第54話 最後の影が、動き出す
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第54話 最後の影が、動き出す
三巻の頁にしおりを挟んでから、一月ほどが過ぎた。街は平穏そのもので、依頼稼業も普段通りに戻っていた。だが、その平穏は長くは続かなかった。
「北の大陸全域から緊急の通達だ」
ギルドマスターが険しい顔で資料を机に叩きつけるように置いた。
「魔王本体がついに動いた。北方諸国の防衛線が次々と突破されている」
その報告に、食堂の空気が凍りついた。
「防衛線が突破された」
ガルドが声を荒げる。
「複数の砦がすでに陥落した。詳細は分からないが、今までの幹部戦とは規模が違う」
ギルドマスターの声には、これまで聞いたことのない重みがあった。
「三人の幹部が退いてから、ひと月と経たないうちに、魔王自身が最前線に立ったという情報がある」
「幹部の壊滅を待たずに、本体が動いた、ということですか」
フィーネが眉をひそめる。
「早すぎます。これまでの動き方とは明らかに違います」
「理由は分からん。ただこれはもう、局所的な脅威じゃない。世界規模の危機だ」
その言葉に、俺は懐のお守りに触れた。ヒカリと共にこの街で過ごしてきた半年間で積み上げてきたものが、いよいよ最後の局面を迎えようとしている。
「俺たちは、どうすればいい」
ヒカリが真剣な顔で尋ねる。
「大陸中の勇者格、討伐実績のある部隊すべてに召集がかかっている。お前たちも、当然その中に含まれる」
「行くしかない、ってことか」
ガルドが低く呟く。
「行かないという選択肢は、もうないんだろうな」
俺の言葉に、誰も反論しなかった。
その夜、宿の食堂で五人だけの静かな会議が開かれた。
「これまでの敵とは、根本的に違う相手になる」
俺は皆の顔を見渡しながら言った。
「幹部たちはそれぞれ癖があった。メルジェは幻術、グロズは力業、ヴェイルは情報。だが魔王本体がどんな力を持っているのか、俺たちはまだ何も知らない」
「情報が少なすぎるな」
ガルドが渋い顔をする。
「文献にも魔王本体の権能についての記述はほとんどありません」
フィーネが計算板を確認しながら言う。
「これまでで初めて式が組めない相手、ということになります」
その言葉の重みに、食卓が静まり返った。前世で読んだ数えきれない物語の中でも、魔王という存在は決まって物語の終盤、姿を見せる前から圧倒的な気配だけで場を支配する役どころだった。型を知っているはずの自分が、初めてその型の中身を一つも知らないまま、最後の局面に立たされている。
「怖いか」
俺が尋ねると、フィーネは少し考えてから答えた。
「怖いです。ただ、式が組めないなら組めるまでの過程を皆さんと一緒に積み上げるだけです」
その答えに、俺は少しだけ安心した。
「クレア、大丈夫か」
「大丈夫です。皆さんを守るために私にできることを精一杯やります」
クレアの声には、以前のような不安げな響きはなかった。この半年で彼女もまた確かな強さを積み重ねてきていた。
「ヒカリ」
俺が名を呼ぶと、彼女は静かに俺を見た。
「怖いか」
「怖いです。でも」
ヒカリは俺の手に、そっと自分の手を重ねた。
「イチさんが隣にいるなら、たぶん大丈夫です」
その言葉に、俺は何も返せなかった。ただその手の温かさだけが確かに感じられた。
「出発は、いつだ」
ガルドの問いに、俺はギルドマスターから聞いた予定を伝えた。
「五日後。北方最前線への合流だ」
「五日、か」
ガルドは大剣を握りしめた。
「短いな」
「短いが、やるしかない」
俺の言葉に、全員が頷いた。
窓の外、北の空には、これまで見たことのない濃い雲が広がっていた。魔王軍の最後の影が、ついにその全貌を見せ始めようとしている。四巻分の物語が静かに、しかし確実に、その最終章へと歩みを進めていた。
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