第7話(前編)「借金は額面で払わない」 1775年2月1日~2月20日
1775年2月1日。
エドワードはレイヴンズクロフト邸の食堂で、姉キャサリン、義兄ヘンリーと朝食を取っていた。
海賊討伐から戻ってまだ10日ほどである。キャサリンからは、長い航海の後なのだからしばらく休めと何度も言われていた。
冬の朝に暖炉の入った食堂で温かな料理を食べ、波で揺れない椅子に座っているだけでも、海の上とは違う落ち着きがあった。焼いたパンと卵の匂いが漂い、窓の外では厚い雲の下を馬車が通り過ぎている。
キャサリンは食事の途中で弟を見た。
「エドワード。私に何か言うことはない?」
「長い間、部屋を貸していただいてありがとうございます」
「それではないわ」
「食事もいただいています」
「それでもない」
見当がつかないエドワードがヘンリーへ助けを求めると、義兄は読んでいた新聞を畳んだ。
「海賊船を3隻捕まえたうえに、10万ポンド余り受け取ったことだろう」
ようやく分かったエドワードは姉へ向き直った。
「もう聞いたのですか」
「聞くわよ。国王陛下から海賊討伐を命じられた弟と同じ家に住んでいるのよ。私だけ何も知らない方がおかしいでしょう」
「正確には10万4,960ポンドです」
「そこを訂正するの?」
「5,000ポンド近く違いますから」
ヘンリーは笑ったが、キャサリンの表情は変わらなかった。
「金額の話をしているのではないわ。あなた、本当に死ぬところだったのでしょう」
その問いには、エドワードもすぐには答えられなかった。
海賊船との戦闘では砲弾が飛び交い、自分の命令で砲が撃たれ、その先で人が倒れた。こちらにも負傷者が出た。勝って帰ったからといって、戦闘そのものが軽い出来事になるわけではない。
「姉上。僕は帰ってきました」
「それは分かっているわ。でも、あなたは帰ってきてから何でも簡単に話すでしょう」
キャサリンが心配している理由は十分に分かった。
「次は少し陸にいます」
「本当?」
「戦争が始まるまでは」
「最後の言葉が余計なのよ」
ヘンリーは新聞を脇へ置いた。
「今回は諦めろ、キャサリン。暖炉の前へ縛りつけておくわけにもいかない」
「あなたは弟に甘すぎるのよ」
「去年、船を買った時には私も止めたぞ」
「結局、止められなかったでしょう」
「だから私も学んだ」
エドワードは姉夫婦のやり取りを聞きながら、1年前のことを思い出した。住まいも食事も姉夫婦に世話になり、この家を足場にロンドンの人間と知り合った。
それが今では、同じ食卓で10万ポンドを超える金の使い道を考えている。
ヘンリーが尋ねた。
「それで、これからどうする」
「まず実家へ帰ります。父上の借金を片付けます」
「1万5,000ポンドか」
「はい。ただし、額面どおり払うつもりはありません」
キャサリンは不思議そうに弟を見た。
「払えるのでしょう?」
「払えます。だからこそ、先に債権の中身を調べます。元金、利息、担保、借りた時期、債権者。それを全部確認してから払います」
「それほどのお金があるなら、まとめて返した方が早くない?」
「早いでしょうね。でも、債権者自身が満額を回収できると思っていない借金まで、こちらから進んで満額払う必要はありません」
キャサリンが夫を見ると、ヘンリーは弟に賛成した。
「私もその方がいいと思う。ただし、お父上と喧嘩するなよ」
「努力します」
「努力では困る」
「では義兄上も来てください。父上と僕だけで金の話をすると、途中でどちらかが腹を立てるかもしれません」
ヘンリーは苦笑した。
「ありそうな話だな」
「私も行くわ」
キャサリンが当然のように言った。
「姉上もですか?」
「私の実家でもあるでしょう。何か問題がある?」
「ありません」
こうして3人でハートフォードシャーへ戻ることになった。
◇ ◇ ◇
2月3日。
レイヴンズクロフト邸を出た馬車は冬の街道を北へ進み、午後にはグレイミア館へ着いた。道端には古い雪が残り、湿った畑の脇を通るたび、ぬかるみを踏んだ車輪から泥が跳ねた。
玄関前に馬車が止まると、エドワードが降りるより先に母アンが屋敷から出てきた。
「エドワード」
アンは息子の顔を確かめると、そのまま抱きしめた。
「母上」
「少しくらい母親らしいことをさせなさい」
「何も言っていません」
「顔を見れば分かるわ」
エドワードは諦めて母に抱かれていた。
その後ろではキャサリンとヘンリーが馬車を降り、屋敷からは妹エリザベスまで駆け出してきた。
「お兄様、本当に海賊を捕まえたの?」
「本当だ」
「3隻も?」
「ああ」
「人を斬った?」
「最初に聞くことがそれか?」
「だって、町の人まで話しているもの」
国王から海賊討伐を命じられたことも、3隻を連れて帰ったことも、すでに領地の町まで伝わっているらしい。
以前なら妹を驚かせるために戦闘を面白く話したかもしれない。しかし今は、自分の命令で人が死んだ戦いを武勇伝にする気にはなれなかった。
