第5話(前編)「西部から来た大商人」 1799年6月1日~6月10日
1799年6月2日、アルバニーのカーター家に、ジョナサン・ポーターという実業家から手紙が届いた。
ポーターは45歳で、ピッツバーグを拠点に造船、河川運送、倉庫業を営んでいた。現在はニューヨークに滞在しており、3月に試験航行を成功させた蒸気船の技術について、イーサン・マーサーと直接話したいという。
手紙には、6月4日にアルバニーを訪問したいと書かれていた。
「義兄さん、ジョナサン・ポーターという商人を知っているかい」
イーサンが尋ねると、ダニエルは手紙に目を通した。
「名前は聞いたことがある。西部の運送で手広く商売をしている男だ。うちの取引先にも、あの男を知っている者がいるはずだぞ」
「それなら、支払いの評判を調べてもらえるかな。僕の技術を使いたいそうなんだ」
「分かった。今度も大きな商談になりそうだな」
「相手の信用と資金力を確かめてからだよ。船を何隻持っていても、約束した金を払わない相手では困るからね」
翌日、ダニエルは取引先から得た情報を持ち帰った。ポーターは複数の船を所有し、船の建造や倉庫の整備にも投資している。支払いの評判も悪くなかった。
イーサンは面会を承諾した。
◇ ◇ ◇
6月4日、ポーターは2人の部下を伴ってカーター家を訪れた。
大柄で日焼けした顔をしており、上質な服を着ていたが、気取ったところはなかった。イーサンが挨拶すると、力強く握手を求めてきた。
「君がマーサー君か。新聞で読んだ時には、もっと年上の技師を想像していたよ」
「初めまして。お手紙では、オハイオ川で蒸気船を使いたいと書かれていましたね」
「そうだ。私は長年、川の運送をやってきたが、下流へ荷物を運ぶのと、上流へ戻すのとでは、費用がまるで違うのだよ」
ポーターは持参した地図を広げた。
オハイオ川では、平底船に大量の荷物を積んで下流へ運ぶことができた。しかし、上流へ戻るには大変な労力が必要だった。竜骨船なら船員が竿で川底を押し、岸から綱で引いて上ることもできるが、人手と時間がかかる。
「蒸気船なら上流へも自力で進める。定期的に往復できれば、荷物だけでなく人も運べるようになるだろう。私はピッツバーグからシンシナティ、その先まで航路を広げたいと思っている」
「下流へ荷物を運ぶだけだった川が、双方向の運送路になるわけですね」
「まさにそれだ。私は蒸気船を1隻造って満足するつもりはない。採算が合えば何隻でも増やしたい」
イーサンは相手の話を聞きながら、蒸気船が西部にもたらす変化を考えた。
農産物を下流へ運ぶだけでなく、上流の町へ機械や鉄製品を運べるようになれば、川沿いの商売は大きく変わる。輸送日数が短くなれば、商人が倉庫に商品を寝かせておく期間も減らせる。
ポーターは、すでに必要な船と取引先を持っている。技術を提供する相手としては申し分なかった。
「それで、私から提案がある。君の発明を2万ポンドで買い取りたい。代金は契約時に全額支払おう」
ダニエルは驚いてポーターを見た。
しかし、イーサンは迷わなかった。
「ありがたいお申し出ですが、発明そのものを売るつもりはありません」
「2万ポンドだぞ。君ほど若ければ、一生遊んで暮らせるほどの金額だ」
「僕は遊んで暮らしたいわけではありません。それに、あなたが欲しいのは発明の所有権ではなく、蒸気船を使って利益を得る権利でしょう」
ポーターは興味を示した。
「では、どういう条件なら契約できるのかね」
「オハイオ川と、契約書で指定する支流で5年間独占して使う権利を、1万ポンドでお売りします。船の建造費や運航費はそちらで負担してください」
「2万ポンドを断って、1万ポンドで使わせるというのか」
「はい。あなたは契約区域で自由に船を増やせます。僕は発明の権利を持ち続ける。それで十分ではありませんか」
「ほかの船主が同じ技術を使いたいと言ってきたら、どうする」
