第2話(前編)「豪邸を完成させろ」 1780年10月1日~10月31日
1780年10月1日。
朝のハロウデンは霧に包まれていた。夜のうちに冷えた空気が牧草地に残り、長い進入路の両側では、露を含んだ草が朝日に光っている。
6月から暮らし始めたハロウデン・ハウスは、すでに伯爵家の本邸として十分に使える状態にあった。中央棟と左右の翼棟は完成し、大食堂、舞踏室、画廊、図書室、家族の居室、客室、厨房、使用人区画にも人が入っている。
残っているのは庭園や厩舎周辺、内装の一部だった。土地と本邸を合わせて100万ポンドを投じると決めた時、エドワードが欲しかったのは大きな家だけではない。自分の子や孫の代まで伯爵家の本拠地として使え、大勢の客を招いても困らない屋敷である。
朝食を終えると、エドワードはアメリアと一緒に玄関を出た。領地管理人のほか、本邸建設を取り仕切ってきた建築家と庭師の責任者が待っていた。
「今日で残っているところを全部決めるつもりなのですね」
アメリアが庭を見ながら確認すると、エドワードは頷いた。
「いつまでも大勢の職人を置いておく必要はない。去年の6月から始めたんだから、家を造る仕事は今月でいったん終わらせたい」
「大邸宅を1年少しでここまで造っただけでも十分早いですよ」
「最初から28万ポンド用意したんだ。そのくらい働いてもらわないと困る」
横にいた建築家は何も聞かなかったことにしたらしく、正面の並木へ顔を向けた。
「また金額の話になりましたね」
「家の話をしているんだよ。28万ポンドはその家の値段だ」
「あなたの場合、たいてい最後は値段に戻ります」
正面玄関の車寄せには十分な広さがあり、何台もの馬車が続けて到着しても、客を降ろす馬車と出ていく馬車が邪魔をしないよう造られていた。そこから所領の外へ向かって長い並木道が延び、左右には芝地が広がっている。
本邸を正面から眺めた時に農場の建物や使用人の作業場が目につかないよう、そうした施設は翼棟の側面や背後へ回してあった。
エドワードは並木を見ながら足を止めた。
「建物はできたのに、ここだけ妙に若いな」
「木は植えたばかりですので」
庭師が答えた。
「大きな木をもっと移せないのか?」
「何本かはすでに移植しております。ただ、すべて大木にすればよいというものではございません。根付かず枯れるものが出ます」
エドワードは並木の先まで眺めた。
「では、ここだけは待つしかないのか」
「木については、そうしていただくしかございません」
隣で聞いていたアメリアが楽しそうに口を挟んだ。
「あなたにも、お金を払ってすぐ手に入れられないものがありましたね」
「時間か。値段が付いていない分、厄介だな」
「そういうところです」
建物の背後には、正面とは性格の違う庭園を整えていた。砂利を敷いた散歩道の周囲に低木や花を植え、その先の牧草地との境には深い溝を設けている。屋敷側から柵を見せず、牛や羊だけを庭へ入れないための仕組みだった。
庭師から説明を受けたエドワードは、庭から牧草地まで続く眺めを確認した。
「これなら遠くから見れば、庭と牧草地がそのままつながって見えるな。柵が並ぶよりずっといい」
少し離れた場所では、高い壁で囲んだ菜園と果樹の区画も仕上げに入っている。野菜、果物、香草など、厨房で日常的に使うものを育てるための場所で、壁には風を防ぎ、作物を育てやすくする役目もあった。
アメリアはこちらを念入りに見た。
「厨房で使うものは、できるだけここで作れるようにしてください。すべてをロンドンから買って運ぶ必要はありませんから」
「来春には作付けをさらに増やす予定でございます」
庭師が答えると、エドワードも畝を眺めた。
「花だけの庭より、僕にはこっちの方が分かりやすいな。食べられる」
「花も必要ですよ」
「腹は膨れないだろう」
「食卓にも飾れます。あなたに花の必要性を説明するなら、その方が納得するでしょう?」
「食卓に来るなら理解できる」
アメリアは呆れたように夫を見た。
屋敷の東側には厩舎と馬車庫が整えられていた。乗用馬、狩猟用の馬、馬車を引く馬を分けて管理でき、鞍や馬具を保管し、修理する場所もある。馬車庫には普段使いのものだけでなく、大人数の客を送迎する際に使う馬車も収められていた。
厩舎へ入ったエドワードは、建物より先に1頭の栗毛へ目を留めた。
「この馬は先月までいなかったな」
「先月入れたばかりでございます。旦那様がお乗りになるなら、もう少し慣らしてからの方がよろしいでしょう。速さは十分ですが、少々気が強いところがございます」
