第4話(前編)「2,500ポンドを全部使う」 1774年4月1日~4月10日
1774年4月1日。
エドワードはレイヴンズクロフト邸の客室で帳面を開いた。前夜に記した2,500ポンドの数字を見ながら、その使い道を改めて考えた。
父リチャードが抱えている借金は約1万5,000ポンドである。2,500ポンドをそのまま父へ渡せば、借金は1万2,500ポンドまで減るが、それで家の財政が立て直せるわけではない。エドワード自身も元手を失い、再びほとんど何も持たないところから始めることになる。
領地から入る年約1,500ポンドの収入に対して、屋敷の維持、使用人の給金、修繕、税金などの支出が重いことは、1月に帳簿を見て分かっていた。不作や大きな修繕が重なれば、借金を返した後でも再び金を借りる可能性がある。
エドワードは帳面の余白に5万ポンドと書いた。
1万5,000ポンドを返して終わるのではなく、返済後にも十分な資本を残す。その金を商売や投資へ回し、土地以外からも収入を得られるようにした方がよい。5万ポンドあれば、父の借金をすべて返しても3万5,000ポンドが残る。
もちろん、今ある2,500ポンドを失えば痛い。母からもらった10ギニーも含め、1月から増やしてきた金を失うことになる。それでも、金を減らさないことだけを考えていては、5万ポンドには届かない。
問題は、2,500ポンドを次に何へ変えるかだった。
その日の午後、エドワードはナサニエル・ウェッブの事務所を訪ねた。
ウェッブは机の上の書類を整理していたが、エドワードを見ると仕事の手を止めた。
「また株ですか」
「今回は違います。船を買いたいんです」
「船ですか?」
「大西洋を渡れるものを探しています」
ウェッブはしばらく黙ってから尋ねた。
「先月まで25ポンドしか持っていなかった人が、今度は船を買う?」
「今は2,500ポンドあります」
「それを船に使うわけですな」
「新大陸へ行って商売をしたいんです。僕自身も乗ります」
ウェッブは椅子の背にもたれた。
「船は買っただけでは動きませんよ。状態によっては船底や帆、索具の修理が要る。食糧と水を積み、乗組員へ給金を払い、港の費用も必要です。商品を運ぶなら仕入れ代もかかります」
「武装もしたい」
「そこまで?」
「大西洋には海賊もいるでしょう」
ウェッブは相手の顔を見てから笑った。
「2,500ポンドで船を買い、修理して、武器を積み、人を雇って、商品まで仕入れる。かなり欲張った計画ですな」
「だから中古船を探します。積載量より速さを優先してください」
「商船なのに?」
「追われた時には、荷物を多く積めることより逃げられることの方が大事でしょう」
「海賊に追われた時は、ということですな」
「そうです」
ウェッブはそれ以上尋ねず、テムズ沿いに売却を急いでいる船主を当たってみると約束した。
◇ ◇ ◇
翌日から、エドワードはウェッブとともに売りに出されている船を見て回った。
最初に見たのは200トンを超える3本マストの商船で、船主の希望価格は1,900ポンドだった。状態は悪くなかったが、買った時点で残るのは600ポンドしかない。修理、乗組員、食糧、積荷まで考えれば余裕がなかった。
2隻目は900ポンドだったものの、船底を調べた職人から、傷んだ木材の交換だけでも数百ポンドかかると言われた。安く買っても修理費を合わせれば得とは限らない。
3隻目は積載量が大きく、商船としては使いやすそうだったが、幅の広い船体で速力には期待できなかった。
岸から船を見上げながら、ウェッブが言った。
「純粋に荷を運んで稼ぐなら、これが一番でしょう。商品を多く積めます」
「遅すぎます」
「そこまで速さが必要ですか」
「危ない船に追われた時、積載量は助けてくれません」
「なるほど。では次を見ましょう」
4月5日、2人はグリニッジより下流の船溜まりへ向かった。
