第4話(前編)「2席の値段」 1781年4月1日~4月30日
4月に入ると、ロンドンでは冬の重い空気がようやく薄れ始めた。公園の木々には若葉が出始め、日中には外套を脱いで歩く者も増えている。
しかし、ウェッブの事務所に春らしい気楽さはなかった。机には東インド会社の株主名簿、取締役候補の一覧、支持を約束した株主の記録が積まれている。3月末の時点で、アシュコームとベルを支持すると明言した票は131票まで増えていた。
「131票まで集まりましたが、約束した株主が全員そのまま投票するとは限りません。前夜に気が変わる者もいれば、現職側から頼まれる者もいるでしょう。当日姿を見せない者だっております」
ウェッブが念を押すと、エドワードは帳面から目を上げた。
「分かっている。だから100票で止めず、ここまで増やしたんだ」
「当初は100票を目標にしていたのに、途中から120票になり、気が付けば131票です。私としては、これ以上増やせと言われなかっただけ助かりました」
「そこまで覚えているなら、票の管理は安心して任せられるな」
「忘れたら仕事になりませんから」
エドワードは笑って帳面を閉じた。
東インド会社との戦時契約で312万ポンドの利益を得たことは、すでに会社関係者の間で広く知られていた。金額があまりにも大きく、隠しようもない。
現職取締役側は当然そこを攻めた。ヘイル伯爵は戦争に便乗して会社から300万ポンド以上を稼ぎ、その金と人脈を使って自分の仲間を取締役へ送り込もうとしている。株主の不安を煽るには分かりやすい話だった。
だが、エドワードには隠す理由もなかった。
選挙を数日後に控えた夕方、大株主数人を招いた席でもその話が出た。
「伯爵。会社との契約で312万ポンドもの利益を得たことを問題にしている者がおります。これについては、どのようにお考えですかな」
年配の株主が切り出した。
「312万ポンド儲けたことは事実です。否定するつもりはありません」
「問題にされているのは、その利益が東インド会社との取引から出たことです」
「会社が市場から自分で集めるより安く、必要な船と物資を予定どおり揃えました。僕の利益が大きくなったのは、会社が注文を出す前に安く押さえたからです。僕が儲けたことと、会社が損をしたことは同じではありません」
エドワードは酒杯を置いた。
「逆に、僕が仕入れで500万ポンド損をしていれば、会社との取引が立派だったことになりますか。会社にとって大事なのは僕の仕入れ値ではなく、必要な物を市場より安く、しかも予定どおり受け取れたかどうかでしょう」
年配の株主は反論せず、話題を取締役選挙へ移した。
「それでは、アシュコーム氏とベル氏を取締役へ入れた後、会社をどのように変えたいとお考えですかな」
「今より儲かる会社にしたいと思っています」
周囲から笑いが起きた。
「ずいぶん簡単におっしゃる」
「難しい話を難しく言っても利益は増えません。アシュコームさんはインドを知っている。ベルさんは金と商売を知っている。僕が欲しいのは言うことを聞く人間ではなく、自分の仕事を分かっている人間です」
アシュコームが酒杯を持ったまま口を挟んだ。
「それなら、この場で皆さんに申し上げておきましょう。私は取締役になっても、伯爵の意見に何でも賛成するつもりはありません」
「そのくらいは承知しています。何でも賛成する人なら、わざわざアシュコームさんを推していませんよ」
今度はアシュコーム自身が笑った。
◇ ◇ ◇
4月の取締役選挙当日、東インド会社の周辺には朝から多くの馬車が集まった。候補者だけでなく、株主、代理人、商人、銀行家、船主が次々に出入りし、近くの通りまで人の往来が続いている。
エドワード自身は候補ではない。それでも姿を見つけて声をかける者は多かった。
「伯爵。今日は意外なほど落ち着いておられますな」
