第20話 半年分の、言えなかったこと
お読みいただきありがとうございます。
第20話 半年分の、言えなかったこと
ギルドから休養日の通達が出るのは珍しいことで、それだけ東の森の一件が上を動かしたということらしかった。依頼を受けるなという指示は、この街に来てから初めてのことだ。
「イチさん、街の外れの丘に行きませんか」
朝食の席でヒカリが唐突にそう言った。クレアに教わった場所らしく、街全体を見下ろせるのだという。
「他の三人は」
「フィーネさんは資料室で、ガルドさんとクレアさんは市場です。もう聞いてきました」
準備がよすぎる。ヒカリがこういう段取りを踏むときは、大抵、何か言いたいことを抱えているときだった。
支度をするヒカリの手つきは朝からずっと危なっかしくて、水筒の蓋を閉め忘れたまま籠に入れようとするので、俺が横から締め直す羽目になった。
「相変わらず抜けてるな、お前」
「うるさいです」
むきになって籠を抱え直すその横顔が、いつもより硬い。丘へ向かう道すがらも彼女はほとんど喋らず、道端の花にも露店の匂いにも反応しないまま、ただ前だけを見て歩いていた。俺は何度か話を振りかけて、そのたびにやめた。
丘は東門から歩いて三十分ほどの場所にあって、なだらかな斜面には名前も知らない草花が咲き乱れていた。頂上に立つと街全体が眼下に広がり、遠くには東の森の輪郭までぼんやりと見えた。あの森の奥に何が眠っていたのかを知っている今では、同じ景色がまるで違って見える。
「いい景色ですね」
ヒカリが草の上に腰を下ろす。俺もその隣に、いつも通りの距離を空けて座った。
しばらく、どちらも黙っていた。風が草を撫でる音と、遠くの街から届く物売りの声だけが聞こえている。何でもない午後のはずなのに、その何でもなさがやけに鮮明で、俺は前世の記憶の中に似た場面を探して、結局見つけられなかった。物語というのはいつも事件のほうを描くので、こういう時間の質感は、たいてい省略される。
「この前の歌のこと、まだ考えてるんです」
先に口を開いたのはヒカリだった。
「女神様の加護だ、って皆さん言ってましたよね。私、あのとき本当は大声で違いますって言いたかったんです」
「言わなくて正解だ」
「どうしてですか」
「言ったところで、誰も信じない。信じないどころか、勇者様は謙虚だって話になって、お前の評判がまた上がるだけだ」
俺が言うと、ヒカリはしばらく黙ってから悔しそうに膝を抱えた。
「本当に、そうなんですよね。私が何を言っても、全部私の手柄に戻ってきちゃう」
「そういう世界なんだろ、ここは」
我ながら投げやりな言い方だったが、半年やってきて出た結論がこれだった。事実は正しく存在しているのに、解釈だけが勝手に彼女のほうへ流れていく。抗うだけ無駄だと、とっくに分かっている。
「でも、私は覚えてます」
ヒカリは膝を抱えたまま、街のほうを見て言った。
「露店で騙されかけたとき、助けてくれたこと。通貨の数え方も、地図の読み方も、危ない依頼の見分け方も、全部イチさんに教わりました。ゴブリンの群れのときも、オーガのときも、この前の化け物のときも、イチさんがいなかったら私は何回死んでたか分かりません」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないです」
珍しく強い声だった。俺は反論の言葉を探して、見つからずに黙った。
「歌にならなくても、誰も知らなくても、私だけは全部覚えてます。半年分、ぜんぶ」
風が吹いて、彼女の銀の髪が視界の端で揺れた。半年前、女神の間で立ち尽くしていた少女は、もうどこにもいない。今、隣に座っているのは、街中の誰もが憧れる勇者だった。それでいて、その勇者は俺の教えた通貨の数え方を、まだ覚えていると言う。
「あの、イチさん」
「なんだ」
「私、イチさんのことが――」
そこで、言葉が止まった。
ヒカリは自分の膝に視線を落として、それから一度だけ深く息を吸った。俺は続きを待った。待っているあいだ、自分の心臓がやけに速く打っているのが分かった。丘を登った疲れが今頃出てきたのだろうと頭の隅で考えて、そういうことにした。
だが、ヒカリは顔を上げてこう言った。
「やっぱり、今は言いません」
「は」
「今言ったら、ずるいので」
思いがけない言葉だった。俺は間の抜けた顔をしていたと思う。
「ずるいって、何がだ」
「イチさん、この前の歌のことで、まだ参ってるじゃないですか」
図星を指されて、俺は言葉に詰まった。