「それなら、なおさら一度乗ってみたいな」
「今日は家を見る日でしょう」
アメリアに指摘されると、エドワードは栗毛からようやく目を離した。
「厩舎の確認も家のうちだよ」
「今は厩舎ではなく馬を見ていました」
建築家はまた聞こえないふりをした。
厩舎と本邸を結ぶ道には砂利が厚く敷かれ、雨が続いても馬車の車輪が泥へ沈みにくくしてある。客は天候が悪くても車寄せで降りれば、靴や裾を泥だらけにせず屋敷へ入れた。
一行は本邸へ戻り、今度は客用玄関ではなく使用人用の入口から中へ入った。
「奥様が使用人側まで自分で確認なさると聞いた時には驚きました」
建築家が言うと、アメリアは当然という顔をした。
「大食堂だけ立派でも、料理が冷めて届いたら意味がありませんもの」
厨房は火災と煙を考え、主要な居室から少し離してある。それでも給仕用通路を使えば、大食堂まで遠回りせず料理を運べた。肉を扱う場所、パンを焼く場所、酒や食料を保管する部屋、銀器や陶器を置く部屋も分けている。
地下には酒と保存食の貯蔵庫があり、敷地内には冬の氷を蓄えて夏まで利用する氷室も設けていた。
エドワードは厨房で働く料理人たちを眺めた。
「客が増えれば、この家で一番忙しくなるのはここかもしれないな」
「舞踏会なら何十人分もの料理を一度に出すことになります。使用人が働く場所を狭くすれば、結局困るのは私たちです」
「ここは君に任せて正解だった」
「今ごろ気付いたのですか?」
「前から知っていたよ。今日は確認しただけだ」
夫妻はそのまま使用人区画へ向かった。
この屋敷で毎日暮らすのは伯爵夫妻と子供だけではない。執事、料理人、従僕、女中、乳母のほか、厩舎や庭園でも多くの人間が働く。客が大勢泊まっても表側の廊下が使用人で混雑しないよう、専用の階段と通路が設けられ、食事を取る場所や寝室も確保されていた。
一通り見終えたと思ったところで、建築家が西側にも確認箇所が残っていると告げた。
そこには9月に客を泊めた際にも使った遊戯室がある。エドワードは中へ入ると、壁と隣室の位置を見比べた。
「隣の部屋も使って、こちらを少し変えられるか?」
「用途によります」
「ビリヤードは別室にしたい。今の部屋はカードや骰子、それに酒を飲める場所として残す」
アメリアはすぐに理由を察した。
「前回モーダントさんに負けたからでしょう?」
「それもある。台が家にあれば練習できる」
「本当に練習するつもりだったのですね」
「次も負ける必要はないだろう」
建築家は図面を広げた。
「隣室との扉を広げれば可能です。ビリヤード専用にしても十分な広さがあります」
「ではそうしよう。それから、客と射撃へ出る時に狩猟銃や拳銃を扱える部屋も欲しい。戦争用の銃器庫とは分けたい」
「そこまでなさるなら、屋外の射撃場所もきちんと決めてください」
アメリアが口を挟んだ。
「この前のように庭の外れへ板を立てるだけでは困ります。人や家畜が近づかない場所を最初から選んでおくべきでしょう」
「それは必要だな。ついでに整えてもらおう」
建築家が図面へ書き込みを加えた。
9月に株主たちを招くまで、遊戯室は客が暇を持て余さなければ十分だと思っていた。それが1度実際に使ってみると、欲しい設備が次々に出てきた。
◇ ◇ ◇
午後は図書室へ入った。
壁際の高い書棚には、ロンドン邸やグレイミア館から運ばせた本がすでに並んでいる。歴史、航海、地理、軍事、法律、農業、商業関係はエドワードが選んだものが多く、小説や詩はアメリアの選んだ本が多かった。それでも空いた棚はまだかなり残っている。
「東インド会社関係の本と地図は、ここへ増やしたいな。インドだけでも広いし、会社は中国とも商売している」
「書斎へ置くのではないのですか?」
「全部は収まらなくなる。調べ物なら図書室にあっても困らないだろう」
「それなら構いません。ただし、ここまで事務所にしないでくださいね」
図書室の隣にはエドワードの書斎がある。ロンドンの事務所ほど仕事一色ではなく、大きな机のほか、地図を広げる台と数人で話せる椅子も用意していた。
窓から庭を眺めたエドワードが、何気なく言った。
「ウェッブを呼べば、ロンドンへ出なくても仕事ができるな」
アメリアはすぐ夫の方を見た。
「毎日のように呼ぶつもりなら反対です。ここはあなたの家なのですから」
「仕事をするなという意味ではないんだろう?」
「もちろんです。でも息子と食事をしたり、客と遊んだりする場所でもあることは忘れないでください」
「最近は忘れていないよ」
「それなら結構です」
