第6話(中編)「マドラスへ着いた男」 1781年11月1日~11月30日
11月に入ると、海の色も空気も変わった。
喜望峰を回った船団はインド洋を東へ進み、北へ向かうにつれて気温も上がっていった。水夫たちの上着は次第に薄くなり、甲板では冷たい雨より強い日差しを気にするようになっている。
11月後半、見張りが陸影を報告した。
長い航海の終わりが見え始めた。
エドワードは甲板へ出ると、しばらく望遠鏡も使わず海の向こうを眺めた。
「ようやく着きますな」
カートライトが隣へ来た。
「ああ。英国を出た時より船が3隻増えているけどな」
「普通の船団なら、航海中に船を減らさず目的地へ着くだけで十分成功なのですが」
「増えたなら、もっといいだろう」
「伯爵の航海を基準にされると、ほかの船主が困ります」
船団はマドラスへ向かった。
◇ ◇ ◇
入港した船団は、すぐに人目を引いた。
英国から来た輸送船だけではない。明らかにオランダ式の大型船と中型船が3隻混じり、そのすべてに英国旗が上がっている。
岸には会社関係者、兵士、商人、荷役人夫が集まり始めた。
エドワードはグレイミア号から小艇へ移り、上陸した。
出迎えに来た東インド会社の現地幹部は、伯爵本人より先に沖の船を見た。
「ロンドンから輸送船団が来ることは聞いておりました。しかし、オランダ船まで3隻連れて来られるとは聞いておりません」
「英国を出た時にはありませんでした。途中で敵船を拿捕したんです。銀と軍需品を積んでいましたし、帳簿や契約書もかなり残っています」
現地幹部は改めて沖を見た。
「それは総督府で詳しく伺いましょう」
「その前に、銀と書類には会社の印を付けてください。僕自身の財産と会社の取り分を最初から分けておきたい。後になって所有を巡って揉めるのは避けたいんです」
「上陸して最初に会計の話をされるとは思いませんでした」
「金の持ち主は最初に決めておいた方が楽ですよ。それから、拿捕船の積荷も勝手に売らないよう命令してください。残っている帳簿を調べれば、こちらが会うべき商人も分かります」
現地幹部はもう一度、若い伯爵の顔を見た。
◇ ◇ ◇
その日の午後、エドワードは会社側の会議へ出席した。
長い航海の直後なのだから翌日まで休むよう勧められたが、本人にその気はなかった。
「何か月も船に乗ってきました。休む時間なら十分ありました。今日から始めましょう」
机には南インドの地図、港湾記録、補給一覧が広げられた。
現地側が最初に説明したのは戦況だった。
各地で戦争が続き、船、食糧、火薬、衣服、修理用品の需要が増している。敵国となったオランダが持つ港や商館も、今後の軍事と貿易の両方で無視できない存在だった。
一通り説明を聞き終えると、エドワードは持参した帳簿を机へ置いた。
「こちらでも、航海中に相手方の事情を調べてきました」
厚い帳簿を開く。
「この商人、この金融業者、この船主、それからこの倉庫業者。オランダ側との取引額が大きい順に並べています。拿捕した船から出てきた記録です」
現地幹部の1人が紙を手に取った。
「この人物まで載っているとは思いませんでした。コロマンデル海岸ではかなり大きな商人です。オランダ側だけでなく、現地の有力者とも取引があります」
「それなら、まずこの人から会いましょう」
「長年オランダ側と取引してきた人物です。簡単に英国側へ移るとは思えません」
「断るかどうかを決めるのは相手です。こちらが会う前から諦める必要はありません」
別の幹部も口を挟んだ。
「伯爵。ここはロンドンではありません。銀を見せれば長年の取引関係を捨てるほど、単純な商人ばかりではありませんぞ」
「だから銀だけで動かそうとは考えていません」
エドワードは別の帳簿を開いた。
「オランダ側がいつ支払い、どの程度遅れ、何をいくらで買ったかまで残っています。相手の商売を知ったうえで、こちらの条件を出します」
「拿捕した帳簿を、航海中にそこまで調べてこられたのですか」