「契約期間中は、指定した水域で別の事業者へ許諾しません。ただし、他人が独自に開発した技術まで禁止できるわけではありません」
「船は何隻造ってもよいのかね」
「あなた自身の事業に使う船なら、隻数による追加料金は求めません。ただし、使用権を別の事業者へ譲ることは認めません」
ポーターは椅子にもたれ、しばらく考えた。
「君は面白い商人だな。2万ポンドを受け取れば、それで大金持ちになれる。それなのに、発明を手放さないとは」
「同じ技術がほかの地域でも役に立つなら、別の契約ができますからね」
「なるほど。私も、発明を所有しなくても事業は始められる。むしろ1万ポンドで複数の船を動かせる方がありがたいかもしれん」
ポーターは技師と法律家に条件を確認させると約束した。
イーサンは技術の詳しい図面を見せず、すでに公表されている試験結果と使用許諾の条件だけを渡した。商談が成立する前に、設計資料を引き渡す理由はなかった。
◇ ◇ ◇
6月8日、イーサンはアシュフォード司祭の家を訪れた。
以前から約束していた、エレノアとの焼き菓子作りをするためだった。
台所には小麦粉、卵、砂糖、バター、シナモンが用意されており、エレノアの母親も一緒にいた。
「マーサーさんは機械のことならお得意だそうですが、お菓子は初めてなんですってね」
「ええ。食べる方は得意ですが、作った経験はほとんどありません」
「それなら、今日はエレノアの言うことをよく聞いてくださいね」
エレノアは小麦粉の量を量り、イーサンへ材料を渡した。
イーサンは教えられたとおりに混ぜ始めたが、力を入れすぎて生地を練ってしまった。
「そんなに強く混ぜなくても大丈夫ですよ。もう少し優しく扱ってください」
「なるほど。力を加えればよいというものではないんですね」
「そうです。今日は私の方が先生ですね」
「それなら、優しい先生でお願いします」
「ちゃんと言うことを聞いてくださるなら、優しくしますわ」
2人は笑いながら生地を整え、焼き型へ入れた。
焼き上がるまでの間、エレノアの母親がお茶を用意してくれた。イーサンはエレノアの幼いころの話を聞き、自分も姉夫婦に育てられたころの思い出を話した。
「アンさんから伺いましたけれど、マーサーさんは小さいころから本が大好きだったそうですね」
「ええ。読み始めると時間を忘れてしまって、姉さんによく叱られました」
「今でも同じなのでしょうか」
「最近は気をつけています。でも、面白い本を見つけると、つい夢中になりますね」
「それなら、今度は私が食事の時間を教えて差し上げます」
イーサンは、彼女がそんなことを自然に口にするのを嬉しく思った。
やがて菓子が焼き上がり、台所にバターとシナモンの甘い香りが広がった。
「きれいに焼けましたね。これなら僕にも自慢できそうです」
「今日は私が手伝いましたからね。次はお1人で作ってみてください」
「その時は、ぜひ味見をお願いします」
「喜んで。でも、おいしくなかったら正直に申し上げますよ」
「それは手厳しいですね」
エレノアの母親も一緒になって笑った。
商談を成功させる楽しさとは違うが、イーサンはこうした時間も好きになっていた。
◇ ◇ ◇
6月10日、ポーターから返事が届いた。
技師たちもイーサンの推進装置に関心を示しており、使用許諾契約について本格的に交渉したいという内容だった。
ところが同じ日、ニューヨークの法律家からも手紙が届いた。
機械製造業者アイザック・フレッチャーという男が、イーサンの装置と同じ性能を持つ機械を製造できると主張し、各地の船主へ売り込みを始めているという。
さらに、3月の蒸気船改造に参加した職人から、設計図を買い取ろうとしたとの報告もあった。
イーサンは法律家へ事実関係の調査を依頼した。
フレッチャーが独自の装置を開発したのなら、それを売るのは自由だ。しかし、イーサンの設計資料を無断で持ち出そうとしているなら、話は別だった。
ポーターとの交渉は予定どおり進める。
競争相手が現れたからといって、大きな商談を諦めるつもりはなかった。