夫妻が家族用の居室へ戻ると、乳母が息子を連れてきた。3月に生まれた子は間もなく生後7か月になり、人の顔や動きを以前より長く目で追うようになっている。
エドワードが抱くと、息子は上着の飾りへ手を伸ばした。
「これは取るな。高かったんだ」
「赤ちゃんに値段を教えてどうするのです?」
「買えることと壊していいことは別だろう」
エドワードは飾りから息子の指を外し、代わりに自分の指を握らせた。
窓の外では庭師たちが作業を続けている。1年以上前には高台と草地しかなかった場所に、今は中央棟と左右の翼棟を持つ本邸が立ち、庭園、厩舎、馬車庫、厨房、菜園までが1つにつながっていた。
「今月末で大きな工事はいったん終わらせよう」
息子を抱いたまま、エドワードが言った。
「残った内装と庭の主要部分を仕上げてもらう。木が育つのは待つしかないし、住んでいれば後から変えたいところも出てくるだろう」
「私もそれでよいと思います」
「終わったら完成祝いをしよう。招く人は君に任せるよ」
アメリアの表情がすぐに変わった。
「本当に私が決めてよいのですか?」
「ああ。ただ、その顔を見ると少し不安になってきたな」
「もう遅いですよ。今、任せると言いましたから」
エドワードは余計な条件を付けないことにした。
◇ ◇ ◇
10月中旬、エドワードはロンドンへ戻った。
ウェッブの事務所では、東インド会社の株主についてまとめた帳簿がさらに厚くなっている。9月末には49票だった協力株主の票は、23人で63票まで増えていた。
「14票増えたか。次の選挙までまだ時間はあるし、悪くない」
「ただし、何度も申し上げますが、その63票はあなたの所有物ではありませんぞ」
「もう分かっているよ。ところで、アシュコームさんから返事は来たのか?」
ウェッブは別の紙を差し出した。
「取締役候補になることを正式に受けるそうです。本人から返事をもらっています」
「それなら最初の1人は決まりだな」
ベンガルで長く働き、会社の現地事情を知るアシュコームを取締役へ送り込む。もう1人について、エドワードはベルを考えていた。
「商人としての経験は十分ですし、財務にも強い。候補として不足はないでしょう」
「僕もそう思う。モーダントさんは船主として外にいてもらった方がいい。取締役へ入れれば、自分の船の契約を有利にしたと疑われかねないし、本人も船主をやめる気はないだろう」
ウェッブは納得して帳簿を閉じた。
「ではベル氏には、伯爵から話されますか?」
「ああ。今月末の完成祝いにも来てもらう。その時に機会を見て聞いてみるよ。断られたなら、別の候補を探せばいい」
「私も完成祝いへ伺うことになっているようですが、仕事の書類はどの程度持っていけばよろしいでしょう?」
「持ってこなくていいよ。今回は友人として来ればいい」
ウェッブは怪訝な顔をした。
「あなたから仕事を持ってくるなと言われる日が来るとは思いませんでした」
「僕だって毎日帳簿を読んでいるわけじゃない」
「では、完成祝いの間は一切仕事をなさらない?」
「そこまで約束した覚えはないな」
「やはり」
◇ ◇ ◇
10月31日。
ハロウデン・ハウスでは、最後まで残っていた内装と主要な外構の工事が終わった。
建築家が持参した最終帳簿では、土地代72万ポンドとは別に、本邸と付属施設へ予定した28万ポンドを、家具、内装、厩舎、馬車庫、庭園の主要部分まで含めてほぼ使い切っていた。
「予定した28万ポンドに収まったのか?」
「旦那様が途中でビリヤード室と射撃設備を追加なさらなければ、もう少し残りました。ただ、全体から見ればわずかな増額でございます」
「それなら構わない」
「金額を聞いておいて、結局そうなるのですね」
隣にいたアメリアが呆れると、エドワードは帳簿へ署名した。
「払える範囲だと分かれば十分だよ」
建築家や職人への支払いを済ませ、長期間働いた者には追加の謝礼も出した。今後も庭師や修繕を担当する職人は必要だが、大人数を入れて続けてきた建設工事には、これで区切りがついた。
夕方、夫妻は正面玄関の前に立った。
10月の風は冷たくなっていたが、空は晴れている。長い進入路の先には所領が広がり、振り返れば、自分たちの代で造った伯爵家の本邸があった。
「ようやく完成ですね」
アメリアが建物を見上げた。
「ああ。しばらくは何も建てなくて済みそうだ」
「本当にそう思っています?」
「少なくとも今夜はそう思っているよ」
「では、その言葉だけ覚えておきます」
夫妻は並んで玄関へ戻った。
翌日からは、アメリアが完成祝いの準備を始めることになっていた。