「海の上では商談ができませんから、その代わりに読んできました」
エドワードは翌朝から商談を始めるよう求めた。呼んでも来ない商人には、自分から会いに行くつもりだった。
◇ ◇ ◇
翌日、最初の商談が始まった。
相手は織物、船用品、食糧を扱う大商人だった。
通訳を挟んだが、エドワードは相手の顔を見ながら話した。
机にはオランダ側の帳簿が開かれている。
「あなたは昨年、オランダ商館へこれだけの織物を納めています。支払いは3回に分けられ、最後の分は予定よりかなり遅れていますね」
商人は帳簿を確認した。
「敵から奪った帳簿を持って、私に取引先を変えろとおっしゃるのですか」
「そこまでは求めません。オランダ側との取引を続けたいなら続けてください。そのうえで、英国側の条件も一度見ていただきたい」
エドワードは別紙を差し出した。
「同じ品質なら、これまでオランダ側へ納めていた価格より少し高く買います。納品を確認すれば、支払いも待たせません。最初の分については銀で決済できます」
「英国東インド会社は、支払いが遅れることもあると聞いております」
「期日を過ぎても会社から支払いがなければ、その分は僕個人が保証します」
会社側の同席者が思わずエドワードを見た。
商人も表情を変えた。
「東インド会社ではなく、伯爵御自身が保証されるのですか」
「契約書へ明記します。その代わり、こちらも品質と納期については譲りません。質を落とした品は買いませんし、約束した日を守れない場合には次の契約を見直します」
商人は契約書を読み直した。
「私は長くオランダと商売をしてきました。英国側へ大きく移れば、戦争が終わった後に困る可能性もあります」
「だから最初から全部をこちらへ売る必要はありません。まず1度取引をして、僕たちが本当に約束どおり払うか確かめてください。その後をどうするかは、それから決めればいい」
商人はさらに契約書を読み、最初の取引を受けた。
◇ ◇ ◇
その日のうちに、エドワードは4人と会い、翌日にはさらに6人と商談した。
全員が英国側との契約を選んだわけではない。長年の関係を理由に、オランダ側との取引を変えるつもりはないと明言する商人もいた。
そうした相手には無理に翻意を迫らず、事情が変わった時には再び話を聞いてほしいとだけ伝えた。財産を取り上げることも、取引を断ったことを理由に圧力を加えることもしなかった。
その対応も、商人同士の間で伝わっていった。
一方、契約した相手への支払いは早かった。
拿捕船から得た銀の一部が会社側の管理下で決済に使われ、納品を終えた商人は約束どおり代金を受け取った。
3日後、最初に契約した商人が自分から再び訪ねてきた。
「次の荷についても、英国側の条件を伺いたいと思います」
「ちょうど、こちらからもう一度お願いしようと思っていました」
「最初の代金が本当に期日どおり支払われましたので。初めての相手ですから、そこを見極めたかったのです」
「それは当然でしょう。僕だって初めて取引する相手なら、同じように見ますよ」
2回目の契約は、最初より大きくなった。
◇ ◇ ◇
11月末。
エドワードがマドラスへ到着してから10日ほどで、拿捕船から得た名簿の上位20人のうち半数以上と直接会っていた。
港では英国船とともに、3隻の拿捕船からの荷下ろしも進んでいる。
会社幹部の1人が帳簿を見ながら言った。
「伯爵が来られるまでは、オランダ側と長く付き合ってきた商人をこちらへ動かすには何か月もかかると考えていました。それが10日ほどで、これだけ契約が変わるとは思いませんでした」
「まだ半分です。動いていない商人も大勢います。ただ、商人も船も、待っている間に条件のよい相手へ動きます。こちらが早く条件を出すに越したことはありません」
外では荷役人夫の声が続いていた。
拿捕した銀を運び入れた倉庫から、今度は現地で買い付けた物資が港へ向かって運び出されていた。




