第9話(後編)「18歳まで開けるな」 1782年9月1日~9月30日
9月に入っても、レベッカの熱は下がらなかった。
傷口の腫れは広がり、数日たつと自分で起き上がるのも難しくなった。医師は傷を洗い、包帯を替えながら様子を見たが、状態は少しずつ悪くなっていった。
アンはほとんど母の寝室で過ごした。
ダニエルは食糧や薬を集める一方で、サミュエルと幼い末の息子の世話も引き受けた。避難したばかりで自分たちの暮らしさえ落ち着いていなかったが、そのことでレベッカへ負担を感じさせるような言葉は口にしなかった。
ある夕方、レベッカはアンに、2人だけで話したいことがあると伝えた。
ダニエルは理由を尋ねず、サミュエルと幼い子供を別室へ連れていった。
「この前預けた木箱を持ってきてちょうだい。今のうちに、あなたへ説明しておきたいことがあります」
アンは木箱を持って戻り、母から鍵を受け取った。レベッカは手に力が入らなかったため、箱を開けるところから娘へ頼んだ。
中には信託に関する書類と、封をされた手紙が入っていた。
「末の子のために、英国で10万ポンドを信託に入れてあります。今すぐ自由に使える金ではなく、あの子が大人になるまで守られるようにしてあるの。詳しい条件は、この書類に書いてあります」
アンは金額を聞いて母の顔を見た。
「10万ポンドもあるのなら、私たちにも少しくらい話しておいてくれてよかったでしょう。戦争の途中で書類をなくしていたら大変だったわ」
「だから今回、あなたに預けたのよ。小さな子に大きな財産があると周囲へ知られても良いことはありません。必要になるまでは、できるだけ余計な人に話さないで」
「分かったわ。ダニエルと私で守ります」
レベッカは箱の底にある封書へ目を向けた。
「それから、この手紙はお金より大切です。あの子が18歳になるまで、絶対に開けないでください。あなたもダニエルも、中を見てはいけません。18歳になった日に本人へ渡してほしいの」
アンは封筒を手に取り、表に書かれた注意書きを読んだ。
「私にも内容を話さないつもりなのね」
「あなたを信用していないからではありません。あの子自身が大人になってから知るべきことだから、今は誰も知らない方がいいの」
アンは母の顔をしばらく見たが、それ以上は聞かなかった。
「分かったわ。私は開けないし、ダニエルにも開けさせない。18歳になったら、必ず本人へ渡します」
「ありがとう。それを聞ければ安心できるわ」
「安心するのはいいけれど、自分で渡すつもりでもいてちょうだい」
レベッカは娘の手を握った。
「もちろん、そのつもりよ」
◇ ◇ ◇
翌日、レベッカはダニエルにも木箱のことを伝えた。
信託の金額と、18歳まで開けてはならない封書があることだけをアンから説明されると、ダニエルは箱の中身をそれ以上詳しく知ろうとはしなかった。
「事情をすべて伺う必要はありません。アンと私で保管して、封書は18歳まで開けません。その時が来たら本人へ渡します」
「あなたには、ずいぶん面倒な家族を任せることになってしまったわね」
「アンと結婚した時から、サミュエルもあなたも私の家族です。あの子だけを別に考える理由もありません」
「そう言ってもらえると安心します」
「書類のことも子供たちのことも、私たちで守ります。今はご自分の体のことだけ考えてください」
レベッカはしばらくダニエルを見た後、少し笑った。
「アンは良い人を選んだわ」
「その言葉は、本人のいる前でも時々言っていただけると助かります」
そこへ部屋の外にいたアンが顔を出した。
「ちゃんと聞こえているわよ」
レベッカも笑い、しばらくぶりに寝室の空気が和らいだ。
◇ ◇ ◇
9月中旬になると、レベッカは食事をほとんど取れなくなった。
熱が一時的に下がることはあっても、体力は戻らない。
幼い末の息子は母親が寝室にいることを覚え、廊下へ出るたびにその扉へ近づこうとした。アンはレベッカの具合が比較的よい時間を選び、少しだけ会わせるようにした。
その日も、男の子は寝台のそばへ座らされると、母親の顔をしばらく見ていた。やがて枕元に置かれていた鍵へ手を伸ばした。
「これは、まだあなたには早いわ」
