第4話(前編)「39歳の国王」 1777年6月1日~6月10日
1777年6月1日。
グレイミア号では、次の航海に向けた整備が始まっていた。2隻目の敵商船との戦闘で受けた舷側の傷を直し、帆と索具を点検する。火薬庫の残量も調べ、不足した砲弾や食糧を補充しなければならない。
乗組員は早く次の獲物を追いたがっており、それはエドワードも同じだった。しかし今回は、船の準備が整ってもすぐには出航しないつもりだった。
甲板で修理の様子を見ながら、エドワードはカートライトに尋ねた。
「修理と補給は10日くらいで終わるか?」
「十分でしょう。急げばもっと早くできます」
「今回は急がなくていい。国王陛下の誕生日があるから、しばらくロンドンにいる」
ジョージ3世は6月4日に39歳になる。誕生日に合わせて宮廷行事が予定されており、父リチャードも男爵としてロンドンへ来ることになっていた。母アンと妹エリザベスも同行し、すでにロンドンで暮らしている姉キャサリンと夫ヘンリーを含め、久しぶりに家族全員が顔を揃える。
「では船はこちらで見ておきます。出航できる状態になれば知らせます」
「頼む。ただ、僕が戻る前に勝手に出すなよ」
カートライトは呆れた顔をした。
「誰の船だと思っております?」
「僕の船だな」
「でしたら、船主を置いて出航するわけがないでしょう」
「それなら安心だ」
エドワードは渡し板を渡って岸へ下りた。
4月に私掠航海を始めてから、生活の中心はほとんどグレイミア号に移っていた。獲物を探して海へ出て、捕らえた船を英国まで運び、戻れば修理と補給を済ませてまた出航する。今度は少し長く陸に残る。
妹には、3年前から約束していた土産もあった。
◇ ◇ ◇
6月2日の夕方、レイヴンズクロフト邸の玄関前に、ハートフォードシャーから来た馬車が止まった。
エドワードは姉キャサリンとともに家族を迎えた。
最初に降りてきた父リチャードは49歳になっていた。息子の姿を見ると、挨拶もそこそこに新聞の話を始めた。
「このところ、お前の船の名を新聞でよく見るぞ。敵船と撃ち合ったという記事まで出ていた」
「勝った記事でしょう」
「勝てば撃たれても構わんという話ではない」
続いて馬車を降りた母アンは、息子の顔や腕に怪我がないか確かめた。
「本当に怪我はないの?」
「ありません。服の下まで確かめますか」
「必要なら見るわよ」
「もう20歳ですよ」
「20歳になれば砲弾が避けてくれるの?」
「いいえ」
「なら心配するのは同じよ」
エドワードはそれ以上の反論を諦めた。
最後に16歳のエリザベスが降りてくると、兄の顔を見るなり尋ねた。
「お兄様。お土産は?」
「久しぶりに会った兄への最初の言葉がそれか」
「3年前から待っているのよ。ロンドンの物はいらないから、新大陸のお土産にしてと言ったでしょう」
「覚えているよ」
エドワードは使用人が運び込もうとしていた荷物から包みを1つ取り出した。
「これだ。中へ入ってから開けろ」
「今では駄目?」
エリザベスが早くも包みを開こうとすると、キャサリンが止めた。
「玄関で広げないの。せめて居間まで我慢しなさい」
「姉上まで母上みたいになったな」
「私は昔からまともよ」
玄関の奥からヘンリーが口を挟んだ。
「そこは議論の余地があるな」
「あなたは黙っていて」
長旅を終えたばかりだというのに、家族が揃った玄関はたちまち騒がしくなった。
◇ ◇ ◇
居間へ移ると、エリザベスはすぐに包みを開けた。
中に入っていたのは、赤みを帯びた木で作られた小箱だった。磨かれた蓋には葉を模した細工が入り、内側には薄い布が張られている。
「きれい。これ、どこの木なの?」
「北アメリカのメープル材だ。去年ボストンで見つけた」
「去年? では、ずっと持っていたのね」
「渡す機会がなかっただけだ。忘れていたわけじゃない」
エリザベスは蓋を何度か開け閉めしてから、兄を見た。
「何を入れようかしら。お兄様のお金でも入れておく?」
「入らないぞ」
「25ポンドなら入りそうよ」
「誰から聞いたんだ」
「家族全員知っているわ」
父リチャードが笑った。
「お前が25ポンドから始めた話は、もう我が家の昔話になりつつある」
「まだ3年前ですよ」
「お前の場合、その3年で変わりすぎた」
アンも娘の手にある箱を見て、息子の選択には満足したようだった。
「いい物を選んだわね」
「値段も聞きますか」
「贈り物をした時くらい、値段の話はやめなさい」
「分かりました」
夕食には家族全員が揃った。牛肉のローストや魚、温かな野菜とパンが並び、食後には果物と菓子が運ばれた。
