立場は大きく変わった。キャサリンはすでにレイヴンズクロフト子爵夫人であり、エドワードの隣には妻となったアメリアが立っている。今日からはエリザベスも伯爵夫人になる。父リチャードは今も第5代グレイミア男爵だが、子供たちはそれぞれ高い爵位の家と結びつくようになっていた。
アメリアがエドワードのそばへ来た。
「本当にきれいですね。あなたもそう思っているのでしょう?」
「もちろん思っている。ただ、本人に言うと得意になるからな」
少し離れていても、エリザベスには聞こえていた。
「聞こえていますよ、お兄様」
「それなら直接言う手間が省けた。よく似合っているぞ」
「最初からそう言えばいいのに」
妹は口では不満そうに返したが、その表情には笑みが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
式が始まると、エドワードは家族とともに前方の席へ着いた。
ジョナサン・レイシーは長身で、正装した姿にも落ち着きがある。人目を引くような派手な振る舞いを好む男ではなく、28歳ですでに伯爵家を取り仕切っているだけあって、大勢の参列者を前にしても必要以上に緊張する様子はなかった。
ところが父リチャードに伴われたエリザベスが通路を進んでくると、ジョナサンの表情が明らかに和らいだ。
妹を迎えるその顔を見て、エドワードは安心した。少なくともこの場にいるジョナサンは、家同士の利害を計算して花嫁を眺めている男には見えなかった。
もちろん、エドワードも何も調べずに妹の結婚を受け入れたわけではない。領地収入や借金、賭博や女性関係、社交界での評判については、ウェッブや家族を通じて確認している。その範囲では、結婚に反対するような問題は見つからなかった。
最後に相手を選び、結婚を決めるのはエリザベス本人である。兄がするべきことは、必要なことを確かめたうえで妹の決断を尊重するところまでだった。
式が終わるころには雲も切れ、教会の外には春の日差しが差していた。馬車の周囲では使用人たちが忙しく動き、外で待っていた人々から祝福の声が上がっている。
エリザベスはこの日から、エリザベス・レイシー、フェアフォード伯爵夫人となった。
馬車へ向かう妹に、エドワードが声をかけた。
「エリザベス。もし本当に嫌なことがあったら、我慢せずに帰ってこい」
「結婚式を終えたばかりの妹に、最初から帰ってこいと言う兄がありますか?」
「念のためだ。帰る場所があると思っていた方が気楽だろう」
「そんなことを言ったら、ジョナサンが気を悪くします」
すぐそばにいた本人が苦笑した。
「残念ながら、最初から全部聞こえております」
「なら、今の話は妹を心配する兄の余計な一言として忘れてくれ」
「それなら忘れることにしましょう。ただし、エリザベスを泣かせた時には、あなたが迎えに来るという話だけは覚えておきます」
「その方がいい。僕は拳銃が得意だからな」
ジョナサンは笑った。
「その噂も聞いております。できれば義兄上と撃ち合うような事態にはしたくありません」
「私の結婚式で決闘の相談を始めないでください」
エリザベスが呆れると、アメリアも加わった。
「今日はエリザベスの言うことを聞いた方がよさそうですよ」
「君まで妹の味方をするのか」
「今日くらいは花嫁を優先します」
家族から笑いが起こり、エドワードもそれ以上は続けなかった。
「分かった。もう決闘の話はしない」
エリザベスは兄の手を取った。
「いろいろ心配してくれて、ありがとう」
今度は冗談を交えない声だった。
エドワードも妹の手を握り返した。
「幸せになれ。僕から言いたいのは、それだけだ」
「ええ。そうします」
やがてエリザベスはジョナサンとともに馬車へ乗り、家族に見送られながら新しい家へ向かった。
◇ ◇ ◇
婚礼後の祝宴も盛大だった。
広い室内には春の花が飾られ、蝋燭の光が銀器やガラスの杯に映っている。長い食卓には牛肉や仔羊、鶏、魚、野菜料理、焼きたてのパン、菓子や果物が並び、使用人が料理と酒を絶え間なく運んでいた。
妹の婚礼であり、相手は伯爵である。エドワードは数百ポンド程度の費用を惜しむつもりはなかった。
父リチャードは酒杯を手にして、向かい側の息子を見た。
「随分と派手な祝宴にしたものだ。私が結婚した時より金がかかっているかもしれん」
「父上の結婚式にいくら使ったのか、僕は聞いたことがありません」
「私も正確な額は覚えていない」
横からアンが口を挟んだ。
「覚えていないのではなく、最初から気にしていなかったのでしょう」
「今さら昔の婚礼費用を責められるとは思わなかった」
「あなたが自分から金額の話を始めたのよ」
キャサリンが夫ヘンリーと顔を見合わせた。
「父上と母上は昔から変わりませんね」
以前なら、こうした家族の会話を聞きながらも、エドワードの頭には支払いのことが離れなかった。父が何に金を使ったのかを問い詰め、家計の赤字をどう埋めるか考え続けていた時期もある。
今では妹の婚礼へ数百ポンドを使ったところで、家計が揺らぐ心配はなかった。それどころか現在の家族の立場を考えれば、必要なところへ相応の金を使う方が自然である。エドワードは伯爵となり、妻アメリアは公爵令嬢として育っている。姉キャサリンは子爵夫人であり、妹エリザベスも今日から伯爵夫人となった。
アメリアは、しばらく黙って新郎新婦を見ていた夫へ尋ねた。
「先ほどから何を考えているのですか?」
「昔の家のことを思い出していた。5年前なら、エリザベスが伯爵夫人になる日が来るなんて考えもしなかったからな」
その言葉を聞きつけたリチャードが頷いた。
「私も同じだ。当時なら、地方の地主か同じ男爵家の息子あたりで、家柄が悪くなく、借金も少なければ十分だと思っていただろう」
「父上にしてはずいぶん堅実な条件ですね」
「お前にだけは言われたくない」
リチャードは酒を一口飲んでから、子供たちを見回した。
「ところがキャサリンは子爵夫人になり、エリザベスは伯爵夫人になった。そのうえ息子まで伯爵だ。自分の子供たちに爵位で追い越されるとは思わなかった」
ヘンリーが笑った。
「こうなると、グレイミア男爵家が家族の中では一番控えめな爵位になりましたね」
「それを本人の前で言うな」
「父上の男爵位は、いずれ僕が継ぐことになります」
「伯爵がさらに男爵位まで相続するのだから、私から見れば妙な話だ」
「受け継げるものを返す理由もありませんからね」
リチャードは息子の顔を見て笑った。
「そのあたりは17歳のころから変わらんな」
食卓の向こうでは、新郎新婦が客から次々と祝福を受けていた。
エドワードはその光景を眺めながら、この日は家族や客との時間を楽しみ、久しぶりに帳簿や取引から離れて過ごした。




