第10話(前編)「英国へ帰る」 1782年10月1日~10月31日
1782年10月、グレイミア号は大西洋を北へ進んでいた。
喜望峰を回ってからは大きな嵐にも遭わず、風にも恵まれている。インドへ向かった時とは違い、敵船を見つけても航路を外さず、補給に必要な寄港だけを済ませて英国を目指していた。
ある朝、カートライトが海図と航海日誌を持って船室へ入った。
「このまま天候が大きく崩れなければ、今月中には英国沿岸へ着けます。喜望峰から先は予定より順調です」
「ありがたい。アメリアには仕事を理由に帰国を延ばすなと書かれている。ここまで来て11月まで海の上にいたら、さすがに言い訳ができない」
「今回は私からも、寄り道をしていないと証言できます」
「本当にしていないんだから、証言までは要らないだろう」
「伯爵はインドへ向かう途中でも、最初は寄り道をしないとおっしゃっていましたからな」
エドワードは笑った。
「今度は事情が違うよ。双子の顔をまだ見ていないし、息子とも1年以上会っていない。敵船を1隻捕まえるために帰宅を何日も遅らせる気にはならない」
「そこまでおっしゃるなら、私も安心して英国まで運べます」
カートライトは航海日誌を持って船室を出た。
机の上には、インドから持ち帰る帳簿や報告書が何冊も積まれていた。エドワードは出航前から東インド会社の経営に深く関わっていたが、今はマドラスとカルカッタの現場を自分の目で見ている。会社員だけでなく、現地商人や船主とも直接取引し、倉庫に滞った商品や支払いの遅れまで扱った。
ロンドンへ戻れば、会社の経営について出発前より具体的な話ができる。
ただ、帰国が近づくにつれて、船室で会社のことばかり考える時間は減っていた。
アメリアから届いた手紙を読み返し、2歳を過ぎた息子がどれほど大きくなったのか、まだ会ったことのない双子がどちらに似ているのかを考えることの方が増えていた。
◇ ◇ ◇
10月下旬、見張りが英国の陸地を見つけた。
甲板へ出ると、灰色の海の向こうに海岸線が見えた。英国を離れたのは前年7月である。1年3か月近くたって、ようやく帰ってきた。
カートライトも隣へ来た。
「これで英国まで戻ってきましたな」
「ああ。さすがに長かった」
「次にインドへ行かれる時は、もう少し短い仕事にしていただきたいものです」
「次は人を送ることも考えるよ。今回は現地を知らないまま会社を動かしたくなかったから自分で行ったが、毎回僕が船に乗る必要はない」
「その言葉は忘れないようにしておきます」
「君までアメリアと同じことを言うのか」
「船長は航海中の出来事を記録するものですから」
「僕の発言まで航海日誌へ書かなくていい」
数日後、グレイミア号はテムズへ入った。
両岸には倉庫や造船所が続き、荷船や小舟が行き交っている。冷たく湿った空気まで懐かしかった。
船が係留場所へ近づくころ、迎えの小舟も見えてきた。
その中にアメリアがいた。
エドワードは手すりへ寄った。
手紙では回復したと分かっていた。それでも、自分の足で立っている妻を実際に見ると、胸の奥に残っていたものがようやく消えた。
小舟が横付けされ、アメリアが甲板へ上がった。
「随分日に焼けましたね」
アメリアが最初に言った。
「君は本当に元気になったんだな」
「私より先に自分の顔を心配した方がよいのではありませんか。出ていった時より少し痩せていますよ」
「船の食事が悪かったとは言わないよ。カートライトが近くにいるからね」
「それならハロウデンへ戻ってから食べてもらいます。あなたの分まで用意してありますから」
エドワードは妻を抱いた。
「会えてよかった」
「私もです」
それだけで十分だった。
アメリアの後ろには乳母たちがいた。
長男は2歳を過ぎ、父親が最後に見たころとは背丈も顔つきも変わっている。
エドワードは腰を落とした。
「大きくなったな。僕のことは覚えているか?」
息子は母親を見上げてから、エドワードへ視線を戻した。警戒しているわけではないが、すぐに抱きついてくるほどでもない。
「あなたが出た時は、まだ1歳でしたから。顔まで覚えているかは分かりませんよ」
「それは少し寂しいな」
エドワードが手を差し出すと、息子はしばらく眺めた後、自分から近づいてきた。
抱き上げた途端、上着の金具へ手を伸ばす。
「そこは変わらないらしい」
「お父様より、その金具を覚えていたのかもしれませんね」
「今日くらいは僕を覚えていたことにしてくれ」
双子は乳母たちに抱かれていた。
2月に生まれてから8か月近くたっている。何度も手紙で様子を読んだが、実際に顔を見るのは初めてだった。
「こちらが姉で、こちらが妹です」
アメリアが教える。
エドワードは2人を見比べた。
「似ているな。これは最初のうちは間違えそうだ」
「毎日見ていれば分かります。間違えられるのも今のうちだけにしてください」
「努力するよ」
乳母から1人を受け取ると、腕に力が入った。
アメリアが抱き方を直した。
「そんなに構えなくても大丈夫です。長男を抱いたこともあるでしょう」
「あのころより小さく感じるんだ」
「あなたが大きくなったわけではありませんよ」
「分かっている」
娘の小さな手が上着へ伸びた。
今度はエドワードから指を差し出した。
娘はその指を握った。
「これは僕の方を選んだな」
「赤ちゃん相手に何を競っているのです」
アメリアが笑った。
◇ ◇ ◇
数日後、一家はハロウデンへ戻った。
長男は屋敷の廊下を自分で歩き、ときには乳母を置いて走ってしまう。双子はまだ乳母に抱かれていることが多いが、人の声を聞けば顔を向けるようになっていた。
わずか1年余り離れていただけなのに、家の中では時間が大きく進んでいる。
夕食後、子供たちが寝室へ連れていかれると、エドワードはアメリアと居間に残った。
「病気の時のことを聞いてもいいか」
「あなたが気にしているのは分かっています。ただ、私自身も高熱を出していたころは、覚えていないことが多いのです」
「カルカッタで最初の手紙を読んだ時には、3か月前の君が高熱を出して危ないとしか書かれていなかった。何もできないのに、その後どうなったのかも分からなかった」
「母上から聞きましたが、医師もかなり心配していたそうです。私が自分で覚えているのは、熱が下がり始めてからの方が多いですね」
「本当に危なかったんだな」
「でも助かりました。双子も無事で、あなたも帰ってきました。今はそれでよいでしょう」
エドワードはそれ以上聞かなかった。
アメリアが紅茶を注いだ。
「東インド会社へは、いつから戻る予定ですか?」
「3日後に取締役会がある。それには出るよ。インドから持ち帰った話もあるし、長く休むわけにもいかない」
「帰って3日ですか。あなたとしては、かなり長く休んだつもりなのでしょうね」
「少なくとも今日は仕事をしていない」
「それなら今日は合格にしておきます」
「また採点が始まったのか」
「あなたが留守の間に、採点する項目が増えました」
エドワードは紅茶を飲んだ。
「当分、インドへ行く予定はないよ。会社の現場は見た。これから手を入れるならロンドンの方だ」
「では、少なくとも同じ国にはいてもらえるのですね」
「ああ」
「それなら結構です」
その夜、エドワードはインドから持ち帰った帳簿を開かなかった。