父はワインを飲みながら、ようやく私掠航海の話を始めた。
「今回2隻、前回と合わせて3隻を捕らえたそうだな。お前の取り分はいくらになった?」
「2回で3万7,600ポンドです」
リチャードの手が止まった。
「グレイミア号の建造費が約3万8,000ポンドだったな」
「ほとんど戻りました」
「2か月でか。私はずいぶん金の使い方を間違えたらしい」
「今さらですか」
「そこまで言われる筋合いはない」
父は苦笑したが、自分も海へ出ようとは考えなかった。
「もっとも、船を買って海へ出れば誰でも稼げるわけではないのだろう?」
「もちろんです。父上がグレイミア号へ乗ると言い出したら、僕が止めます」
「なぜだ」
「母上が僕を殺すからです」
アンがすぐに答えた。
「そこまで分かっているなら結構です」
食卓に笑いが広がったが、母は少し間を置いてから尋ねた。
「それでも、また海へ出るのね」
「はい。船の準備が終われば」
「そう」
アンは息子の顔を見た。
「なら、今度も帰ってきなさい。それだけでいいわ」
「帰ってきます」
エドワードには、その約束以上のことは言えなかった。
◇ ◇ ◇
6月4日、ジョージ3世は39歳の誕生日を迎えた。
朝からセント・ジェームズ周辺には宮廷へ向かう馬車が集まり、エドワードも父リチャードとともに出仕した。
3年前なら、彼は父の後ろについて歩く男爵家の若い跡取りとして見られていた。それが今では、海賊討伐や北アメリカとの商売に加え、グレイミア号で敵商船を捕らえたことまで知られるようになっている。控えの間でも何人かの貴族や軍人から戦果について声をかけられた。
「今度は2隻だそうだな」
「ええ。3隻見つけましたが、1隻は逃がしました」
「惜しかったな」
「かなり惜しかったです」
やがて順番が来て、エドワードは国王夫妻の前へ進んだ。
ジョージ3世は以前と変わらず、エドワードを覚えていた。
「また海へ出たそうだな。私掠免許もようやく使えたか」
「はい、陛下。これまでに敵商船を3隻捕らえました」
「順調ではないか」
「前回は3隻見つけたのですが、1隻逃がしました」
国王の隣にいた王妃シャーロットも興味を示した。5月に33歳になったばかりである。
「3隻を見つけて、2隻を捕らえたのですか。なぜ最後の1隻を追わなかったのです?」
「2隻を捕らえた時点で、グレイミア号から50人を拿捕船へ移しておりました。2隻目は帆と索具も傷めており、日暮れも近かったため、それ以上追えば捕らえた船まで危険にさらすと判断しました」
国王は面白そうに尋ねた。
「本当は追いたかったのだろう?」
「かなり追いたかったです」
「正直ですね」
王妃が笑う。
「以前、私があなたを欲張りだと言ったことを覚えていますか?」
「もちろんでございます」
「では少しは欲張らなくなったのですね」
「いいえ。2隻を失う方が損だと考えただけでございます」
王妃は国王を見た。
「やはり欲張りですよ」
「そこは変わらんな」
ジョージ3世も笑った。
エドワードは続けた。
「陛下から、法を越えるなと言われたことも覚えております」
「守っているのだな?」
「はい」
「ならよい。3隻目を追わなかった判断も悪くない。勝った後に欲を出し、すべてを失う者は戦場にもいる」
「ありがとうございます」
「もっとも、お前は次こそ捕らえるつもりだろうが」
「もちろんでございます」
国王は楽しそうに笑い、次の者を迎えるためエドワードを下がらせた。
短い謁見だったが、国王夫妻はエドワードの最近の戦果を知っていた。父とともに控えの間へ戻る途中にも、別の貴族から声を掛けられた。
エドワードの名前は、少なくとも宮廷で説明の必要がない程度には知られるようになっていた。
◇ ◇ ◇
その夜には舞踏会が開かれた。
大広間には多数の蝋燭がともり、音楽の中を華やかな衣装の男女が行き交っていた。昼間の宮廷とは違い、酒杯を手に談笑する者も多い。
エドワードも何曲か踊った。
踊りを終えて酒杯を取ったところへ、父がやってきた。
「海の上より、こちらの方が似合っているぞ」
「僕はそう思いません。ここでは船を捕まえられない」
「今夜くらい金から離れろ」
「父上から言われるとは思いませんでした」
「私は失敗から学ぶ男だからな」
「ずいぶん時間がかかりましたね」
リチャードは息子の肩を叩いた。
「そこまで言うなら、お前も20歳らしく遊べ」
「今も遊んでいますよ」
「その割には、広間を見ながら何か計算している顔だ」
「癖です」
「なら、その癖を一曲分だけ忘れろ」
ちょうど次の音楽が始まった。
エドワードは酒杯を置き、近くにいた女性へ踊りを申し込んだ。




