第4話(後編)「仮面の夜」 1777年6月21日~6月30日
6月21日、エドワードは朝からウェッブの事務所で帳簿を見ていた。
商会は、彼が海へ出ている間も動いている。輸送契約や政府向けの物資調達、土地や炭坑からの収入に加え、最近では私掠航海から得た金も入っていた。
ウェッブが数字を説明していたが、その日は珍しくエドワードの集中が続かなかった。開けた窓から初夏の空気が入り、通りを走る馬車や人々の声が聞こえてくる。
ウェッブは説明を途中で止めた。
「今日はあまり聞いておりませんな」
「王妃陛下から、たまには遊べと言われたんだ」
「それで帳簿が頭に入らないのですか?」
「今日は遊んでみようと思う。残りは明日見る」
ウェッブは驚いたようにエドワードを見た。
「あなたが帳簿を明日へ回すとは」
「王妃陛下のお言葉だからな」
「ずいぶん便利に使いますな。それで、どこへ行くのです?」
「まだ決めていない。姉上と義兄上に聞くよ」
「遊び方から人に教わるのですか」
「詳しい人間に聞くのが一番早いだろう」
「その考え方だけは、いつもどおりですな」
◇ ◇ ◇
その晩、エドワードから相談されたヘンリーは、すぐにラネラ・ガーデンズを挙げた。
「仮面舞踏会がある。ちょうどいいから行こう」
「ラネラには行ったことがありません」
ヘンリーは妻を振り返った。
「キャサリン。君の弟は3年以上ロンドンに出入りしていて、まだラネラへ行ったことがないそうだ」
「本当に?」
「海にいることが多かったからな」
「何でも海で済ませないの」
ラネラ・ガーデンズはチェルシーにある有名な遊興地で、大きなロトンダでは音楽や食事を楽しめた。仮面舞踏会の夜になると、普段とは違う衣装や仮面を身につけた男女が集まる。
エドワードも興味を持った。
「行きます」
「即答なのね」
キャサリンが言うと、エドワードは当然のように答えた。
「王妃陛下から遊べと言われていますから」
「それをいつまで使うつもり?」
「少なくとも今月いっぱいは」
◇ ◇ ◇
6月28日の夜、ラネラ・ガーデンズへ向かう道には馬車が連なっていた。
広いロトンダの内部には多数の灯りがともり、音楽が流れている。古代の英雄をまねた衣装や異国風の服、顔の上半分を隠す仮面、全身を包む外套など、見慣れない姿の男女が場内を行き交っていた。
香水、酒、料理、蝋燭の匂いが混じり合い、船上とはまるで違う熱気がある。
黒い仮面を付けたエドワードは周囲を見渡した。
「ずいぶん人がいるな」
「最初の感想がそれか」
ヘンリーが呆れる。
「船なら定員を確認するところです」
「今夜は船の話を忘れろ」
「努力します」
キャサリンは友人たちの姿を見つけ、2人を残してそちらへ向かった。
エドワードがその背中を見ていると、ヘンリーが笑った。
「心配するな。ここへ来るのは初めてではないし、私は妻を信用している」
「別に疑ってはいません」
「お前は他人の夫婦の話になると妙に慎重だからな」
「経験から学びました」
「詳しくは聞かないでおこう」
「その方がいいです」
2人は酒杯を取り、人混みへ入った。
やがて音楽が変わると、仮面を付けた男女が中央へ集まり始めた。
エドワードも、若い女性から声を掛けられた。
「踊らないの?」
「今ちょうど相手を探していたところです」
「相手もいなかったのに?」
「今できました」
「自信があるのね」
「迷っていると、海では相手に逃げられますから」
その一言で女性の反応が変わった。
「海? あなた、もしかしてエドワード・ヘイルでしょう」
「仮面の意味がありませんね」
「去年、劇場で見たことがあるの。新聞でも名前をよく見るわ。敵船を3隻捕まえた人でしょう?」
「今年だけなら3隻です。以前の分まで入れればもっとあります」
「そういうところで訂正するから、余計に本人だと分かるのよ」
