第9話(前編)「最速の船を造れ」 1775年9月1日~9月30日
1775年9月1日。
前日まで数か月分の帳簿を調べていたエドワードは、朝からウェッブの事務所へ出ていた。
窓の外には夏の暑さが残っていたが、テムズから入る風には秋の気配が混じり始めている。通りでは荷馬車が絶えず行き交い、開いた窓から車輪が石畳を踏む音と馬の蹄の音が聞こえていた。
机にはヘイル商会の資金をまとめた書類が置かれている。エドワードが自由に使える現金は約21万ポンドあり、必要なら銀行から18万ポンドまで調達できる。政府契約を裏付けとした手形も、約27万ポンドまで商取引に使えた。
ただし、これから始めようとしている仕事には借りた金を使うつもりがなかった。
自分の金でやる。
「カートライトを呼んでください」
ウェッブが尋ねた。
「船ですか」
「船です」
「また借りる?」
「今度は買います」
ウェッブは持っていた書類を机へ置いた。
「春には18隻買うと金がなくなると言っていたでしょう」
「18隻は買いません。1隻です」
「嫌な予感がしますな」
「かなり高いと思います」
「もっと嫌になりました」
昼前にはカートライトが事務所へ来た。
部屋へ入ると、椅子へ座る前から尋ねた。
「今度は何隻です?」
「1隻です」
「それなら安心しました」
「今までで一番速くて、一番強い船を造りたい」
カートライトは座りかけた姿勢を戻した。
「買う話ではなかったのですか」
「欲しい船が売っているとは限らないでしょう」
「新造する?」
「はい」
「何に使うのです」
エドワードは机の上へ大西洋の海図を広げた。
「戦争です」
カートライトの表情が変わった。
「今は敵の商船を勝手に捕まえることはできません」
「知っています」
「私掠免許もありません」
「それも知っています」
「なら、何をする船です?」
「今は武装商船です。政府の荷を運ぶこともできる。船団を守ることもできる。海賊が出れば戦える」
エドワードは海図の上へ指を置いた。
「そして、いつか敵船を捕まえていいという許可が出た時には、その日のうちに私掠船として出られる船にしたい」
カートライトは海図へ目を落とした。
「大きければいいというものではありません」
「そこは分かっています」
「戦列艦と撃ち合うつもりなら話は別ですが、そんなことをすれば沈みます」
「戦列艦を見たら逃げます」
「正しい判断です」
「商船には追いつきたい」
「それも分かります」
「多少の護衛艦なら戦って追い払いたい」
「欲張りますな」
「そのために金を使います」
カートライトは今度こそ椅子へ腰を下ろした。
「まず、どこまで荷を積みたいのです?」
「最低限でいい。大量の商品を運ぶ船ではありません」
「航続距離は?」
「大西洋を渡り、西インド諸島でも動けるだけ欲しい」
「砲は?」
「そこをあなたに聞きたい」
エドワードは、自分に分からないことまで決めるつもりはなかった。
ハンター号で海賊と戦った経験はある。しかし船の設計、砲の重量、船体と帆の釣り合いについては、カートライトの方がはるかに詳しい。
エドワードが決めるのは目的だった。速く、十分に強く、大西洋で長く行動できる船が欲しい。そのために必要な大きさや武装は、経験のある人間に聞けばよい。
カートライトは紙を取り、まず船の大きさから考え始めた。
「600トンから700トンほどでしょうな」
「ハンター号の倍くらい?」
「それより少し大きい。ただし幅を広げすぎれば鈍くなる。船体は細めにする必要があります」
「砲は?」
「9ポンド砲を28門ほど。それ以上重くすると速さを食います」
「12ポンド砲では?」
「強くはなります。しかし、あなたが欲しいのは戦列艦ではないのでしょう」
「追いつく方が大事です」
「なら9ポンド砲です」
「乗組員は?」
「戦うなら150人では足りなくなることがあります。拿捕した船へ人を移すことまで考えれば、180人ほど乗せられるようにした方がいい」
エドワードは顔を上げた。
「それです」
「何がです?」
「船を1隻捕まえるたびに乗組員を減らす必要がある。最初から余分に乗せられる船にしてください」
「まだ1隻も捕まえていませんよ」
「捕まえてから困るよりいいでしょう」
カートライトが笑った。
「海賊を3隻連れて帰った男に言われると、冗談に聞こえませんな」
続いて船底の話になった。
