第10話(後編)「名前にも値段がある」 1776年9月1日~12月31日
9月下旬、エドワードはハンター号でロンドンへ戻った。テムズでは前年より武装を増やした商船が目立ち、船主たちが戦争の長期化を考え始めていることが分かった。
ウェッブの事務所へ入ると、留守中の帳簿が机に用意されていた。
「まず金から聞く。自由に使える現金はいくらある?」
「約29万ポンドです。政府契約、民間輸送、護衛料、それに決済済みの手形まで含めた数字です」
「銀行は?」
「信用枠が25万ポンド。政府関係の未収金と手形は別に約40万ポンドあります」
性格の違う金を足して現金と呼ぶことはできないが、必要な取引があれば大きな資金を動かせる状態になっていた。
「新造船の支払いは?」
「支払い済みで、残額も確保しています。造船所からは、カートライト船長と最終確認をしてほしいと連絡が来ています」
「明日行く」
「今日ではないのですか」
「今日は風呂に入る」
ウェッブが笑った。
◇ ◇ ◇
翌日、エドワードはカートライトとともにテムズ沿いの造船所を訪れた。1年前には肋材と材木しかなかった場所に、3本マストの船が浮かんでいる。
船体は約650トンで、積載量を第一にする商船より細身だった。両舷には合計28門の9ポンド砲を収め、船底には銅板を使っている。長い航海と戦闘に備え、予備の帆や索具を積む場所、船大工の作業場所、負傷者を休ませる区画も設けた。最大180人ほどを乗せられる。
カートライトが船体を見上げた。
「注文した時より大きく見えますな」
「金額も大きく見える」
造船所の最終計算は、船体、銅板、帆、索具、砲、予備品などを合わせて約3万8,000ポンドだった。予算上限の5万ポンドには収まっている。
「この金額なら、遅かったら困る」
「設計に私も口を出しましたから、逃げられませんな」
「責任を感じてくれ」
「給金次第です」
「そこはウェッブと相談しろ」
◇ ◇ ◇
数日後、ハンター号を相手に試験航海を行った。風は十分にあり、波も穏やかだった。
最初はハンター号が前を走ったが、外海へ近づいて帆を十分に使えるようになると、新造船が少しずつ差を詰めた。やがて並び、そのまま船首を前へ出す。
エドワードは後方のハンター号を見た。
「抜いたな」
「荷の量や風で結果は変わりますが、狙った船足は出ています」
「商船を追うには?」
「かなりの相手に追いつけるでしょう」
「強い軍艦が来たら?」
「逃げてください」
「それも予定どおりだ」
エドワードが欲しかったのは、何とでも撃ち合う船ではない。追うべき相手には追いつき、勝てない相手から離れられる速さだった。
船名も決めていた。
「グレイミア号にする」
カートライトが聞き返した。
「ご実家の名を?」
「そうだ。今度は家の名前で走らせる」
「お父上には?」
「まだ言っていない」
「先に聞かなくてよいのですか」
「嫌だと言われても変えないから、報告で十分だ」
◇ ◇ ◇
10月中旬、ロンドンへ来た父リチャードを造船所へ連れていった。
岸からグレイミア号を見上げた父は、最初に値段を聞いた。
「約3万8,000ポンドです」
「船1隻にか」
「速さには金を使いました」
「お前は船の話になると金銭感覚が変わるな」
「必要なところには使います」
父は改めて船体を見た。
「名前は?」
「グレイミア号です」
リチャードは息子へ顔を向けた。
「家の名を付けたのか」
「はい」
しばらく船を眺めた後、父は言った。
「沈めるなよ」
「そのためにも金を使いました」
「海は金貨を見せても言うことを聞かんぞ」
「分かっています」
「なら好きにしろ」
父の許可を求めて付けた名前ではない。それでも、反対されなかったことは嬉しかった。
◇ ◇ ◇
11月には、グレイミア号の乗組員選びが本格化した。ハンター号や海賊討伐でエドワードと戦った水夫に加え、これまで護衛船団へ参加した船員からも応募があり、140人ほどが候補に集まった。
選考はカートライトが取り仕切った。帆や索具を扱えることに加え、砲撃、船体修理、負傷者の手当、長期航海などの経験を見ていく。
「最終的には180人ほど乗せたい」
エドワードが言うと、カートライトは名簿をめくった。
「捕獲船へ人を移すことまで考えているのでしょう」
「そのための船だ」
「まだ捕獲する免許はありません」
