第5話(前編)「インドへ行く」 1781年7月1日~7月31日
1781年7月初旬。
ハロウデン・ハウスの朝食室には、開け放した窓から夏の風が入っていた。庭では芝を刈る音が続き、長い進入路の向こうからは、砂利を踏む馬車の車輪音がかすかに聞こえている。
エドワードはこのあとロンドンへ向かる予定だった。朝食を早めに済ませながら今日の予定を考えていたが、向かいに座るアメリアがほとんど料理へ手を付けていないことに気付いた。
「朝からほとんど食べていないな。体調が悪いなら、ロンドンへ出る前に医師を呼ぶぞ」
「昨日、もう診てもらいました。朝は食欲がありませんが、昼になると治まるので心配はいらないそうです。それから、今日あなたに話そうと思っていたことがあります」
エドワードは手にしていたナイフを皿へ戻した。
アメリアは少し間を置いた。
「2人目ができたようです。医師も、ほぼ間違いないだろうと言っていました」
エドワードは数秒、妻の顔を見たまま動かなかった。
「そうか」
「もう少し喜んでもらえると思っていました」
「驚いているんだよ。嬉しいに決まっている。ただ、まだ初めなんだろう。しばらくは無理をしない方がいい。大勢の客を招くのも控えよう」
「自分の体については、あなたより慎重ですから大丈夫です」
「それなら安心した。嬉しいよ、本当に」
アメリアも笑った。
隣室から息子の声が聞こえた。前年3月に生まれた第1子は1歳を過ぎ、乳母に手を引かれれば自分で歩こうとするようになっている。
エドワードはその声を聞きながら、紅茶の杯へ手を伸ばした。
自分にも話しておかなければならないことがある。妊娠を知らされた直後にするには時機が悪かったが、黙ったまま準備を進めるわけにはいかなかった。
「喜んでいるところへ悪いが、僕からも大事な話がある。東インド会社の仕事で、インドへ行くことにした」
アメリアの表情が変わった。
「人を送るのではなく、あなた自身が行くのですね」
「ああ。最初はマドラスへ行く。南インドの戦争と、オランダやフランスの動きを自分で見たい。その後はカルカッタへ回るつもりだ。ロンドンで報告書だけ読んでいても、会社全体がどう動いているのか分からない」
「あなたが行く以上、ただの視察では済まないのでしょうね」
「視察だけなら僕が行く必要はないよ。向こうで船や物資の手配を決め、必要なら商人とも直接話す。そのための権限を会社から取るつもりだ」
アメリアはしばらく黙っていた。
「それなら、私と息子はハロウデンへ残ります。今の体で長い航海をする気はありませんし、1歳の子供を戦争中の土地へ連れていくのも嫌です」
「僕もそのつもりだった。ここにいてくれた方が安心できる」
「滞在はどれくらいになる見込みですか」
「1年で済ませたい。ただ、往復だけでも長い。向こうへ着いてみなければ分からないことも多いから、帰る時期までは約束できない」
アメリアは腹へ手を添えた。
「この子が生まれる時に、あなたがいない可能性もあるのですね」
エドワードは妻から目を逸らさなかった。
「間に合うなら帰る。ただ、守れるか分からない約束を今するのは嫌なんだ」
「分かっています。それでも必ず帰ってきてください。東インド会社をどれほど大きくしても、あなたが帰らなければ私には意味がありません」
「帰るつもりで行くよ」
「それなら信じます」
エドワードは席を立ち、妻のそばへ行った。
「留守の間、子供たちを頼む」
「私はこの子たちを守ります。あなたは、自分の命まで商売の元手にしないでください」
「それは少し難しい注文だな」
アメリアは笑わなかった。
「冗談にするところではありませんよ」
「分かった。できるだけ大事に使う」
「それなら結構です」
ようやくアメリアの表情が緩んだ。
エドワードは妻の額へ口づけた。
◇ ◇ ◇
同日の午後、ウェッブの事務所にはアシュコーム、ベル、モーダントが集まっていた。
大机の上にはインド洋の地図が広げられ、マドラス、カルカッタ、ボンベイのほか、セイロンやオランダ側の拠点も書き込まれている。
エドワードはアシュコームへ向いた。
