第9話(前編)「帰る船は寄り道しない」 1782年7月1日~7月31日
1782年7月初旬、グレイミア号はフーグリー川を下っていた。
岸に並んでいた倉庫や家々が次第に遠ざかり、茶色く濁った川の先に海が近づいてくる。カルカッタでの引継ぎを終えたエドワードは甲板に立ち、見送りに来た会社員たちを乗せた小舟が岸へ戻っていくのを眺めていた。
出航準備を取り仕切ったカートライトが、航海日誌を持ってやってきた。
「予定どおり出られました。船体にも帆装にも問題はありません。寄港は必要最小限にして、喜望峰を回った後は英国へ向かいます」
「それでお願いします。来る時には敵船まで捕まえたが、帰りは家へ着くことを最優先にしたい」
「そのお言葉は航海日誌へ残しておきたいところですな。後になって敵船を見つけたから追うと言われても困ります」
「そこまで信用がないのか」
「伯爵の戦果を実際に見ておりますので、船長として用心しているだけです」
エドワードは笑った。
「向こうから撃ってくるなら相手をするが、こちらから何日も追い回すつもりはないよ。アメリアには、仕事を理由に帰国を延ばすなと書かれたばかりだからね」
「奥方からそこまで念を押されているのであれば、私も安心して西へ船を向けられます」
カートライトは船尾へ戻った。
やがてグレイミア号は河口を抜け、外海へ出た。
エドワードはインドの陸地が見えなくなるまで甲板に残った。ただし、名残を惜しんでいたわけではない。現地で見るべきものは見たという思いの方が強く、頭の中ではすでにロンドンへ戻った後の仕事へ意識が移っていた。
◇ ◇ ◇
同じころ、ロンドンではウェッブが東インド会社の取締役名簿を机へ広げ、アシュコームとベルを相手に今後の段取りを詰めていた。
1年前には、取締役の中で明確にエドワードへ近いと言えるのは2人ほどしかいなかった。しかし戦時の輸送契約に続き、インドから届いた報告によって空気は変わっている。
エドワードは自分の商売で大きな利益を得ながら、東インド会社にも利益を残した。さらにインドへ渡ると、占領した港をすぐ商売へ戻し、マドラスとカルカッタで商品や船、金の流れを改善した。その結果が届くたびに、若い伯爵が金に任せて会社へ入り込もうとしているだけだと考える者は減っていた。
ベルは名簿を見ながら言った。
「ここまで実績が出れば、伯爵を個人的に好むかどうかは重要ではありません。会社が儲かる案を出した時、誰が賛成するかを見ればよいでしょう」
アシュコームも同じ考えだった。
「取締役全員を伯爵の友人にする必要はありません。利益が出る限り同じ側に立つ者を増やせば、会社は動かせます」
ウェッブは名前の横につけた印を確認した。
「以前からこちらへ近かった者に加えて、インドからの報告を見て態度を変えた取締役もおります。まだ様子を見ている者もいますが、伯爵が帰国して直接話せば、さらに動くでしょう」
ベルは名簿を自分の方へ引き寄せた。
「ここで無理に賛否を迫る必要もありません。反対する理由のない案件を積み重ねていけば、いつの間にか伯爵の考えが取締役会の普通の方針になります」
「本人が聞けば、その方が安く済むと言うでしょうな」
ウェッブは名簿を重ねた。
「帰ってきてから最後の仕上げをしていただきましょう。それまでに、こちらで話のできる相手を増やしておきます」
◇ ◇ ◇
7月半ば、グレイミア号はインド洋を西へ進んでいた。
風は安定し、船足も悪くない。エドワードは午前中に航海報告へ目を通し、午後になるとインドから持ち帰る帳簿や報告書を整理した。
現地商人の名前や細かな契約をすべてロンドンまで持ち帰る必要はない。英国で役立つのは、どこへ金を出せば人が動き、どこをロンドンから細かく縛ると現地の仕事が遅れるのかという経験だった。
ある午後、見張りが南西に2つの帆を見つけた。
カートライトが望遠鏡で確認したところ、国籍までは分からないものの、相手はこちらへ近づかず、西へ向かっている。
「今のところ、こちらの航路へ入ってくる様子はありません。追えば正体を確認できるでしょうが、その分だけ航海は遅れます」
船尾甲板へ上がってきたエドワードは望遠鏡を受け取り、遠くの帆をしばらく見た後で返した。
「放っておきましょう。向こうがこちらへ来るなら相手をするが、わざわざ追いかけて帰国を遅らせるほどの理由はない」
「承知しました。このまま西へ進みます」
「母からは海で余計なことをするなと言われ、妻からは早く帰れと言われている。両方を無視して帰ったら、敵船より厄介だよ」
カートライトは笑った。
「ようやく海より御家族の方が怖くなられましたか」
「海なら大砲で話がつくからね」
2隻の帆は夕方までに水平線の向こうへ消え、グレイミア号は航路を変えなかった。
◇ ◇ ◇
7月末、船上に強い雨が降った。
帆布を打つ雨音が続く中、エドワードは船室でアメリアへの手紙を書いていた。
カルカッタを出て帰国の途中にあることに加え、今回は正体の分からない船を見つけても追わなかったことまで書いた。
双子の娘をまだ見たことはなく、2歳になった息子とも1年以上会っていない。アメリアが高熱を出した時には、何か月も前の知らせを手に、妻が生きているのかさえ分からないまま次の便を待つしかなかった。その距離を、今は船で1日ずつ戻っている。
手紙の最後に、エドワードは少し考えてから書き加えた。
「カートライトが証人です。今回は本当に寄り道をしていません。帰った時に双子が僕を見て泣いたら、知らない男ではなく父親だと説明してやってください」
読み返してから封をした。
この手紙が別の船に託されて英国へ着くころには、自分自身もかなり近くまで帰っているはずだった。




