第21話 勘定が合う理由に、気づきかけている
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第21話 勘定が合う理由に、気づきかけている
丘の日から五日ほどが経って、街の空気はすっかりいつも通りに戻っていた。休養日の通達も明けて、掲示板にはまた見慣れた依頼書の列が貼り出されている。ヒカリは相変わらず朝食の席で水筒の蓋を閉め忘れるし、ガルドは相変わらず高難度の張り紙を真っ先に指差す。何も変わっていないように見えて、俺だけは、あの丘の途中で止まった一言をまだ持て余していた。
「イチさん、今日は資料室のお手伝いをお願いできますか」
朝一番、フィーネがそう切り出してきたとき、俺は少し意外に思った。彼女が誰かを名指しで頼るのは珍しい。
「別にいいけど、なんで俺だ」
「力仕事だからです。古い書架の並べ替えで、腕力のある人が必要なので」
ガルドを見ればいいだろうと思ったが、口には出さなかった。フィーネの言葉には、たまに額面通りに受け取ってはいけない層がある。
資料室は思ったより広く、天井近くまで届く書架が迷路のように並んでいた。窓が少なく、埃っぽい匂いと古い紙の匂いが混じり合っている。フィーネは慣れた足取りで奥へ進み、目当ての棚を指差した。
「この段の本を、あちらの空いた棚へ。順番は崩さないでください」
言われるままに本の束を運びながら、俺はふと、フィーネがこの半月ほとんど毎日ここに通い詰めていることを思い出した。東の森の紋様、召喚術式、魔王軍の幹部。彼女が抱え込んでいるものは、もうとっくに片手間の調べ物の域を超えている。
最上段の棚に手を伸ばしたとき、積んであった本の山がぐらりと傾いた。フィーネはちょうどその真下で、屈んで下の棚を検めている。
「危ない、右に避けろ」
言うのとほぼ同時に、フィーネが体を右へ動かした。落ちた本は彼女がさっきまでいた場所を正確に叩いて、埃を舞い上げる。だが避けた先にも別の本が待ち構えていたようで、肩に一冊、軽く当たった。
「……右じゃなくて、左でした」
「悪い。一冊分外した」
フィーネは肩をさすりながら、それでも本を一冊も落とさず両手で抱え直していた。危なげなく避けたようでいて、俺の指示は半分しか当たっていない。それでも彼女は特に責めもせず、落ちた本を拾い上げて元の場所を確かめている。
「式の方は、進んでるのか」
運びながら訊くと、フィーネはページをめくる手を止めずに答えた。
「少しずつ、です。ただ、進めば進むほど、分からないことが増えます」
「そういうもんか」
「そういうものです。知識というのは、埋めるほど輪郭が広がるものなので」
彼女はそう言ってから、ふと本を閉じて、俺の方をまっすぐに見た。何かを言おうとして、言葉を選んでいる顔だった。
「イチさん、少し訊いてもいいですか」
「なんだ」
「東の森で、あの化け物の弱点――喉の継ぎ目を見つけたとき。あれは、勘ですか」
「勘だな」
「隣町の依頼で露店の詐欺を見抜いたときも」
「あれも勘だ」
「ゴブリンの群れの定石、オーガの弱点、あの化け物の熱を持った鱗。全部、勘」
フィーネは本の背表紙を指先でなぞりながら、一つずつ挙げていく。数え上げるその声には、詰問の響きはなかった。ただ、静かに事実を並べているだけだった。
「それを全部勘で片づけるには、外れがなさすぎます」
「さっきの本、右じゃなくて左だっただろ。外れてる回だって、ちゃんとある」
俺は運んでいた本の束を棚に収めながら、そう返した。嘘ではない。ただ、外れの数までは口にしなかった。前世の記憶がどうとか、物語の型がどうとか、そういう説明は誰にもしたことがない。ヒカリにさえ、正確なところは話していない。
「森の化け物のときも、氷が効くと思ったら効かなかった。あれは俺の読みが甘かった」
「なるほど。当たりばかりではない、と」
「そういうことだ」
フィーネはしばらく黙って懐の計算板を指先でなぞっていたが、やがて小さく息をついた。
「それでも、外れた回よりずっと重要な局面で、当たった回の方が多いのは、なぜでしょうね」
答えられなかった。答えを持っていないわけではない。ただ、それを口にする勇気が、今はまだなかった。
「そこまで、自分で数えてたのか」
「数えないと、式は組めませんから」