レベッカは鍵を取り、アンへ渡した。
男の子は、その鍵がアンの手から衣服のポケットへ入るところまで目で追った。
アンが感心した。
「本当によく見ているわね。何をどこへ置いたのか、いつも覚えているみたい」
「サミュエルが毎日のように試すからでしょう」
戸口にいたサミュエルが反論した。
「僕が教えたんじゃないよ。この前も、いつもと違う箱へ木の駒を入れたのに、次の日にはちゃんとそこへ行ったんだから」
レベッカは息子の髪へ手を置いた。
「覚えることが多いのは悪いことではないわ。でも、本当に大事なのは覚えたものをどう使うかよ。あなたが大きくなったら、それを教えてくれる人の話をよく聞きなさい」
幼い息子に言葉の意味は分からなかっただろう。
それでも、母親が話している間は顔をそらさなかった。
◇ ◇ ◇
9月21日の朝、レベッカの容体が急に悪くなった。
呼吸が浅くなり、まとまった言葉を話すのも難しくなったため、アンは寝台のそばから離れなかった。ダニエルとサミュエルも部屋へ入り、幼い末の息子だけは近所の女性に預かってもらった。
昼前、レベッカは目を開いた。
「アン、まだそこにいるのね」
「もちろんよ。今日はどこにも行かないわ」
レベッカはサミュエルの方へ顔を向けた。
「あなたも、これからはダニエルを手伝って、アンばかり困らせないようにしなさい」
「分かってるよ。ちゃんと手伝う」
「今度は本当に守りなさいね」
サミュエルは涙をこらえながら頷いた。
レベッカは次にダニエルへ目を向けた。
「この子たちをお願いします。アン1人に全部背負わせないであげてください」
「もちろんです。家族のことはアンと私で守ります。何も心配なさらなくて大丈夫です」
「ありがとう」
レベッカは娘の手を握った。
「あなたには、最後まで頼んでばかりね」
「親子なんだから、今さらそんなことを言わないで。私がお母さんに頼った回数の方がずっと多いでしょう」
「それなら、お互いさまね」
しばらく休んだ後、レベッカは末の息子も連れてきてほしいと頼んだ。
アンが幼い子供を抱いて寝台のそばへ座ると、レベッカは腕を伸ばし、その頬へ触れた。
「大きくなりなさい。元気でね」
それ以上、父親について何かを話すことはなかった。
その子が18歳になった時に知るべきことは、英国から持ってきた封書の中に残してある。
夕方、レベッカはアンたち家族に見守られながら息を引き取った。
◇ ◇ ◇
葬儀を終えた後、アンとダニエルは木箱を自分たちの寝室へ移した。
10万ポンドの信託に関する書類と封書を確かめ、湿気を避けるため布に包んで箱へ戻した。
アンは鍵をかける前に、封筒の表に書かれた言葉をもう一度読んだ。
18歳になるまで開けてはならない。
「母がここまで念を押したのだから、この子にとって相当大切なことが書いてあるのでしょうね」
ダニエルは妻の隣で箱を見た。
「だからこそ、今は知らなくていいのでしょう。約束どおり18歳になった時に本人へ渡せば、それでいいと思います」
「ええ。そうしましょう」
アンは箱を閉じ、鍵をかけた。
隣の部屋では、幼い弟を相手にサミュエルが遊んでいた。末の息子には、母親がもう戻らないことも、寝室に置かれた木箱が自分の人生を変えることも、まだ理解できるはずがなかった。
◇ ◇ ◇
同じ9月、グレイミア号は喜望峰を回って大西洋へ入った。
荒い海を抜けた後は風にも恵まれ、船は北へ進んでいた。
カートライトが航海日誌を持って船尾甲板へ来た。
「喜望峰を無事に越えました。このまま大きく天候を崩さなければ、予定より早く英国へ戻れる可能性があります」
「それはありがたい。アメリアには仕事を理由に帰国を延ばすなと言われているし、僕もできるだけ早く子供たちを見たい」
「今回ばかりは本当に寄り道をしておりませんから、奥方にも胸を張っていただけますな」
「敵船が向こうから来なかったおかげでもあるけどね」
カートライトは笑った。
エドワードは北へ続く海を眺めた。
その先の英国では、アメリアと3人の子供が帰りを待っている。
そして大西洋のさらに向こうでは、レベッカがすでに亡くなっていた。
その知らせがエドワードへ届くのは、まだ先のことだった。




