第61話 影のままで、名前だけが残る
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第61話 影のままで、名前だけが残る
王都に凱旋の列が入った日、大通りは人で埋め尽くされていた。城の大広間では、王自ら勇者一行を迎える式典が開かれた。
「勇者ヒカリ、並びにその一党。世界を救った功績に最大の栄誉を授ける」
王の言葉に、広間が割れんばかりの拍手に包まれた。ヒカリが前に進み出て、深く一礼する。ガルド、フィーネ、クレアがその後ろに続いた。俺は列の最後尾、いつもの場所に立っていた。
「索敵担当、イチ」
王がふと、俺の名を呼んだ。広間が一瞬静まる。
「此度の働き、記録には残らぬ部分も多いと聞く。だが勇者からの報告は詳しく受け取っている」
その言葉に俺は小さく頭を下げるだけで答えた。何を言えばいいのか分からなかった。
式典が終わり、夜になって、城の一角で祝宴が開かれた。喧騒の中、吟遊詩人が壇上に上がる支度を始めていた。
「今夜、例の歌を披露するのか」
「ええ。ようやく、納得のいく形になりました」
男は弦を確かめながら、俺の方をちらりと見た。
「聞く覚悟は、できていますか」
「覚悟も何も、ただの歌だろ」
「そうかもしれません。ですが、この歌は少し違います」
その言葉の意味を尋ねる間もなく、男は壇上へと歩いていった。
弦の音が広間に響き渡ると、喧騒が徐々に静まっていった。歌は魔王討伐の道のりを丁寧に紡いでいく。勇者の剣、戦士の盾、賢者の氷、聖女の光。よく知られた勝利の型が歌詞となって流れていく。
だが歌の終盤、旋律が不意に変わった。
『名もなき影は、いつも輪の外に立っていた
誰も見ぬ場所で、勝敗の芽を摘み続けた
その影の名を、私は知らない』
その一節に広間がざわめいた。俺は思わず息を止めた。
「知らない、って」
誰かの呟きが漏れる。歌は止まらず、続いていく。
『物語の外から来た者が、物語の内側を支えていた
その名を、私は歌に刻めない
どこにも書かれなかった名前として
それでも確かに、そこにあったと歌う』
歌が終わると、広間は拍手ではなく、しばらくの沈黙に包まれた。誰もが今聞いた言葉の意味を、噛みしめているようだった。
「……なぜ、名前を出さなかった」
俺は壇上を降りてきた吟遊詩人に尋ねた。
「出せなかった、というのが正しいです」
男は静かに答えた。
「ヒカリ様に、あなたの本当の名を歌に乗せていいか、事前に伺いました。彼女は少し悩んだ末に、断りました」
その視線の先に、ヒカリが立っていた。
「勝手に相談して、すみません」
ヒカリは少し申し訳なさそうに、それでもまっすぐな目で俺を見た。
「でも、イチさんの名前を、私が知らないまま誰かに預けるのは、違うと思ったんです」
「知らない、って」
俺は聞き返した。ヒカリが知っているのは、この世界で俺が名乗ってきた名前だけだった。それより前の名を、誰にも語ったことはなかった。
「イチさんの名前は、イチさんです。それ以外の呼び方を、私は知りません。だから、それでいいと思ったんです」
その言葉に、俺は何も言い返せなかった。どこにも書かれなかった名前。それは失われたのではなく、最初からこの世界のどこにも記されていない、ただそれだけのことだった。
祝宴の喧騒を抜け出し、二人で城の露台に出た。夜空には、久しぶりに晴れた星が広がっていた。
「怒ってますか」
「怒ってはいない。ただ、驚いてる」
俺はそう答えながら自分の胸の内を探っていた。名を歌に刻まれずに済んだことへの安堵。それ以上に強く感じているのは別の何かだった。
「イチさん。半年前に聞かせるって約束してくれた話、今、聞いてもいいですか」
ヒカリが正面から俺を見つめた。
「私、イチさんのことが好きです。ずっと前から」
その言葉が、これまでのどんな敵の一撃よりも強く胸に突き刺さった。
「俺は、お前を輝かせることだけを考えてここまでやってきた」
言葉を選びながら、俺は続けた。
「それが俺のやりたいことだと思ってた。今も、その気持ちに嘘はない」
「でも」
「でも、さっきの歌を聞いて、自分でも分からなくなった。名前がどこにも書かれなくてよかったと思った瞬間、真っ先に浮かんだのは、お前の顔だった」
その言葉に、ヒカリの目が僅かに潤んだ。
「それは」
「分からない。今の俺には、まだこれが何なのかうまく言葉にできない」
俺はそう言うのが精一杯だった。だが、ひとつだけ分かることがあった。ヒカリを失いたくない。勇者として遠くへ行く姿を、いつものように少し離れた場所から見送るだけでは、もう足りない。
胸の奥で、ずっと避け続けてきた感情が確かな輪郭を持ち始めている。今すぐ名前にして声にする勇気は、まだ持てなかった。それでも、もう一度目を逸らすつもりはなかった。
「今すぐじゃなくていいです」
ヒカリは静かにそう言うと、俺の手にそっと自分の手を重ねた。
「でも、いつか」
「いつか、な」
俺はその手を、そっと握り返した。星空の下、二人の影が並んで長く伸びていた。
物語の外側から来た男は、今も物語の中心には立てずにいる。誰にも呼ばれなかった名前は、どこにも書かれないまま、それでも確かにこの世界のどこかに残った。影のまま、それでも隣に立ち続けるという選択だけはもう揺るがなかった。
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