「ロンドンからマドラスへ指示を送り、向こうの状況を受け取って次の判断をするまで、半年以上かかると考えた方がよいのでしょう?」
「順調でも、そのくらいは見ておくべきです。風や季節によってはさらに延びます。ただし現地には総督や評議会がありますから、何もかもロンドンへ問い合わせているわけではありません」
「そこは分かっています。ただ、マドラス、ベンガル、ボンベイでは事情が違い、ロンドンまで含めれば、それぞれが別の情報を見て動いている。会社全体の金と船をどう使うか考えるなら、一度は現地を横断して見る必要がある」
エドワードは地図上のマドラスを指した。
「僕が行きます」
モーダントが顔を上げた。
「とうとう御自身でインドまで行かれますか」
「そのつもりです」
ウェッブは驚く様子もなく帳簿を閉じた。
「6月からインド洋の地図を眺める時間が急に増えましたからな。船の手配まで始めた時点で、いずれ御自身で行くと言い出すだろうと思っていました」
「どうやら隠せてはいなかったようだな」
「長い付き合いですから」
アシュコームは地図を見たまま言った。
「問題は、どの立場で行くかです。伯爵は東インド会社の取締役ではありません。現地へ着いても、権限がなければ出来ることは限られます」
「だから出航前に、会社から正式な委任を取ります。船を1隻借りるたび、物資を買うたびにロンドンへ問い合わせるくらいなら、僕が行く意味はありません」
「十分な権限が得られない場合は、どうされるおつもりです?」
「その場合は行かない。別の人間を送ればいい」
ウェッブがわずかに眉を上げた。
「僕が持っていくのは伯爵の肩書だけではありません。自分の船があり、金もあり、500万ポンドの戦時信用枠も用意している。必要なら英国から追加の船や物資も集められる。それだけ動かせる人間を半年かけて現地へ送りながら、判断するたびにロンドンの返事を待たせるなら、最初から行かせない方がましです」
モーダントが笑った。
「会社側からすると、なかなか断りにくい条件ですな」
「僕も東インド会社のためだけに何か月も船へ乗るほど暇ではありません。そのくらいの条件は認めてもらわないと割に合わない」
ベルが苦笑した。
「理屈は分かりますが、取締役会ではもう少し穏やかに説明してください」
「もちろん、そのつもりですよ」
◇ ◇ ◇
取締役会との交渉は2日でまとまった。
エドワードが求めたのは、マドラスやベンガルの行政を好きに扱う権限ではない。現地の総督や評議会を飛び越えて、東インド会社の領地を統治するつもりもなかった。
求めたのは、戦時の輸送と商取引を途中で止めずに進めるための裁量である。
派遣船団の全体方針はエドワードが決め、海上の実務指揮はカートライトを中心とする船長たちが行う。現地で輸送船、食糧、修理資材、軍需物資が必要となった場合には、一定額までロンドンの事前承認なしで契約できる。オランダ船や商館、倉庫を接収した際には、軍事上必要な場合を除き破壊を避け、会社の利益へ利用する。
会社側も、何でも自由に任せるつもりはなかった。
「伯爵に大きな裁量を認めれば、我々が報告を受ける前に、現地で100万ポンド単位の契約が結ばれることもあり得ます」
取締役の懸念に、エドワードは正面から答えた。
「戦争の最中に100万ポンドを使う判断すらできない人間へ、1,000万ポンド規模の商売を守らせる方が危険だと思います。ただし、会社の行政権まで欲しいとは言っていません。どこまでを僕が決め、どこから先を現地評議会と協議するか、出発前にはっきり決めておきましょう」
「会社の財産を、ヘイル商会の利益になるよう勝手に処分されるのも困ります」
「そこは当然分けます。僕自身の商売と会社の財産を混同するつもりはありません」
細かな条件について双方が詰め、会社の行政権に関わる事項や一定額を超える大規模支出については、現地評議会との協議を必要とした。
それでも、戦時の輸送、補給、船舶調達、商取引を進めるには十分な権限だった。
署名を終えると、エドワードは書類を閉じた。
「これならインドへ行く意味があります」
ベルが笑った。
「会社を買い終える前に、会社から仕事を任されてインドへ行くことになりましたな」