春になったとはいえ、川面を渡る風にはまだ冷たさが残っている。水からは泥と潮の匂いが上がり、岸では船大工が木槌を振るっていた。
そこで見つけた4隻目は、船齢9年の2本マストのブリッグだった。
積載量は約150トン。船名はマーガレット号で、西インド諸島との貿易に使われてきた船である。黒い塗装はところどころ剥がれていたが、これまで何度も大西洋を渡っていた。船主の商売が悪化し、現金を作るために売却へ出されたという。
エドワードは同行した造船所の親方に船の状態を尋ねた。
「速さはどうです?」
「荷を積みすぎなければ悪くありません」
「船底は?」
「直すべき外板はありますが、骨組みはしっかりしています。帆と索具も一部替えた方がいいでしょう」
「4ポンド砲を載せられますか」
「6門なら問題ありません。8門でも載せられますが、商品も運ぶなら6門くらいがいいでしょうな」
エドワードは渡し板を通って甲板へ上がった。
足元の木材には海水とタールの匂いが染みついていた。船長室はグレイミア館の自室とは比べものにならないほど狭く、船内の通路も窮屈である。
ここで何週間も暮らし、荒天になれば激しく揺れる船の中で働くことになる。事故が起これば、失うのは金だけではない。
それでも、船体の状態と速力、購入後に残せる資金を考えると、この船が最も条件に合っていた。
岸へ戻ると、船主の代理人との交渉が始まった。
「希望価格は1,250ポンドです」
「900ポンドなら買います」
「それでは安すぎます」
「船底を直し、帆と索具も替えなければならない。修理代はこちら持ちです」
「それでも1,200ポンドはいただきたい」
「950」
「1,150」
「1,000ポンド」
「1,100では?」
「その値段なら別の船を探します」
エドワードが話を終えて離れようとすると、代理人が呼び止めた。
「では1,075でどうでしょう」
「1,050。今日決めるなら、すぐに支払います」
売り手が現金を急いでいることは聞いていた。
代理人はしばらく考えた末、手を差し出した。
「1,050ポンドで」
「買います」
エドワードもその手を握った。
こうして船を手に入れることになったが、正式な売買契約には義兄ヘンリーの助けが必要だった。
事情を聞いたヘンリーは、エドワードを居間へ呼んだ。キャサリンも同席している。
「2,500ポンドを作ったと思ったら、その半分近くを船に使ったのか」
「まだ半分以上残っています」
「そこを安心材料にするな。何のために買った?」
「新大陸へ行くためです」
ヘンリーは聞き返した。
「誰が行く?」
「僕です」
今度はキャサリンが口を開いた。
「自分で乗るつもりなの?」
「そのために買いました」
「船長は誰だ」
ヘンリーに尋ねられ、エドワードは答えた。
「僕がやります」
姉夫婦はそろって黙った。
「お前は船を動かせるのか」
「まだ十分には知りません。経験のある航海士を雇います。僕も乗りながら覚えます」
「普通は覚えてから船長になるんだ」
「最初から全部できる人はいないでしょう」
「だからといって、大西洋を渡りながら覚える奴は多くない」
キャサリンは困った顔をした。
「母には何と書けばいいの」
「船を買ったと書けばいいでしょう」
「それを書きたくないのよ」
エドワードは笑ったが、姉はまったく笑わなかった。
◇ ◇ ◇
4月10日、マーガレット号は造船所へ入った。
この機会に船名も変えることにし、ヴェンチャー号と名付けた。冒険だけでなく、事業や投機にも使われる言葉であり、今の自分には合っていると思った。
購入代金1,050ポンドを支払ったため、手元には1,450ポンドが残った。
その金も銀行へ置いておくつもりはない。船を直し、武装し、人を雇い、商品を積まなければ、大西洋を渡る商売には使えない。
エドワードは船台へ入ったヴェンチャー号を岸から眺めた。3月末には銀行の数字だった2,500ポンドが、少しずつ船と装備へ姿を変え始めていた。




