第8話(前編)「家の財布」 1775年4月19日~5月5日
1775年4月19日。
エドワードは朝からグレイミア館へ向かっていた。
馬車の窓から見えるハートフォードシャーは、すでに冬の景色ではなかった。木々には若葉が出始め、畑では農夫たちが種まきや土起こしに追われている。前日の雨で街道には深い轍が残っていたが、雪に車輪を取られた1月とは比べものにならないほど走りやすかった。
今回、エドワードが確かめたいのは借金ではなく、借金をなくした後の暮らしだった。
グレイミア家には年約1,500ポンドの領地収入がある。利息の支払いがなくなった以上、平年ならその範囲で男爵家を維持できるはずだった。問題は、同じ金の使い方を続ければ、また不足を借金で埋めることになりかねないことである。
翌朝、父リチャードの書斎に、母アン、姉キャサリン、領地管理人ジョン・ミラーが集まった。ヘンリーはロンドンに用事があり、今回は同行していない。
机には借金整理後の領地会計が置かれていた。
エドワードはミラーへ尋ねた。
「利息がなくなった今なら、領地収入だけで家は回るな」
「平年であれば問題ございません。ただ、大規模な修繕や不作が重なった年は別に考える必要がございます」
「普通の年なら?」
「使用人への給金を遅らせず、必要な修繕を行ったうえで、現在の規模の暮らしを維持できます」
リチャードは椅子の背へ体を預けた。
「では、それで終わりではないか」
「もう一つあります」
「何だ」
「家の金を誰が管理するかです」
父の表情が変わった。
「どういう意味だ」
「領地も爵位も父上のものです。それを変えるつもりはありません。ただ、屋敷の家計は母上に任せてください」
今度はアンが息子を見た。
「私に?」
「はい」
リチャードは机へ手を置いた。
「私は自分の家の金も自由に使えないのか」
「使えます。家計を崩さない範囲でなら」
「私は子供ではないぞ」
「分かっています」
「なら、なぜ」
「子供なら1万5,000ポンドも借金できません」
「エドワード」
キャサリンにたしなめられ、エドワードも言いすぎたと気付いた。
「失礼しました」
父は怒っていたが、席を立つことはなかった。
「続けろ」
エドワードは帳簿を開いた。
「小作料の徴収、農地や道路、建物の修繕など、領地経営はこれまでどおりミラーに任せます。母上には、屋敷で使う金を見てもらいたいのです」
アンが確認した。
「食費や使用人の給金も?」
「石炭、薪、衣服、馬車、屋敷の維持費も含めてお願いします」
父が割って入った。
「私が友人を夕食へ呼ぶ時も、アンに許可を取るのか」
「あなたが1人招くたびに帳簿を持って追いかけたりしません」
アンは夫を見た。
「ただし、使用人への給金を遅らせてまで上等な酒を出すようなことはしません」
リチャードは黙った。
エドワードは父の遊興まで取り上げるつもりはなかった。
「競馬もカードも、全部やめろとは言いません。父上が自由に使える金額を毎月決めてください。その範囲なら好きに使えばいいでしょう」
「いくらにする」
「それは母上と決めてください」
「お前が決めるのではないのか」
「僕の家ではありませんから」
その答えを聞いて、父はしばらく息子を見ていた。
やがてアンが帳簿を自分の前へ引き寄せた。
「では、私が見るわ」
「本気か」
「あなたに任せた結果なら、もう家族全員が知っているでしょう」
今度は誰も笑わなかった。
リチャードは妻と息子を見比べた末に言った。
「分かった。ただし、狩猟の馬を全部売れなどとは言うな」
「今いる馬を大切に使えばいいでしょう」
「新しい馬が必要になったら?」
「本当に必要なら買います」
「もう始まっているではないか」
「今日からですもの」
キャサリンが吹き出し、父も最後には苦笑した。
こうしてリチャードはこれまでどおり男爵として家を代表し、ミラーが領地経営を担当し、アンが屋敷の家計を見ることになった。
