第35話 男は隠す、女は睨む
お読みいただきありがとうございます。
第35話 男は隠す、女は睨む
ヒカリが王都から戻ったのは、出発から十日後のことだった。
「ただいま戻りました!」
馬車から飛び降りるように現れた彼女は、旅装のまま真っ先に俺たちのもとへ駆け寄ってきた。
「おかえり。思ったより早かったな」
「早く帰りたかったので、無理を言って馬車を急がせてもらいました」
ヒカリは息を切らしながら、それでも満面の笑みを浮かべていた。
「王都、どうだった」
「疲れました。でも、いい経験でした」
ヒカリはそう言ってから、俺の顔をじっと見つめた。
「イチさん、手紙、読んでくれましたか」
「読んだ」
「空いた一席の話も」
「読んだ」
その返事に、ヒカリは少し照れくさそうに頬を染めた。
「今日から、ちゃんと本物の席にしてくださいね」
「元から、そのつもりだ」
その一言に、ヒカリの表情がぱっと明るくなった。
宿に戻って荷を解いたあと、五人が久しぶりに揃って食堂の隅の席に座った。ヒカリの隣、いつもの位置に俺がいることに、誰も特に言及しなかった。それが、この半年で当たり前になった光景だった。
「王都で会ったっていう男の話、詳しく聞かせてくれ」
ガルドが真剣な顔で切り出す。ヒカリは頷いて手紙に書いた以上の詳細を語り始めた。物腰の柔らかさ、値踏みするような目、余計なお世話だと言い返したときの反応。
「同じ男だと思う。こっちで俺に声をかけてきたのと」
俺の言葉に、フィーネが計算板を取り出した。
「街と王都、両方に現れる人脈を持っている、ということです。ただの好事家ではなさそうです」
「厄介な相手だな」
「厄介ですが、今のところ、実害はありません。声をかけてくるだけで、手出しはしてきていません」
フィーネの分析に、俺は少し考え込んだ。
「手出ししない、ってのが逆に不気味だ」
「同感です。相手は、こちらの様子を見ている段階だと思います」
その言葉に、食卓の空気が少し重くなった。だがヒカリがそれを吹き飛ばすように明るい声を出した。
「今日はもう、あの人の話はおしまいです。せっかく帰ってきたので、皆で食事を楽しみたいです」
その一言に、場の空気が緩んだ。
「そうだな。飲むぞ、今日は」
ガルドがエールを頼み、クレアが料理を追加で注文する。フィーネも珍しく、いつもより多めに料理を取り分けていた。
食事が進む中、ヒカリがふと真顔になって、俺の方を見た。
「イチさん、記録に名前が残ったこと、怒ってませんか」
「怒ってない。ただ、驚いた」
「勝手なことをして、すみません」
「謝る必要はない。むしろ」
俺は少し言葉を選んでから続けた。
「ありがとう、って言うべきだと思う」
その一言に、ヒカリの目が大きく見開かれた。
「イチさんが、そんな風に言うの、珍しいです」
「珍しくても、事実だ」
ヒカリは何か言おうとして、結局、ただ嬉しそうに笑うだけにとどめた。
食事が終わりに近づいた頃、宿の入口が騒がしくなった。振り返ると、あの外套の男が、入口に立ってこちらを見ていた。
「賑やかですね。お邪魔して申し訳ありません」
男が丁寧に一礼する。だがヒカリは即座に立ち上がり、男の前に進み出た。
「何の用ですか」
その声には、王都で見せたのと同じ、はっきりとした拒絶があった。
「今日はご挨拶だけです。皆様お揃いで、何よりだと思いまして」
「挨拶なら結構です。帰ってください」
ヒカリの鋭い視線に、男はわずかに気圧されたように後ずさった。
「手厳しいですね、勇者様は」
「大事な人たちの食事の邪魔をする人には、誰でもこうします」
ヒカリの言葉に、男は一瞬だけ本当に驚いたような表情を見せた。それからいつもの薄い笑みを取り戻し、一礼して去っていった。
「イチ、あんな態度で大丈夫か」
ガルドが心配そうに尋ねる。
「大丈夫だと思う。今のところ、あいつは様子を見てるだけだ」
「様子見が終わったら、どうなる」
その問いに、俺は答えを持たなかった。
窓の外、去っていく男の背中を見送りながら、フィーネが静かに呟いた。
「ヒカリさんが睨んで、男が引いた。今日はそれで済みましたが、次はどうなるか分かりません」
その言葉に、誰も反論しなかった。ただ、いつもの隅の席に戻ったヒカリが、俺の隣で何事もなかったかのように料理を頬張る姿だけが、今夜のささやかな安心材料だった。
お読みいただきありがとうございます。続きも楽しんでいただければ嬉しいです。
ブックマーク・評価・感想をいただけると、今後の励みになります。




