第29話 式が先に、名前を呼んだ
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第29話 式が先に、名前を呼んだ
紫の光の中心に、その女はいた。
人の形をしているはずなのに、輪郭が絶えず揺らいでいる。声を発する前から、周囲の景色がぐにゃりと歪み始めた。
「ようこそ。歓迎の準備は、それぞれに合わせて整えてあります」
女の声が響いた瞬間、視界が切り替わった。
目の前に広がっていたのは見知った街の広場だった。だが様子がおかしい。人々が一斉にこちらを指差し囁き合っている。「あれが、勇者様の陰で得してる男だ」「ずるいよな、何もしてないくせに」。聞き覚えのある声も聞いたことのない声も混じって、俺一人を取り囲んでいく。
これは違う、と頭のどこかで冷静に思う自分がいた。前世の物語なら、こういう場面は主人公の心を折るための定番装置だ。だが定番だと分かっていても胸の奥がひどく痛んだ。型を見抜くことと型に効かれないことは、別の話だった。
「イチさん!」
ヒカリの声が遠くから聞こえた。振り返ると彼女もまた別の光景の中にいるようだった。目の焦点が合わず、剣を構えたまま立ち尽くしている。
「聞こえてますか、イチさん。私、今、変な景色を見せられてます」
「俺もだ。お前が見てるのも、たぶん本物じゃない」
「分かってます。分かってるのに、体が動きません」
ヒカリの声に、初めて怯えが滲んだ。
「あなたはご存知ないようだけれど」
紫の光の女――メルジェの声が、割り込んできた。
「あなたの隣にいる方、勇者様の指示のふりをしていつも別の誰かの指図を受けているんですよ。糸を引いているのは勇者様ではなく、その陰にいる誰か」
その言葉に、ヒカリの表情が一瞬揺れた。
「……知ってます、それ」
「あら」
「イチさんが、いつも私の見えないところで動いてくれてること、私はとっくに知ってます。今更、暴かれても困りません」
ヒカリの声が、揺らいでいた足元から少しずつ強さを取り戻していく。メルジェの間合いがわずかに崩れた。俺はその隙を逃さなかった。
「ヒカリ、剣を右に振れ。景色は無視しろ、目を閉じてもいい、腕の感覚だけを信じろ」
「はい!」
目を閉じたままヒカリの剣が振られる。手応えのない空を切る音がして、周囲の広場の景色が一瞬ノイズのように乱れた。だが消えなかった。
「一撃じゃ、足りない」
「分かってる。次だ」
俺は自分の見せられている幻の中でも違和感を探し続けていた。囁く群衆の一人、串焼き屋の店主に似た男の声だけが何度も同じ台詞を繰り返している。「ずるいよな」「ずるいよな」。反復。モルカ村と同じ、輪郭のない反復だ。
「ガルド、聞こえるか」
「聞こえてる。俺の方も、似たようなもんだ」
ガルドの声には、緊張の中にも落ち着きがあった。
「弟の声が聞こえてる。だが、さっき言われた通りだ。これは俺を試してるだけの、作り物の声だ」
その声には揺らぎがなかった。弟の名を打ち明けたあの夜から積み上げてきたものが、ここで彼を支えていた。
「クレア、無事か」
「な、なんとか……! 村の人たちが、私に向かって手を伸ばしてきて……!」
「掴まれても、それは幻だ。お前の手を汚すことはできない」
「はい……!」
声だけの指示が五人の間を飛び交う。誰も一人にならない。姿は見えなくても、声だけは互いに届いていた。
「フィーネ、聞こえるか」
返事がなかった。焦りが背筋を這う。
「フィーネ!」
「……います。少し、待ってください」
少し遅れて返った声は、落ち着き払っていた。
「今聞こえた皆さんの言葉、全部記録しています。街の声、弟さんの声、村の人の声、剣を振る音。これまでの断片も合わせて式を組んでいます」
「式?」
「イチさんが今まで見つけてくれた違和感、全部です。動きの起点、匂い、音の反復、記憶の再現度。バラバラに集めた欠片を、私はずっと一つの式にしようとしていました」
フィーネの声に、初めて強い確信が宿った。
「分かりました。この幻術、対象ごとに景色を変えているようで、実は一つの中心から発生しています。中心点は、私たちが最初にメルジェの姿を見たあの光そのものです」
「光を直接狙えってことか」
「はい。個別の幻影を一つずつ壊すより、発生源を絶つ方が早い。ヒカリさん、私の声が届く方向、分かりますか」
「分かります」
「そこへ、まっすぐ」
目を閉じたままのヒカリが、フィーネの声を頼りに踏み出した。俺にはその先に何があるのか正確には見えていない。ただ、フィーネの式が俺の集めた断片よりずっと確かな道筋を示していることだけは分かった。
「これで、終わりですか」
ヒカリの声に、フィーネが即座に答える。
「終わりではありません。でも、始まりの場所には、たどり着けます」
剣が振られる音がして、紫の光が悲鳴のような音を立てて弾けた。周囲の景色が街の広場ごと、ガラスの割れる音を立てて崩れていく。
「――なぜ」
メルジェの声が、初めて動揺を含んだ。
「なぜ、あなたたちの誰も、私の景色に呑まれきらない」
視界が元に戻る。谷底の岩壁と松明の灯りと、五人の姿がそこにあった。メルジェは輪郭を保てないまま、羽虫のように光を明滅させている。
「答えてほしいなら答える」
俺は自分の見ていた幻の残滓を振り払いながら言った。
「あんたの景色は、よくできてた。だが、一人で見せられる景色だ。俺たちは、一人じゃ見てなかった」
その言葉に、メルジェの輪郭がひときわ激しく揺らいだ。
「ヒカリ、今だ」
「はい」
ヒカリの剣が揺らぐ光の中心へ吸い込まれていく。断末魔のような音を残して、紫の光は谷底の闇へと溶けるように消えていった。
静寂が戻る。誰かが荒い息を吐く音だけが、しばらく谷に響いていた。
「……勝った、のか」
部隊長の声が信じられないというように呟く。上級部隊の隊員たちも、それぞれ幻から解き放たれて呆然と立ち尽くしていた。
「フィーネ殿、今の式とやらは」
「まだ、粗削りです。ただ、機能はしました」
フィーネは計算板を胸に抱えたまま、大きく息をついた。その横顔に、俺はまだ何も言葉をかけられずにいた。
式が俺の断片より先に、この戦いの中心を呼び当てた。半年前から積み上げてきたものが今日、確かな形になって俺たちを救った。それが誇らしいのか寂しいのか、自分でもまだ判断がつかなかった。
「イチさん」
ヒカリが剣を鞘に収めながら、こちらへ歩いてきた。
「さっき、メルジェの言葉。気にしないでください」
「気にしてない」
「嘘です。顔に出てます」
ヒカリはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「糸を引いてるのが誰か、なんて私はとっくに知ってます。今更どう言われても、私の答えは変わりません」
その言葉に、俺はようやく詰めていた息を吐いた。谷底に静かに満ちていく夜の空気の中、勝利の実感よりも先に何か大きな区切りを越えた予感だけが、確かに胸の奥に残っていた。
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