「海の話は後でする」
「絶対よ」
「分かった」
父リチャードは玄関の内側で待っていた。
「帰ったか」
「はい、父上」
「随分立派な船長になったそうだな」
「まだカートライトにはよく怒られます」
「それなら安心した」
リチャードは息子の肩を叩いた。
「よく帰った」
「はい」
それ以上の言葉はなかったが、エドワードには十分だった。
◇ ◇ ◇
その日の夕食には、久しぶりに家族全員がそろった。キャサリンが結婚してから、この人数で同じ食卓を囲む機会は少なくなっていた。
肉料理と根菜、パンが運ばれ、ワインも用意された。暖炉の火で室内は十分に暖かい。しかしエドワードの目には、1年前と変わっていない屋敷の苦しい部分も見えた。
西翼棟はいまも閉じられたままで、使用人の数も戻っていない。食卓の銀器も増えてはいなかった。
エドワードが大金を持ち帰ったからといって、グレイミア家の暮らしが自動的に変わるわけではない。
食事が半ばまで進んだところで、リチャードがワインを置いた。
「それで、いくらになった」
アンが夫を見た。
「帰ってきた日の夕食で聞くこと?」
「本人も金の話をするために帰ってきたのだろう」
それは事実なので、エドワードは答えた。
「10万4,960ポンドです」
エリザベスが料理へ伸ばしていた手を止めた。アンも息子の顔を見たまま言葉を失った。
リチャードが聞き返した。
「もう一度言え」
「10万4,960ポンドです」
「それがお前の取り分なのか?」
「はい。必要な処理を終えた後の金です」
父はしばらく黙っていた。
「1年前、お前はいくら持っていた?」
「25ポンドです」
「並べて聞くと馬鹿馬鹿しくなるな」
「僕もそう思います」
アンはまだ信じ切れないようだった。
「本当に、あなたが自由に使えるお金なの?」
「そうです。国王陛下との取り決めどおりです」
それを聞いたリチャードの表情が変わった。
「では借金を払えるな」
「払えます」
父が安堵したのが分かった。
グレイミア家が抱えてきた約1万5,000ポンドの借金は、エドワードが初めて知るよりずっと以前から父を苦しめてきた。領地収入だけでは元金を減らせず、利息を払いながら家を維持する状態が続いていた。
現金さえあれば、その問題を終わらせることができる。
「ただし、1万5,000ポンドをそのまま払うつもりはありません」
父の安堵が消えた。
「なぜだ。金はあるのだろう」
「あります。だからこそ、借金の中身を全部見ます。払うべきものは払いますが、額面をそのまま受け入れるつもりはありません」
「どういう意味だ」
「その話をするために帰ってきました」
リチャードが言い返そうとしたところで、アンが止めた。
「食事の後にしなさい」
父と息子が同時に母を見る。
「聞こえなかったの?」
「はい」
今度は2人とも素直に従った。
向かい側では、キャサリンが笑いをこらえていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、父の書斎には借金に関する帳簿、証文、計算書が集められた。
領地管理人のジョン・ミラーに加え、エドワードがあらかじめ呼んでいたウェッブと法律家もロンドンから到着している。大きな机の上には何年も前の証文まで並び、黄ばんだ紙から古いインクの匂いがした。
「これで全部か?」
エドワードが尋ねると、ミラーが答えた。
「こちらで確認できるものは、すべて揃えてございます」
「父上の個人的な借金も入っていますね」
リチャードが不機嫌そうに答えた。
「入っている」
「では、それも一緒に見ます」
エドワードはウェッブへ書類を示した。
「まず債権者ごとに分けてください。元金と利息、担保の有無も分けます。ミラーは領地に付いている抵当を確認してください。祖父の代から続いているものを先にお願いします」
「承知しました」
最後に父を見る。
「父上。競馬とカードの分はどれです?」
「朝から聞くことか」
「夜に聞けば借金が減るのでしたら、夜まで待ちます」
横にいたヘンリーが咳をした。笑いをこらえたらしい。
リチャードは諦めて机の端を指した。
「そこだ」
調査には3日かかった。
約1万5,000ポンドという一つの数字にまとめられていた借金は、実際には性格の違う債務が積み重なったものだった。祖父の代から領地へ設定されていた抵当があり、屋敷の改修費もある。使用人への未払い、商人への買掛金、父の競馬やカードに関係する債務も残っていた。
3日目、キャサリンが1枚の書類を手に取った。
「これは何?」
そこに記されていたのは、キャサリンが結婚した時の支出だった。持参金の一部と婚礼費用を用意するために借りた金である。
事情を初めて知ったキャサリンは父へ向き直った。
「私の結婚のために借金したの?」
「お前が気にすることではない」
「気にするわよ。いくらなの?」
「今さら知ってどうする」
「お父様」
父は答えなかった。