「先に中身を見た方が、買う価値も分かるでしょう」
◇ ◇ ◇
出航準備では金を惜しまなかった。
ヘイルの私有艦隊から長距離航海に向く船を選び、東インド会社側の輸送船も加えた。船体、帆、索具、砲、水樽、保存食、医薬品まで改めて確認させ、長い航海に不安の残る船は外した。
カートライトは乗組員だけでなく、船大工、鍛冶、医師、熟練砲手も十分に乗せるよう求めた。
「インドへ着けば現地で雇える人間もいるが、そこまで行く間は自分たちで船を直せないと困るということだな」
「その通りです。喜望峰を回る前に帆柱が折れても、マドラスから船大工を呼ぶことはできません」
「必要なだけ乗せてくれ。航海については君に任せる」
「承知しました。船をマドラスまで運ぶことに関しては、こちらで責任を持ちます」
「ただし、陸へ上がった後の商売まで取り上げるなよ」
「そちらには興味がありません」
アシュコームの紹介で、インド勤務経験者も数人雇った。通訳だけではなく、現地の商習慣を知る者、ペルシア語を扱える者、商人の帳簿や契約を読める者も含めている。
現地で必要なのは、港や倉庫の場所だけではない。織物や農産物を集める商人、金融業者、荷役を取り仕切る者、宮廷や軍へ物資を納める者など、商売を実際に動かしている人間を知らなければならなかった。
出航日は7月27日と決まった。
◇ ◇ ◇
7月27日。
テムズには出航を待つ船が並び、グレイミア号の甲板では最後の積み込みと点検が続いていた。小舟が何度も往復し、水夫たちは索具を確認しながら出航の時を待っている。
見送りにはアメリアと息子、両親、キャサリン夫妻、エリザベス夫妻が来ていた。
母アンは、息子が小艇へ移る時が近づいても心配を隠そうとしなかった。
「これだけ船を連れて行くのですから、今度こそ自分で敵船の一番乗りをしないでちょうだい。あなたは船長でも水兵でもないのですよ」
「今回は東インド会社の仕事が一番です。必要もないのに前へ出るつもりはありません」
「その言い方では、必要があれば出るのでしょう」
「母上には敵いませんね」
「何年あなたの母親をしていると思っているの」
父リチャードが横から笑った。
「24歳の伯爵を、いつまで子供扱いするつもりだ」
「何歳でも私の息子です」
「それはそうだな」
エドワードは家族から少し離れ、アメリアのそばへ行った。
「寄港した時には手紙を出すよ。インドへ着いてからも書く」
「私も子供たちのことを知らせます。何か月遅れになるか分かりませんけれど、それでも書きます」
「ああ。頼む」
アメリアは夫の上着を整えた。
「もし、あなたが戻る前にこの子が生まれたら、名前は私が決めてもよいのですね」
「男でも女でも任せるよ。僕がいないからといって、名前を付けずに待たせるわけにはいかない」
「帰ってから気に入らないとは言わせませんよ」
「言わない。君なら妙な名前にはしないだろう」
アメリアは少し笑った。
「急いで無茶をする必要はありません。ただ、必ず帰ってきてください」
「仕事はできるだけ早く終える。ただし、帰るために無茶をして船を沈めたら意味がないからな」
「そういう意味で急ぐなと言っているのです」
「分かっているよ」
エドワードは妻を抱いた。
続いて息子を受け取ると、子供は父親の顔より上着の金具へ手を伸ばした。
「しばらく会わないんだから、少しくらい僕の顔を見てくれてもいいだろう」
「帰ってくるころには、もっと歩けるようになっていますよ」
アメリアが息子を受け取った。
エドワードは小艇へ移り、グレイミア号へ向かった。
甲板ではカートライトが出航準備を終えて待っていた。
「予定どおり、最初はマドラス。その後にカルカッタですな」
「ああ。今回は余計な寄り道をせず、まずマドラスへ着く」
カートライトは少し笑った。
「伯爵御自身の口からそう聞けたなら、出航前の不安が1つ減りました」
「敵船1隻に夢中になって、インド行きを遅らせるつもりはないよ」
「その予定で航路を組みます」
錨が上がり、帆が広がった。
船団はゆっくりとテムズを下り始めた。
エドワードは、岸に残る家族の姿が見えなくなるまで甲板を離れなかった。