「だから今のうちに選ぶ。許可が出てから180人集める方が遅い」
「そこは同意します」
「腕のある者の給金は惜しまないでくれ。ただし、酔って仕事ができない者や、船内で味方と喧嘩ばかりする者はいらない」
「荒っぽさと規律違反は分けて見ます」
「任せる」
◇ ◇ ◇
11月下旬、ウェッブが護衛契約の計算書を持ってきた。
「面白い傾向が出ています。同じ航路、同じ程度の積荷でも、あなたが護衛に付くなら高い護衛料を受け入れる船主が増えました」
「グレイミア号が完成したからか?」
「まだ実戦に出していない船に、そこまでの値段は付きません」
「では何に払う?」
「あなたです。ヘイルの船団に入りたい。あなた自身が乗るなら、なお安心だと言う船主がいます」
保険を引き受ける側も、過去の護衛実績を見ていた。保証ではないが、ハンター号が付いた船団が無事に着いたという事実は取引条件の一つになり始めている。
エドワードは計算書を見た。
「僕の名前に金を払っているのか」
「そういうことになりますな」
「面白いな。最初は秘密に値段を付けていたのに、今度は名前にも値段が付いた」
「安売りなさいますか」
「するわけがない」
◇ ◇ ◇
12月初旬、エドワードはセント・ジェームズ宮殿へ呼ばれた。
案内された部屋にはジョージ3世と王妃シャーロットがいた。エドワードが礼を取ると、国王はすぐ海の話を始めた。
「また戦ったそうだな。今度は余が命じた仕事ではない」
「はい、陛下。私自身の判断でございます」
「ハンター号も自分で買ったそうだな」
「乗組員の給金から弾薬、修理費まで私が負担しております」
「それでも海へ出た。なぜだ」
エドワードは少し考えた。
「危険な仕事をすべて他人へ任せ、自分だけロンドンで利益を受け取る男にはなりたくなかったからでございます」
王妃が尋ねた。
「それで命を失えば、ご家族は喜びませんよ」
「母と姉にも同じことを言われております」
「なら、ときには聞きなさい」
「王妃陛下のお言葉として覚えておきます」
王妃は笑みを見せた。
国王は話を新造船へ移した。
「28門の船まで造ったそうだな」
「グレイミア号と名付けました。現在は輸送船の護衛に使う予定でございます」
「現在は?」
「将来、陛下の敵となった船を合法的に捕らえられるようになれば、私掠船として使いたいと考えております」
ジョージ3世は笑った。
「それを余の前で言うか」
「隠す理由がございません」
「何隻欲しい」
「捕まえられるだけでございます」
王妃まで笑った。
「欲張りですね」
「そのために造りました」
国王はしばらくエドワードを見てから言った。
「よい。ただし法を越えるな。免許もなく敵船を奪えば海賊と変わらん」
「承知しております。すでに2隻捕らえましたが、どちらも私の財産にはできませんでした」
「それが不満か」
「大いに不満でございます」
国王はまた笑った。
この日の謁見で爵位や褒賞を与えられたわけではなく、私掠免許もまだ出なかった。それでも、国王と王妃はエドワードがどのような船を造り、何を望んでいるのかを知った。
◇ ◇ ◇
12月31日、グレイミア号は冬のテムズに停泊していた。砲や帆、索具の準備は進み、経験のある乗組員も集まりつつある。
カートライトが甲板を一巡して戻ってきた。
「食糧と水を積めば、船は出せます」
「大西洋へ?」
「行けます」
「戦えるか」
「相手によります。戦列艦や大型のフリゲートとは戦わない。それを守っていただければ」
「分かっている。商船なら逃がさない」
「それなら結構です」
2人は船尾へ移った。灰色の空の下、テムズには商船が並び、岸の倉庫では人夫が荷を運んでいる。
「これだけ揃えても、まだ1つ足りませんな」
カートライトが言った。
「私掠免許だろう」
「ええ」
「許可がないのに始めれば海賊だ。待つしかない」
「あなたが待つと言うとは思いませんでした」
「ただし、船は遊ばせない。免許が出るまでは護衛で稼ぐ」
「結局、働くのですな」
「3万8,000ポンドの船を岸に置いて眺める趣味はない」
その夜、エドワードは船長室で革表紙の帳面を開いた。17歳のころに書いた「金、信用、情報、人」という文字が、最初のページに残っている。
エドワードは、その余白に「名前」と書き加えた。
最後のページには、もう1行だけ記した。
「許可が出た日に出航する」
エドワードは帳面を閉じた。