ヘンリーも書類を確認し、妻と同じように驚いた。
「私も知りませんでした」
「知らせる必要はなかった」
リチャードは婿へ向き直った。
「娘を嫁がせるために私が出すと決めた金だ。お前に娘を売ったわけではない」
「そういう意味で申し上げたのではありません」
「なら気にするな。父親としてやったことだ」
キャサリンはすぐには納得できない顔をしていた。自分が借金を頼んだわけではなくても、実家を苦しくした支出の一部に自分の結婚が含まれていた事実は消えない。
ヘンリーがエドワードへ言った。
「この分は私が払う」
「必要ありません」
「私の妻のために借りた金だ」
「だからこそ、義兄上には払ってほしくありません」
ヘンリーは理由を尋ねるように弟を見た。
「義兄上が払えば、姉上はこれからも自分の結婚が実家へ借金を残したと思い続けます。それに、僕が初めてロンドンへ行った時、姉上と義兄上には何か月も世話になりました。あの家に置いてもらい、人を紹介してもらわなければ、25ポンドから始めた僕が今ここにいるかどうかも分かりません」
「それとこれは別の話だろう」
「僕には同じです。家族の間で受けたものを全部計算し始めたら、かえって面倒になります」
ヘンリーはしばらく義弟を見た後、笑った。
「お前からそんな話を聞くとは思わなかった」
「僕だって何にでも値段を付けるわけではありません」
キャサリンがすぐに口を挟んだ。
「それは嘘ね」
「姉上」
「でも、ありがとう」
キャサリンの結婚費用だけを姉夫婦へ負担させる話は、それで終わった。
◇ ◇ ◇
借金の内訳を確認した後、債権者との交渉はウェッブと法律家へ任せた。エドワード自身が前へ出れば、大金を得たという噂を材料にされる可能性がある。
「僕がいくら持っているか、こちらから説明する必要はありません」
エドワードが言うと、ウェッブは苦笑した。
「10万ポンドを得たという話なら、すでにロンドンでも広がっています」
「噂と銀行の残高は違います。グレイミア家がすぐ払える金は限られていると伝えてください」
「あなた個人の金とは分けるわけですな」
「そうです。何年も待って満額を求めるか、今すぐ現金を受け取って債権を終わらせるか、相手に選んでもらいます」
領地を正規の担保として貸された金について、エドワードは元金まで無理に削ろうとはしなかった。正当な債権まで踏み倒せば、借金と一緒にグレイミア家の信用まで失う。
一方、利息の計算が曖昧なものや、回収に時間を要する個人的な貸付については減額を求めた。父の賭博に関係する証文の中には、法律家が争う余地があると判断したものもあった。
債権者の事情も一様ではない。満額を得るために何年も待つより、多少減っても現金をすぐ受け取りたい者はいる。その違いを利用して交渉を重ねた。
1週間後、結果がまとまった。
額面で約1万5,000ポンドあった債務は、約1万1,000ポンドの支払いで整理できることになった。
リチャードはウェッブが作った計算書を何度も読み返した。
「本当に、これを払えば終わるのか」
「終わります」
エドワードが答えると、法律家も確認した。
「各債権者から領収書と必要な書類を受け取ります。後から同じ債権を請求されることはありません」
父は椅子へ深く腰を下ろした。
「10万ポンド以上持っている人間が、4,000ポンドを減らすためにここまでやるとは思わなかった」
「金があることと、無駄にしてよいことは別です」
ヘンリーが笑った。
「私はロンドンで同じ説明を聞いた」
「私もよ」
キャサリンまで加わったので、リチャードは3人を見回した。
「私だけが説教されているのか?」
「家族で勉強しているだけです」
エドワードが答えると、父もとうとう笑った。
2月20日、最後の支払いと必要な手続きが終わった。
長年グレイミア家を苦しめてきた借金はなくなった。支払った額は約1万1,000ポンドで、土地も屋敷も手放していない。債権者とも正規の合意を交わしたため、家の信用を損なうこともなかった。
その晩、アンは息子と2人になったところで言った。
「1年前、あなたに10ギニー渡したのを覚えている?」
「忘れるわけがありません」
「そろそろ返してもらおうかしら」
「利息はいくらです?」
「冗談よ」
「母上なら元金くらい返します」
「いらないわ。あの時、賭博にも女にも使うなと言ったでしょう」
「はい」
「どうも両方とも守らなかったような気がするのだけれど」
エドワードは返事に困った。
シャーロットとの関係を家族へ話したことはない。しかしロンドンの社交界で起きたことが、すべて秘密のまま終わるとも思っていなかった。
アンは息子の顔を見て笑った。
「ロンドンから離れている母親を甘く見てはいけません」
「母上はハートフォードシャーにいるでしょう」
「そういうところだけは、まだ子供ね」
母はそれ以上追及せずに部屋を出ていった。エドワードも呼び止めなかった。




