第60話 勝利の後で、まだ言えないこと
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第60話 勝利の後で、まだ言えないこと
ヒカリの一撃が、魔王の胸を貫いた。膝から崩れ落ちる巨躯を、フィーネの光がなおも包み込む。
「終わった、のか」
ガルドが息を切らしながら呟く。誰も、すぐには答えられなかった。
魔王はゆっくりと仰向けに倒れ、その輪郭が少しずつ揺らぎ始めた。まとっていた黒い靄が薄れ、代わりに、どこか人間らしい静けさを湛えた青年の姿が露わになっていく。
「イチさん」
ヒカリが剣を下ろし、俺の方を振り返った。俺は頷き、倒れた魔王のそばに膝をついた。
「終わりだ」
俺の声に、魔王は薄く目を開けた。
「……お前、か。ずっと、勇者の影にいた男」
「ああ」
「妙な男だ。最後まで、戦わなかった」
「戦うのは、俺の柄じゃない」
俺は静かに答えた。
「それでも、お前がこの場を動かしていたのは分かっていた」
魔王はかすかに笑った。その笑みには、これまで見せてきたどの表情よりも、穏やかな色があった。
「頼みが、一つある」
「なんだ」
「私の、名を」
魔王は掠れた声で続けた。
「最後に、誰かに呼んでほしい。ただ、それだけだ」
その願いに、俺はしばらく黙った。フィーネが見つけた石碑の文字、あの独白、忘れられることへの恐れ。それらすべてが、この一言に集約されていた。
「イチだ」
俺は静かに名乗った。
「俺の名前も、この世界じゃほとんど誰にも呼ばれてない。だからその気持ちは少しだけ分かる」
魔王は目を見開き、それから小さく頷いた。
「アレン」
俺はもう一度その名を呼んだ。
「お前の名前は、アレンだ。誰にも呼ばれなくなっても、その名前は確かにあった」
その言葉に、魔王の目から一筋の涙がこぼれた。
「そうか。……それだけで、良かったのか」
呟くようなその言葉を最後に、魔王の体はゆっくりと淡い光の粒子となって消えていった。あとには、あの小さな石碑と、静寂だけが残された。
「終わった……のか」
クレアが震える声で言う。
「終わった」
俺は立ち上がりながら答えた。周囲を見渡すと、部隊の面々が、次第に事態を理解し、歓声とも安堵ともつかない声を上げ始めていた。
「勝ったんだ! 俺たちは、勝ったんだ!」
誰かの叫びに、玉座の間全体が沸き立つ。ガルドが天を仰ぎ、フィーネが崩れるように座り込んだ。クレアは涙を流しながら、隣にいた兵士と抱き合っていた。
俺はその輪から少し離れた場所で石碑をもう一度見つめていた。
「イチさん」
ヒカリが隣に立った。
「終わりましたね」
「ああ」
「イチさんの最後の一言。あれが決め手でした」
「決め手ってほどのことじゃない。ただ聞かれたことに答えただけだ」
俺がそう言うと、ヒカリは静かに首を振った。
「違います。あの人が最後に望んだのは、力でも、勝敗でもなかった。名前を呼ばれること、それだけでした。それに応えられたのは、イチさんだけです」
その言葉に、俺は何も返せなかった。ただ胸の奥に、これまでにない静かな熱を感じていた。
玉座の間には、次第に落ち着きが戻り始めていた。連合軍の各部隊が結果を確認し合い、負傷者の手当てが始まっていく。
「これで、本当に終わりなんですね」
クレアが涙を拭いながら、俺たちのそばに来た。
「ああ。少なくとも、この戦争は」
俺の言葉に、フィーネが計算板を静かに抱きしめながら頷いた。
「長かったです、本当に」
ガルドが大剣を鞘に収めながら、大きく息を吐いた。
「これで、街に帰れるな」
「帰れる」
俺の言葉に、四人がそれぞれの表情で頷いた。
玉座の間の外で、あの吟遊詩人が慌ただしく駆け込んでくるのが見えた。
「終わった、と聞いて……ああ、本当に、皆さんご無事で」
男は肩で息をしながら、部屋の中を見渡した。
「これは、歴史に残る一夜になりますね」
「大袈裟だ」
「大袈裟なものですか。魔王を討った、歴史的な戦いです。この物語、後世に残さない手はありません」
男はそう言いながら、俺の方をちらりと見た。俺は何も言わず、目を逸らした。
帰路につく準備が進む中、その夜、野営地の焚き火のそばで、ヒカリが静かに俺の隣に座った。
「イチさん」
「なんだ」
「戦争が終わったら、話したいことがあるって、前に言いましたよね」
「言ったな」
「まだ、覚えてますか」
俺は焚き火の炎を見つめながら、小さく頷いた。
「覚えてる」
「戦争は、終わりました」
ヒカリの声はいつもよりわずかに緊張していた。
「街に帰ったら、ちゃんと聞いてください。私の話」
「ああ」
俺は短く答えた。それ以上、何も言えなかった。
焚き火の炎が静かに揺れる。半年間の旅の記憶が、その炎の向こうに重なって見えた気がした。まだ何も終わっていない。むしろ、本当に始まるのは、これからなのかもしれない。そんな予感だけを胸に抱いたまま、夜は静かに更けていった。
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