あっさりと言われて、俺は返す言葉を失った。彼女がこの半年、剣も魔法の派手さも持たない立場で、何を頼りにここまでやってきたのか、今更のように思い知らされた気がした。
「フィーネ、お前、なんでそこまで式にこだわるんだ」
棚の整理を続けながら訊くと、フィーネの手が一瞬止まった。珍しく、返事までに間があった。
「私の才能ランクは、B寄りのAです。ヒカリさんのSSはもちろん、ガルドさんのAともまた違う、伸びしろの薄い評価です」
初めて聞く話だった。
「魔法使いとしては悪くない数字ですが、突き抜けてはいません。生まれつき決まっている枠の中で、私にできることは限られています」
フィーネは懐から、数字の書き込まれた小さな計算板を取り出した。式を組むとき、いつも持ち歩いている道具だ。指先で珠を弾くように動かしながら、彼女は続けた。
「大したことのない数字だと、自分でもよく分かっています」
「才能の数字が大したことなくても、お前は俺より百倍役に立ってる」
「イチさんが言うと、慰めなのか計算なのか分かりません」
「両方だ」
フィーネは計算板を懐に戻しながら、初めてかすかに笑った。
「それで、式か」
「はい。才能で敵わない部分は、観察と論理で埋めるしかありません。誰かの勘が外れているのか当たっているのか、なぜ当たるのか。突き詰めて式にできれば、才能の外側からでも戦える気がしたんです」
彼女の声は淡々としていたが、その奥に、俺と少し似た手触りのものがある気がした。持って生まれた枠の外側で、どうにか自分の居場所を組み立てようとする、そのやり方だけが違うだけだ。
「才能の外側から埋める、っていうお前の考え方は、たぶん間違ってない」
「認めるんですか」
「認めるも何も、お前が今言ったことは、だいたい合ってる」
フィーネは本を閉じて、俺の顔をじっと見た。値踏みするような目ではなく、答え合わせをする目だった。
「では、その式の答えの方も、証明していただけますか。今ここで」
「それは無理だ」
「なぜですか」
「なんでか、俺にもうまく言えない。ただ、それを言葉にしていい相手とタイミングは、たぶんまだ来てない気がする」
自分でも歯切れの悪い答えだと分かっていた。だがそれ以上、正直に話す方法を持っていなかった。フィーネはしばらく黙って俺を見つめたあと、小さく息をついた。
「分かりました。無理に聞き出すのは、私の性分ではありません」
「怒らないのか」
「怒りません。ただ」
フィーネは本を棚に戻しながら、横顔だけでこう続けた。
「証明できるまでは、この勘のことを、当てずっぽうと呼ぶことにします。私の中でだけ、そう呼んでおきます」
その言い方には、含みがあった。呼び方を変えるだけで、中身まで信じるのをやめたわけではない。見抜いていながら、あえて見抜かない振りをする。そのねじれた気遣いのようなものが、フィーネらしいと思った。
「助かる」
「助けているつもりはありません。ただ、答えが出るまでは、私も自分の式を急ぎすぎたくないだけです」
整理を終えて資料室を出ると、廊下の掲示板に新しい通達が貼り出されていた。ギルド連合からの回状で、北方一帯で相次ぐ異変について、より詳しい情報が記されている。
「魔王軍幹部の一人、メルジェなる者の名が複数の証言で挙がっている。錯覚を操る特異な力を持つとされ、被害地域では実際に存在しない光景を見せられたという報告が続出している」
文面を読み上げるフィーネの声が、わずかに硬くなった。
「幻術系、ということか」
「文献の記述と一致します。目に見えるものを疑わなければいけない相手は、厄介です」
厄介、という言葉の温度に、俺は資料室でのやり取りをふと重ねた。フィーネの式も、この幹部とやらの幻術も、突き詰めれば「見えているものをどう疑うか」という同じ土俵にある。彼女がこの半年磨いてきたものは、いずれこの相手と正面から向き合う日のために積み上がっていたのかもしれない。
「まだ、うちの街には来てないんだろう」
「今のところは。ただ、東の森の一件を思えば、いつまでもそうとは限りません」
その言葉を最後に、フィーネは通達の紙をもう一度目に焼き付けるようにして、資料室の方へ戻っていった。
宿に戻ると、食堂でヒカリとガルドとクレアが揃って待っていた。
「遅かったですね。フィーネさんと、ずっと資料室に」
