第56話 語り部が、軍と共に歩く
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第56話 語り部が、軍と共に歩く
北方最前線への道中、俺たちは各地から集結する部隊の列に合流した。かつて経験したどの遠征よりも、隊列の規模が大きい。
「壮観だな、これは」
ガルドが隊列の先頭から後方まで見渡しながら呟く。数千の兵が、大陸各地の紋章を纏って歩いていた。
「これだけ集まっても、まだ足りないかもしれない、って空気を感じます」
クレアが不安げに言う。誰も否定しなかった。
行軍の三日目、見覚えのある人影が隊列に加わっているのに気づいた。弦楽器のケースを背負った、あの吟遊詩人だった。
「あんたも、来てたのか」
声をかけると、男は柔らかく笑った。
「これほどの物語の現場を見過ごすわけにはいきません。従軍詩人として記録役を任されました」
「歌う相手が減ったら、困るだろ」
「むしろ増えるでしょう。歴史に残る戦いになる予感がしています」
男はそう言いながら、俺の顔をじっと見た。
「あなたも、この戦いの中心にいる。今度は、離れた場所から見るだけでは済まなさそうです」
その言葉の含みに、俺は少し身構えた。
「買いかぶりすぎだ。俺はただの索敵担当だ」
「四度目ですね、その台詞」
男は数えていたらしい。苦笑するしかなかった。
夜、野営地で吟遊詩人がフィーネと話し込んでいるのを見かけた。
「密語の術式について、詳しいと伺いました」
「多少は。何かご興味が」
「以前、妙な会話を耳にしたことがありまして。あの内容が今回の戦況とどう繋がるのか気になっているんです」
二人のやり取りを少し離れた場所から聞きながら、俺はこの吟遊詩人がただの記録役以上の役割を持ち始めているのを感じた。物語を紡ぐ者が、物語の内側に足を踏み入れようとしている。
「イチさん」
ヒカリが隣に腰を下ろした。
「あの人、最近よく私たちの周りにいますね」
「気になるか」
「気になるというより、なんとなく、応援されてる気がします」
ヒカリの言葉に、俺は少し意外に思った。
「応援、か」
「はい。あの人の歌、私たちの物語を、誰かに伝えようとしてくれてる気がするんです」
その見方は、俺が今まで抱いていた警戒とは、少し違う角度のものだった。
行軍五日目、前方に、これまで見たこともない光景が広がった。地平線の彼方まで、黒く焦げたような荒野が続いている。空は昼でも薄暗く、時折、遠雷のような音が轟いていた。
「あれが、魔王領の境界か」
部隊長格の一人が、険しい声で言った。
「境界を越えれば、もう後戻りはできない。各員覚悟を決めろ」
その号令に、隊列全体が静まり返った。
「フィーネ、探知は」
「反応、無数にあります。ただその中心に、これまで感じたことのない密度の気配が一つ」
フィーネの声が、初めて明確な恐怖を帯びていた。
「あれが、魔王本体か」
「おそらく」
俺は荒野の彼方を見つめた。まだ姿は見えない。だが、その気配だけで、これまでの敵とは明らかに質が違うことが分かった。
「イチさん、大丈夫ですか」
ヒカリが心配そうに尋ねる。
「大丈夫だ。まだ、何も始まってない」
だが、その声が、自分でも思ったより硬いことに気づいた。
野営の準備が進む中、吟遊詩人が静かに近づいてきた。
「今夜、境界を越える前の最後の歌を、と思っています」
「歌うのか、こんな時に」
「こんな時だからこそ、です。恐怖に呑まれないための歌も、私の仕事のうちです」
男はそう言って弦を鳴らし始めた。旋律は静かで、これまで聞いたどの歌とも違う鎮魂歌のような響きを持っていた。歌詞に固有名詞はない。ただ名もなき者たちの覚悟を讃える言葉が、荒野の夜に静かに広がっていく。
その歌を聞きながら、俺はふと、自分の名前がこの歌にはまだ一度も乗ったことがないことに気づいた。影のごとく立つ者、という一節はあった。だが、俺自身の名は、まだどこにも刻まれていない。
その事実に、不思議と焦りはなかった。ただ、いつかこの歌が、俺の名前を乗せる日が来るのだろうか、という漠然とした予感だけが、荒野の風と共に胸を通り過ぎていった。
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