◇ ◇ ◇
午後、エドワードは母と庭へ出た。
冬の間は閉めていた西翼棟にも職人が入り、窓や雨漏りの修理を始めている。銀器や高価な家具を買い戻すより、傷んだ建物を直し、使用人や出入りの商人へ約束どおり金を払う方が先だった。
アンが歩きながら尋ねた。
「あなた、本当にこの家へ毎年お金を入れないつもり?」
「そのつもりです。不作や大きな修繕があれば、その時は相談してください」
「ずいぶん厳しいのね」
「僕が毎年1,000ポンド入れれば、父上は家の収入が1,000ポンド増えたと思うでしょう。2,000ポンドなら、たぶん2,000ポンド使います」
アンは否定しなかった。
「そのうち僕の金がなければ暮らせない家になったら、借金を返した意味がありません」
「それは困るわね」
「でしょう?」
庭を少し進んだところで、アンが別の話をした。
「エリザベスのことも、そろそろ考えないといけないわ」
「妹が何かしましたか」
「そういう話ではないわ。すぐではないけれど、いずれ社交界へ出すことになるでしょう」
エドワードは姉キャサリンの結婚費用が借金の一部になっていたことを思い出した。
「どのくらい必要です?」
「今から全部用意しなくてもいいのよ」
「だから今から考えます。姉上の時と同じことにはしません」
「あなた、自分の商売にもお金が必要でしょう」
「今は手元に3万ポンドほどありますが、そこからすぐ出すつもりはありません。次の商売で利益が出たら、エリザベスの分を別にします」
「いくら?」
「それは利益を見てから決めます」
アンは意外そうに息子を見た。
「あなたが金額を決めずに話すなんて珍しいわね」
「ない金額を先に決めても仕方ないでしょう」
そこでアンは別のことに気付いた。
「もう次の商売を考えているの?」
「もちろんです」
「何をするの」
「まだ買うものを探しています」
「また船?」
「船は買いません」
アンの顔から警戒が少し消えた。
「それなら安心していいのかしら」
「今回は借ります」
母は立ち止まった。
「聞かなければよかったわ」
◇ ◇ ◇
4月末、エドワードはロンドンへ戻った。
スタッフォードシャーでは管理人と鉱山技師が仕事を進めている。農地や炭坑が将来の収入になることは分かっていたが、それだけに頼って大きな現金を作るには時間がかかる。
レイヴンズクロフト邸へ戻った翌朝、エドワードはウェッブの事務所へ行った。
「アメリカ向けの商品を扱っている商人を探してくれ」
ウェッブが顔を上げた。
「何をお探しです?」
「売れなくて困っている物だ。毛織物、毛布、靴、革製品、釘、工具、斧、シャベル、帆布でもいい。腐りにくく、アメリカ以外にも売れる物を優先してくれ」
「北アメリカ向けに用意された品ですな」
「そうだ」
前年12月から始まった不輸入の影響で、アメリカ向けの商品を扱う商人の中には在庫を抱えた者がいるはずだった。
「向こうへ送れなければ、倉庫に残ります」
「職人や仕入れ先への支払いは待ってくれない。現金を急ぐ商人が出る」
「安く買うわけですな」
「安いだけでは買わない。別の場所でも売れる物にする」
ウェッブは頷き、紙へ条件を書き込んだ。
「船も探してくれ」
「お母上には買わないとおっしゃったのでは?」
「買わない。必要な時に優先して借りられる権利を取る」
「何隻くらいです」
「最初は20隻を目標にする」
ウェッブは筆を止めた。
「20隻?」
「全部をいつも使うわけじゃない。半年ほど、僕が必要な時に優先して借りられる契約が欲しい」
「何を運ぶつもりです」
「アメリカと和解すれば、買った商品を向こうへ運べる」
「戦争になれば?」
「別の荷が増える」
大西洋の向こうでは、すでに銃声が響いていた。
しかしその知らせは、まだロンドンへ届いていなかった。