モーダントに言われ、エドワードは投票会場の入口へ目を向けた。
「ここまで来たら、僕にできることはほとんどありませんよ。株主を投票箱へ放り込むわけにもいかない」
「できるものなら、本当にやりそうです」
「約束どおり票を入れてもらえれば、それで十分です」
投票は定められた手続きに従って進み、午後になると結果が見え始めた。アシュコームは上位に入り、ベルも6人の当選圏内に残っている。
最後の集計が終わると、ウェッブが人混みを抜けて戻ってきた。
「伯爵、アシュコーム氏もベル氏も当選です。2人とも6席の中へ入りました」
その言葉を聞いて、エドワードはこの日初めて、はっきりと喜びを顔に出した。
モーダントが肩を叩こうとして、一瞬手を止める。
「伯爵相手に肩を叩くのは少々無礼ですかな」
「そこまで手を上げてから遠慮されても困りますよ」
「では遠慮なく」
今度は本当に肩を叩かれた。
ベルは普段とあまり変わらない顔をしていたが、その妻は夫以上に喜んでいた。アシュコームも多くを語らなかったものの、長く勤めた会社へ今度は取締役として戻ることには、本人なりの感慨があるようだった。
「24人のうち、こちらが推した2人が入りました」
ウェッブが言うと、エドワードは取締役の名簿を見た。
「昨日までは0人だったんだ。今日は2人取れたことを素直に喜んでおこう」
「それなら、なおさら今日は事務所へ戻らないでください。伯爵夫人から、選挙が終わったらそのまま家へ帰すよう頼まれております」
「僕が仕事へ戻るところまで読まれていたのか」
「御本人へ直接言っても、そのまま事務所へ行くと思われたのでしょう」
モーダントが横から笑った。
「そこまで先を読まれているなら、今日は奥方に従った方がよさそうですな」
「最初から逆らうつもりはありませんよ」
エドワードは取締役名簿を畳んだ。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、エドワードがロンドン邸へ戻ると、アメリアはすでに結果を知っていた。
「アシュコームさんもベルさんも当選したそうですね。おめでとうございます」
「ありがとう。ただ、当選したのは僕じゃないぞ」
「半年以上、その2人を取締役へ入れるために一番動いていたのはあなたでしょう。今夜くらいは一緒に祝ってください」
居間には両親のリチャードとアンが来ていた。姉キャサリンと夫ヘンリー、妹エリザベスと夫ジョナサンも揃い、夕食にはモーダント夫妻、ベル夫妻、アシュコーム、ウェッブまで招かれている。
エドワードは並んだ顔を見回した。
「ここまで集まっているところを見ると、最初から僕の祝いまで予定に入っていたらしいな」
「ようやく気付きましたか」
アメリアが答える前に、父リチャードが笑った。
「諦めて祝われておけ。312万ポンドも儲けた息子に夕食を奢らせる機会など、そう何度もないからな」
「ここは僕の家ですよ。どちらにしても僕が払います」
「それならますます遠慮はいらんな」
夕食は賑やかになった。選挙の話が続いたのは最初だけで、やがて話題は競馬、カード、旅行、馬車、音楽へ移っていった。
ベル夫人が、せっかく春になったのだから皆で出かけたいと言い出すと、アメリアもすぐ賛成した。
「私も同じことを考えていました。来週、皆でラネラへ行こうと話していたところです」
エドワードは妻を見た。
「僕が選挙で忙しくしている間に、そこまで決めていたのか」
「あなたの予定が空くのを待っていたら、春が終わってしまいます。来週なら1日くらい空けられるでしょう?」
「そこまで準備されているなら空けるよ」
母アンが満足そうに頷いた。
「それでよろしい。家族全員で行きましょう」
父リチャードも行く気らしい。
「父上、カードはほどほどにしてくださいよ。せっかく皆で遊びに行くんですから」