「本の並べ替えを手伝ってた」
「へえ、殊勝なことで」
ガルドがからかうように言う。
「フィーネさんに頼まれたら断れないんですね、イチさん」
ヒカリの声には、拗ねているような、それでいてどこか面白がっているような、判別のつきにくい調子があった。
「別に、そういうんじゃない」
「分かってます。ただの感想です」
ヒカリはそう言いながら、俺の隣の椅子に、いつもより少し距離を詰めて座った。丘の日から、彼女との距離がわずかに変わったことに、俺はまだうまく慣れずにいる。あの日の答えを、彼女はまだ寄越さない。だが、寄越さないという形自体が、以前とは違う何かを含んでいる気がした。
「メルジェとかいう幹部の話、ギルドの通達で見ました」
クレアが心配そうに口を挟んだ。
「幻術を使うらしいですね。私、そういうの苦手です」
「今すぐどうこうって話じゃない。備えとくくらいでいい」
俺がそう言うと、ガルドが大剣を担ぐ真似をしながら笑った。
「幻だろうが本物だろうが、殴れば済む話だろ」
「その理屈、いつか痛い目見るぞ」
「そのときはお前が助けてくれるんだろ」
軽口のつもりの一言に、俺は少し詰まった。ガルドはそれ以上追及せず、ただ笑ってエールを呷った。
夕食のあと、部屋に戻る前にヒカリが廊下で呼び止めてきた。
「イチさん、今日、フィーネさんと何を話したんですか」
「別に、大した話じゃない」
「また、それですか」
ヒカリは苦笑したが、無理に聞き出そうとはしなかった。その代わり、少し違う角度から尋ねてきた。
「フィーネさんが、イチさんのこと、疑ってるって感じたことありますか」
鋭い質問だった。
「疑うっていうか、気づいてる部分はあると思う」
「私と同じくらいに、ですか」
「たぶん、違う道筋で近づいてる」
ヒカリは少し考えるように黙り込んで、それから静かに笑った。
「なら、いいです。私だけじゃないなら、心強いです」
その言い方には、独占欲めいたものは含まれていなかった。むしろ、俺という秘密を抱える側の仲間が増えたことを、素直に喜んでいるような響きだった。半年前の彼女なら、こういう言い方はしなかっただろう。
「明日も早いから、休め」
「はい。おやすみなさい、イチさん」
部屋に戻って窓辺に立つと、通りの向こうに人だかりができているのが見えた。目を凝らすと、見覚えのある弦楽器のケースを担いだ男が、路地の隅で誰かと話し込んでいる。あの吟遊詩人だった。話し相手の顔までは見えないが、上級部隊の装備をまとった人影らしいことだけは分かった。男はふと顔を上げて、こちらの宿の窓の方角を一瞬だけ見た気がした。気のせいだと思いたかったが、確信は持てなかった。
窓を閉めて、俺はベッドに腰を下ろした。
フィーネの言葉が、まだ耳に残っている。証明できるまでは、当てずっぽうと呼ぶ。それは先延ばしではなく、待つという選択だった。見抜いていながら、あえて答え合わせを急がない。そのやり方は、ヒカリが丘の上で見せたものと、よく似ている気がした。
前世で読んだ物語なら、こういう「気づいている者が増えていく展開」は、たいてい主人公の正体が暴かれる前兆として描かれる。緊張が高まり、やがて誰かの前で全てが明らかになる、その手前の静けさだ。だが今のところ、この物語は誰も俺を暴こうとしない。ただ、静かに勘定を合わせようとしている人間が、少しずつ増えているだけだった。
勘定が合わない、とフィーネが最初に言ったのは、確かこの半月ほど前のことだった。あれから随分と、彼女の勘定は俺に近づいている。合わない数字の正体に、あと少しで手が届きそうなところまで来ている。それでも彼女は、答えを急がずに待つ方を選んだ。
俺自身の勘定は、まだどこにも合っていない。丘の上で止まった一言の続きも、フィーネの式の行方も、遠くで俺を見ていたあの目の意味も、答えの出ないまま夜だけが更けていく。
窓の外で、雲が月にかかって、また離れていった。明日はまた、いつも通りの依頼が待っている。いつも通りの顔をして、いつも通りに勘で動く。
右と言って左が正解だった今日の一冊のことを思い出して、俺は少しだけ笑った。外れる分まで込みで、誰かがまだ信じてくれている。それだけで、今日のところは十分だった。
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