「あの日から、ずっと変な顔してます。誰にも気づかれたくないのに気づかれかけて、どうしたらいいか分からなくなってる顔です。そういうときに言ったら、イチさんはきっと、断れなくなっちゃうと思うんです」
ヒカリは草を一本抜いて、指先でくるくると回した。
「私、勇者になってから、いろんな人にいろんなことを言われるようになりました。断れない立場の人に何かを言うのが、どれだけずるいことか、最近ようやく分かってきたんです」
俺は何も言えなかった。この半年で彼女が積み上げたものの中に、剣の腕や魔法の制御だけでなく、こういう類のものまで含まれていたことを、俺は今日まで知らなかった。
「だから、ちゃんと言うのは、イチさんが元気なときにします」
「……回りくどいやつだな、お前は」
「回りくどくていいです」
ヒカリはそう言って笑った。いつもの、空気がぱっと明るくなる笑い方だった。
胸の奥がざわついていた。この感じには覚えがある。討伐の前の緊張とも、依頼をしくじったときの後悔とも違う、名前のつけようのない種類のざわつきだ。何かの前触れかもしれない、と思って、俺は反射的に空を見上げた。灰色の雲が出ていた。天気が崩れる前は気圧のせいで具合が悪くなると、前世で誰かが言っていた気がする。たぶん、それだ。それ以外に説明のしようがない。
「イチさん、顔赤いです」
「日に当たりすぎたんだろ」
「そうですか」
「そうだ」
我ながら苦しい言い訳だったが、ヒカリはそれ以上追及しなかった。ただ、追及しない代わりに、ずいぶん機嫌のいい顔で立ち上がった。
「降ってきそうですね。帰りましょうか」
丘を下り始めてすぐに雨粒が落ちてきて、二人とも傘を持っていなかったので、途中の大きな木の下で雨宿りをする羽目になった。濡れた草の匂いが、やけに濃く立ち上っている。
「さっきの続き、いつになったら聞けるんだ」
雨音に紛れて、つい尋ねてしまった。自分でも意外なほど素直な声が出た。
「いつか、です」
「いつかっていつだよ」
「イチさんが、自分は誰かに何かを言われる価値のある人間だって、ちゃんと思えるようになったときです」
その答えに、俺は返す言葉を持たなかった。
雨が弱まった頃、二人でまた歩き出した。街の門が見えてくる頃には空が明るくなり始めていて、石畳に落ちた水たまりが空を映していた。
「イチさん、今日のこと、忘れないでくださいね」
「忘れるわけないだろ、こんなびしょ濡れで」
「そうじゃなくて」
ヒカリは苦笑したが、その顔はどこか満足そうだった。
宿の前に戻ると、ガルドとクレアが市場帰りの荷物を抱えて立っていた。
「おお、二人とも濡れねずみだな」
「風邪ひかないでくださいね」
クレアが手拭いを差し出してくれる。食堂を覗くと、案の定フィーネが隅の席で本を広げていた。俺たちの姿を見て、彼女は本から顔を上げ、珍しく口の端をわずかに緩めた。
「楽しそうな一日でしたね」
「別に、大したことは」
「そうですか。ヒカリさんの顔を見れば、大体分かりますが」
ヒカリが慌てて顔を背ける。フィーネはそれ以上何も言わず、また本に視線を戻した。だがその一瞬、俺と目が合ったとき、彼女の表情には何かを見透かしたような静かな笑みが浮かんでいた気がした。この女の観察眼だけは、いつまで経っても誤魔化しきれる気がしない。
その夜、部屋の窓から外を見ると、雨上がりの空に星が広がっていた。
この半年で積み上がったものを、俺は改めて数え直していた。ガルドが抱えていた過去。フィーネの静かな観測。吟遊詩人の探るような目。そして、丘の上で途中で止まった言葉。どれも俺が望んで手に入れたものではないのに、気づけば全部、俺の隣に積み上がっている。
主人公じゃない人間の周りには、本来こんなに何も起こらないはずだった。前世で読んだ物語では、俺みたいな役どころは大抵、二話に一度出てくれば多いほうで、それも大概は主人公の背景として通り過ぎるだけだ。
それなのに、今日一日で起きたことを思い返すと、どうにも物語の隅にいる人間の一日には思えなかった。
丘の上で言いかけた言葉の続きを、俺はまだ聞いていない。聞ける日が来るのかどうかも分からない。ただ、あいつが言った条件だけは、やけにはっきりと耳に残っていた。
自分は誰かに何かを言われる価値のある人間だと、思えるようになったとき。
そんな日が来るのだろうか、と考えて、俺は窓を閉めた。答えを出すには、まだ何もかもが早すぎる気がした。
お読みいただきありがとうございます。続きも楽しんでいただければ嬉しいです。
ブックマーク・評価・感想をいただけると、今後の励みになります。