女性は楽しそうに手を差し出した。
エドワードはその手を取り、音楽に合わせて踊った。
互いに名前を尋ねなかった。今夜は、それでよかった。
曲が終わると女性は人混みへ戻っていった。ほどなくヘンリーが姿を見せた。
「知り合いだったのか?」
「いいえ。名前も聞いていません」
「珍しいな」
「仮面舞踏会でしょう」
「ちゃんと楽しんでいるじゃないか」
「思っていたより悪くありません」
◇ ◇ ◇
夜が深くなるにつれて、ロトンダの中はさらに賑やかになった。
酒を飲む者、踊る者、仮面の下の正体を当てようとする者が入り交じり、一角では賭け事も始まっている。
ヘンリーはエドワードが賭けに加わらないのを見て尋ねた。
「やらないのか?」
「今夜はいいです。負けるより、勝って本気になる方が怖い」
「自分の性格をよく分かっているな」
「金を増やすなら、もっと得意な方法がありますから」
「結局そこへ戻るのか」
「そこは簡単には直りません」
その後、エドワードは食事を取り、酒を飲み、さらに何度か踊った。
途中でグレイミア号や私掠航海について尋ねられることもあった。戦果や船の話には応じたが、次の航海先を聞かれた時だけは答えなかった。
「仮面を付けているのだから教えてくれてもいいだろう」
相手の男が言うと、エドワードは首を振った。
「仮面を付けている相手だからこそ教えられません。敵側の人間もロンドンで酒くらい飲むでしょう」
「遊んでいても用心深いな」
「そこまで酔ってはいません」
◇ ◇ ◇
6月29日、エドワードが目を覚ましたのは昼近くになってからだった。
前夜はかなり遅くまで飲み、踊っていた。頭の重さを感じながら寝台で起き上がったところへ使用人が入り、カートライトから届いた手紙を渡した。
グレイミア号はすでに出航できる状態にあり、水と食糧、火薬、砲弾も揃っている。そろそろ次の出航日を決めてほしいという内容だった。
そこへキャサリンが顔を出した。
「起きた?」
「今です」
「船からの手紙でしょう」
「なぜ分かるのです?」
「寝台の上で、そんなに嬉しそうに手紙を読む相手は船くらいでしょう」
「準備はもう整っているそうです」
「それで、今日にも港へ行くの?」
普段ならそうしたかもしれない。しかし立ち上がっただけで、昨夜の酒がまだ残っているのが分かった。
「明日にします」
キャサリンは聞き間違えたような顔をした。
「今、明日と言った?」
「言いましたよ。今日は休みます」
「本当にエドワード?」
「昨夜飲みすぎただけです」
「それなら安心したわ。少しくらい20歳らしいところもあったのね」
エドワードは寝台の枕をつかんで姉へ投げた。キャサリンは笑いながら身をかわした。
「それだけ元気なら、昼食には降りてきなさい」
「分かりましたから出ていってください」
◇ ◇ ◇
6月30日、エドワードはグレイミア号へ戻った。
初夏の日差しを受けたテムズには多くの船が行き交い、甲板では水夫たちが出航に備えて動いている。
船尾からやってきたカートライトが、エドワードを見るなり言った。
「昨日来ると思っておりました」
「昨日は休んだ」
「あなたが?」
「王妃陛下から、たまには遊べと言われたからな」
「それで本当に遊んだのですか」
「かなり」
カートライトはしばらくエドワードの顔を見ていた。
「王妃陛下には感謝しなければなりませんな。私ではあなたを1日休ませることなどできませんでした」
「だが休みは終わりだ。船はいつ出せる?」
「明日でも」
「なら明日だ」
カートライトは予想どおりだったという顔をして、持っていた帳面を開いた。
「では乗組員へ知らせます。水と食糧は積み終わっていますから、残りを今日中に確認しましょう」
「頼む」
エドワードは上着を脱ぎ、甲板で進んでいる作業を確かめに歩き出した。