「もう昔のように借金してまで賭けたりはせん。今は自分の財布の中だけで遊んでいる」
アンが横から口を挟んだ。
「その財布も私が見ていますけれどね」
リチャードには返す言葉がなかった。
◇ ◇ ◇
4月下旬の夜、一行はラネラ・ガーデンズへ向かった。
巨大な円形の建物には無数の灯りがともり、内部では楽団の演奏が響いていた。着飾った男女が広い空間を行き交い、知人を見つけては足を止め、飲み物を片手に談笑している。
エドワードたちは家族と友人を合わせるとかなりの人数になった。アメリアは初めから大勢で出かけるつもりだったため、食事を取る場所も十分に確保している。
卓上には冷たい肉料理、鶏、魚、パン、菓子が並び、ワインやシャンパンも用意されていた。果物の皿には高価なパイナップルまで置かれている。
母アンはそれを見て息子へ顔を向けた。
「これほど立派なパイナップルなら、ずいぶん高かったでしょう」
「値段を聞くと味が落ちるかもしれませんよ」
「それなら聞かないでおきます。ただし、312万ポンドあるから構わないなどと言い出すのも禁止です」
父リチャードがすぐに皿へ手を伸ばした。
「値段を聞いても聞かなくても、ここまで運んだパイナップルが安くなるわけではない。私は食べるぞ」
「あなたは黙って食べていてください」
夫婦のやり取りに、キャサリンとエリザベスが笑った。
やがて楽団の演奏に合わせて踊る者が増え始めた。
アメリアが夫へ手を差し出す。
「せっかく来たのですから、今夜も踊りましょう」
「僕の腕前を知っていて誘うのか」
「知っているから私が相手をするのです」
「それなら安心だ」
エドワードは妻の手を取った。
伯爵になろうが、大金持ちになろうが、踊りが突然上手くなるわけではない。アメリアに何度か足の位置を直されながら踊っていると、離れた場所で妹エリザベスが笑っているのが見えた。
曲が終わった後、仮面を付けた若い女性が近づいてきた。
「伯爵様、次の曲のお相手をお願いしてもよろしいでしょうか」
「せっかくですが、今夜は妻と踊るつもりで来ていますので、ご容赦ください」
「奥様にずいぶんお優しいのですね」
「妻と踊る方が僕も楽しいんですよ」
女性は笑って一礼し、別の男性を探して離れていった。
アメリアはその背中を見送った。
「私は別の方と踊っても気にしませんよ」
「君が許しても、僕が今はその気にならない。せっかく一緒に来たんだから、今日は君の相手をするよ」
「そういうことでしたら、遠慮なく付き合ってもらいます」
「覚悟しておく」
その後は家族と食事を楽しみ、友人たちと酒を飲んだ。選挙の数字も会社の帳簿も、この夜だけは持ち込まなかった。
夜が更けるころには、父リチャード、ヘンリー、ジョナサン、モーダント、ベルがカードを始め、女性たちは少し離れた席で音楽を聞きながら話していた。エドワードもカードへ加わった。
「せっかくだ。少しくらい賭けようではないか」
リチャードが言った。
「付き合いますよ。ただし今夜は500ギニーまでです。それを超えたら、勝っていても負けていても終わりにします」
「500ギニーを『少し』と言えるようになったのだから、お前も立派な金持ちになったものだ」
「父上に褒められると、別の意味で心配になりますね」
「撤回する。相変わらず可愛げのない息子だ」
周囲に笑いが広がった。
その夜、エドワードは200ギニーほど負けた。
帰りの馬車で、アメリアは夫の顔を見た。
「負けた割には機嫌がよいですね」
「多少は悔しいけど、決めた範囲で遊んだんだから十分だよ。取り返すまで続けたら、遊びではなくなる」
「それなら今日は合格にしておきます」
「ずいぶん採点が厳しいな」
「まだ初級ですから」
第1話の夜を思い出し、エドワードは笑った。
アメリアは夫の肩へ頭を預けた。
馬車は夜のロンドンを走っていった。




