第30話 式の最後の変数に、名前をつける
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第30話 式の最後の変数に、名前をつける
メルジェ討伐の報は、谷を出る前に伝令によって街へ先行して届けられていた。国境の宿場町に戻る頃には、道中の村々からも歓声が上がるほどの騒ぎになっていた。
「勇者様、万歳!」
「これで北の脅威も一つ減ったぞ!」
人々の視線は、当然のようにヒカリへ集中していた。彼女はいつも通り、少し困ったような、それでいて誇らしいような顔で手を振っている。俺は列の最後尾、荷馬車の陰から、その光景を眺めていた。
部隊長からの報告書には、討伐成功の要因として「フィーネ殿の分析による幻術対策」が明記されていたらしい。名前入りで評価されるフィーネを見て、俺は素直に喜んでいる自分に気づいた。半年前なら、こういう場面で誰かの名前だけが記されることに、もう少し複雑な感情を抱いていたかもしれない。
宿場町での一泊のあと、フィーネが俺のもとへやってきたのは、出発直前の朝だった。
「イチさん、少しお時間をいただけますか」
珍しく改まった声だった。宿の裏手、人気のない井戸端まで連れていかれる。
「式が、完成しました」
フィーネは懐から計算板を取り出し、俺の前に差し出した。細かい数字と記号が、びっしりと刻まれている。
「あの日、あなたに証明を頼んで、無理だと断られました。今日は、私の方から証明してみせます」
「聞くだけなら聞く」
「イチさんの勘は、経験や観察だけでは説明のつかない精度で当たります。当たらないときは、必ず何か規則性のある形で外れます。動きの起点、匂い、音の反復、記憶の再現度――今回の谷でもあなたが最初に集めた違和感の断片が、私の式の土台になりました」
フィーネはそこで一度言葉を切って、まっすぐに俺を見た。
「これは、生まれ持った才能ではありません。何かを知っているから、当てられる。そうとしか考えられません」
風が井戸端を吹き抜けた。答えを引き延ばす理由は、もうあまり残っていない気がした。
「知ってる、というのは正しい」
自分でも意外なほど、あっさりと言葉が出た。
「前世の記憶がある。こことは違う世界で、山ほど物語を読んできた記憶だ。この世界で起きることの多くは、その記憶の中にある型と、どこか似てる」
「型、ですか」
「ゴブリンの群れの定石も、オーガの弱点も、幻術の仕掛け方も、俺の知ってる型のどれかに近い。完全に一致はしない。だから外れることもある。だが型を知ってるだけで、初めて見るものの弱点に当たりをつけやすくなる」
フィーネはしばらく黙って、計算板の数字を見つめていた。
「なるほど。才能ではなく、知識の蓄積、ということですか」
「そういうことだ」
「それを、なぜ今まで隠していたんですか」
核心を突く問いだった。
「隠したかったわけじゃない。ただ、話しても信じてもらえる自信がなかった。それに――言葉にした瞬間、何かが変わる気がして、ずっと避けてた」
「変わる、とは」
「分からない。うまく説明できない」
フィーネは小さく頷いて、計算板を懐にしまった。
「今のところ、私の式に組み込むのは、ここまでで十分です。それ以上を無理に聞き出す気はありません」
「あっさりしてるな」
「式というのは、変数を一つ埋めれば終わり、というものではありません。埋めた変数の先に、また新しい変数が現れる。今日埋まったのは、そのうちの一つに過ぎません」
その言い方には、まだ先があることを見越した落ち着きがあった。
「ヒカリさんは、いつから知っていたんですか」
「最初からだ。あいつがこっちに来た日から」
「そうですか」
フィーネは特に驚いた様子もなく、静かに受け止めた。
「一つ、お願いしてもいいですか」
「なんだ」
「この話は、ガルドさんにもクレアさんにも、私からは話しません。イチさんが話したいと思ったときに、イチさんの言葉で話してください」
思いがけない申し出だった。
「なんでそこまでする」
「式は、私一人のものではなく、私たち全員が積み上げてきたものです。答えを持ち出す順番くらいは、答えを持っている人が決めていいと思います」
その言葉に、俺は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。誰かに秘密の重みを分けてもらう、というのは、こういう感覚を言うのかもしれなかった。
「助かる」
「これで二回目ですね、その台詞」
「そうだったか」
「はい。前は、証明できるまで当てずっぽうと呼ぶ、と言った日でした」
フィーネは珍しく、口の端を大きく緩めて笑った。
「証明が終わったので、これからは、当てずっぽうとは呼びません。イチさんの勘、と呼びます」
その呼び方に、俺はなぜか妙にくすぐったい気持ちになった。
井戸端を離れると、宿の前でヒカリとガルドとクレアが荷造りを終えて待っていた。
「遅かったですね、二人とも」
ヒカリが小首を傾げる。
「フィーネの式が、完成したらしい」
俺が言うと、ヒカリの目が少し見開かれた。フィーネと視線を交わし、それだけで何かを察したような顔をする。
「そうですか。おめでとうございます、フィーネさん」
「ありがとうございます」
二人の間に流れる、言葉にならないやり取りを見ながら、ガルドとクレアだけが不思議そうに顔を見合わせていた。
「なんの話だ、それ」
「そのうち分かる」
俺がそう言うと、ガルドは肩をすくめて、それ以上は追及してこなかった。
「秘密が多いパーティーですね、うちは」
クレアが荷物を担ぎながら、くすくすと笑う。
「悪い意味で言ってないなら、それでいい」
「もちろん、いい意味です。知らないことがあっても、皆で無事に帰ってこられる。それが一番ですから」
その一言に、俺は少し救われた気がした。
街への帰路、荷馬車に揺られながら、俺は懐のお守りに触れた。半年前、名前も知らない世界に転生してから積み上げてきたものが、また一つ、確かな形を得た気がした。式の変数は、まだすべて埋まったわけではない。だが今日埋まった一つは、これから先の道のりを、少し歩きやすくしてくれる気がした。
前世の物語なら、秘密を分かち合う場面には、たいてい大きな音楽か、劇的な演出が添えられる。だが今日この井戸端で起きたことは、風の音と、計算板の珠が弾ける音くらいしかなかった。それでも、確かに何かが変わった一日だった。
街が見えてくる頃、フィーネが荷馬車の反対側で、珍しく穏やかな顔で計算板を眺めていた。式の最後の変数に、まだ名前はついていない。だがその名前を探す作業は、もう始まっている。俺にはそう感じられた。
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