カートライトによれば、高い速力を長く維持するには船底の状態も重要だった。海へ長期間入れていれば貝や海草が付き、同じ帆を張っても次第に船足が落ちる。
エドワードは尋ねた。
「金で何とかできます?」
「銅板で船底を覆う方法があります。ただし安くありませんし、まだどこの造船所でも同じように扱えるものではありません」
「できるところを探してください」
「値段は上がります」
「最初に言いました。値段ではなく速さを買います」
「限度は?」
エドワードは予算を考えた。
「船体、帆、索具、砲、火薬庫、予備品まで全部合わせて5万ポンド以内」
ウェッブが口を挟んだ。
「5万?」
「上限です」
「現金で?」
「この船については借りません」
ウェッブがエドワードを見る。
「銀行から借りた方が、手元の現金を商売に残せます」
「商売なら借ります」
「ではなぜ?」
「これはヘイル商会の輸送船ではありません」
エドワードは答えた。
「僕が自分で海へ出るための船です。失敗した時に、銀行へ船の代金まで返すのは嫌です」
カートライトが尋ねた。
「本当に自分で乗るのですか」
「そのつもりで造ると言ったでしょう」
「21万ポンド持っていても?」
「21万ポンド持っているからです」
ウェッブとカートライトは、すぐには返事をしなかった。
エドワードは続けた。
「17歳の時は、金がなかったから危険を冒しました。今は違う」
「では、なぜ行くのです」
「金持ちになっただけでは、ロンドンに僕より金を持つ男はいくらでもいるでしょう」
エドワードは窓の外へ目を向けた。荷馬車や辻馬車が行き交い、人々がその間を忙しく歩いている。
「僕が欲しいのは、金だけではありません」
「何が欲しい?」
「名前です」
カートライトが尋ねた。
「どんな名前です?」
「危険な仕事ならヘイルが行く。逃げる船ならヘイルが捕まえる。そう言われる名前です」
ウェッブが呆れた顔をした。
「普通は金持ちになれば、命を大切にするものです」
「命は大切ですよ」
「そうは聞こえません」
「だから一番いい船を造るんです」
◇ ◇ ◇
それから10日ほど、カートライトはテムズ沿いの造船所を回り、エドワードも何度か同行した。
造船所には、切った木材と熱したタールの匂いが満ちていた。大きな鋸が樫材を切り、船大工が槌を振るう。その合間を職人たちが材木や道具を抱えて行き来していた。
エドワードはこれまで完成した船を買ってきたが、今回は違う。1隻の船が形になる前の段階から見ることになった。
船首、船尾、肋材、甲板では、必要とされる材木の形も強さも違う。砲を28門積むなら、その重量を受ける船体も必要になる。速さを求めるからといって、細く軽く造ればよいわけでもなかった。
エドワードは職人の説明を聞き、分からないところはカートライトへ確かめた。それでも自分では判断できない部分は専門家へ任せた。
9月14日。
建造を任せる造船所が決まった。
船体は約650トンとし、9ポンド砲28門を基本にする。乗組員は最大180人ほどを想定し、積載量より速力を優先した船体とする。船底には銅板を使い、長期航海に備えて予備の帆と索具も多めに積む。戦闘で帆や索具を傷めても、海上で応急修理して航海を続けられることも条件に入れた。
ただし、どれだけ金を払っても、すぐ完成するわけではなかった。
造船所側から予定を聞いたエドワードは尋ねた。
「今年中は?」
「無理です」
「来年の春?」
「約束はできません」
「急がせれば?」
「人を増やせる仕事と増やせない仕事があります」
船大工の返事は明快だった。
「木が乾くのを金貨で急がせることはできません」
エドワードは、その説明には逆らわなかった。
「分かりました。急いで沈む船を造られても困ります」
最初の支払いとして8,000ポンドを出した。残りは工程に合わせて払う契約である。銀行の信用は使わず、すべてエドワード自身の金から支払うことにした。
造船所を出る時、カートライトが尋ねた。
「完成まで何をします?」
「それを考えていました」
「商売へ戻る?」
「戻っています。ウェッブがやっています」
「では?」
エドワードはテムズに浮かぶ船を眺めた。荷を満載した商船、小型船、川を上り下りする艀が、潮と風を使いながら行き交っている。
「新しい船ができるまで陸にいる必要はないでしょう」




