第19話 語り部の目が、俺を探している
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第19話 語り部の目が、俺を探している
あの吟遊詩人が街に戻ってきたのは東の森の一件から半月ほど経った頃で、広場の人だかりは前に見たときより明らかに膨れ上がっていた。討伐の噂が近隣にまで届いているらしく、隣町の紋章を袖につけた連中まで混じっている。
「すごい人ですね。前より倍くらいいます」
クレアが背伸びをしながら言った。ガルドは腕を組んで満足げに頷いているし、ヒカリは人混みに押されて俺の袖を掴んだまま離さない。俺はといえば、いつも通り一番後ろの、誰の視界にも入らない位置に立っていた。
弦が鳴って歌が始まると、広場のざわめきが波を打つように引いていった。
題材は東の森の化け物だった。街道を越えてやってきた異形と、それに立ち向かった銀の髪の勇者。旋律は前に聞いたものより明らかに練られていて、実際にあった出来事の骨格を残しながら勇者ひとりの武勇伝として綺麗に磨き上げられている。ここまでは俺の知っている型どおりだった。
問題は、その先だった。
「――そして影のごとく、剣士の傍らに立つ者あり。声もなく、姿もなく、ただ剣の道筋のみを示す者」
喉の奥が詰まったような感覚があって、俺は思わず自分の足元に視線を落とした。心臓が跳ねている。この一節は前の歌にはなかったものだ。俺の存在が、初めて誰かの言葉になって空気を震わせている。
だが、次の瞬間に起きたことのほうが、俺にとってはよほど異様だった。
「ああ、女神様のご加護のことか」
誰かがそう呟いたのだ。串焼き屋の店主だった。
「そりゃそうだよなあ、あんな化け物に勝てたんだ。勇者様には見えない導きがついてるって話だろ」
「私も同じこと思いました。剣の道筋を示すって、きっと神託のことですよね」
隣の女がそう応じて、周囲の何人かが深く頷いた。誰ひとりとして、その「影」が生身の人間だとは考えなかった。俺はその光景を、ほんの数歩後ろから眺めていた。歌詞は一言も嘘をついていない。事実は正確に歌われている。それなのに、聞いた人間の頭の中で、その事実は勝手に別の形へ組み直されていく。
この世界はいつもこうだ。事実は変わらない。ただ、解釈だけが勇者に寄っていく。前世で読んだ物語なら、ここは「隠れた功労者がついに讃えられる場面」として一行で片づく。実際には一行どころか、誰の記憶にも残らずに終わる。
俺の正体は、たった今、大勢の前で歌われて、そして大勢の前で消えた。
「……イチさん」
ヒカリだけが、歌の続きを聞かずに俺の顔を見上げていた。何か言いかけて、それから唇を結んだ。この場でその先を言うのは違う、と彼女なりに判断したのだろう。俺は聞こえなかったふりをして、舞台のほうへ視線を戻した。
歌が終わると拍手が沸き起こって、吟遊詩人は例によって観客のあいだを回り始めた。祝儀を受け取りながら、時折鋭い視線を人混みに走らせている。芸人特有の、観察に長けた目だった。
その目が、迷いなく俺のところで止まった。
男は人の流れを縫うようにして、まっすぐこちらへ歩いてくる。誰を探していたのか、その足取りを見ればもう疑いようがなかった。
「先日はどうも。東の森の武勇伝、また新しく耳にしましたよ」
「……ああ、どうも」
「今日の歌、いかがでしたか」
「よくできてたと思いますよ。皆さん喜んでました」
「ええ。おかげさまで」
男は愛想よく笑ってから、少しだけ声を落とした。
「実を言うと、今日の一節については賭けだったんです。上級部隊の何人かから妙な証言を聞きましてね。あの日、指示を出していたのは勇者様ではなく、その傍らにいた小柄な青年だった、と」
背中を冷たいものが伝った。俺は表情を変えないように腹に力を入れた。
「聞き間違いじゃないですかね。俺はただの索敵担当ですよ」
「かもしれません。ですから、そのまま歌うのはやめておいたんです。裏の取れない話を断定で歌えば、それはもう歌ではなく嘘になりますので」
男は肩をすくめて、広場のほうを顎で示した。
「代わりに『影のごとく立つ者』と歌いました。そうしたら、どうです。お客はみんな女神様の加護だと受け取ってくださった。私は一度も女神様とは歌っていないのに」
その言い方に、はっきりとした含みがあった。俺は黙っていた。
「面白いでしょう。人は聞きたいように聞く。私はそれを商売にしているので、いつもは有り難く思っています。ですが、たまに、ね」
男はそこで言葉を切って、初めてまっすぐに俺の目を見た。
「たまに、聞きたいように聞かれなかった何かが、そのへんに立ち尽くしているのが見えることがあるんですよ」
喉が渇いた。前世で数えきれないほど読んだ物語の中で、この手の役どころは大抵、後になって主人公の隠れた功績に気づく役回りを担っていた。今のところ俺には関係のない話だ、と前に胸の中で付け加えたのを覚えている。前言は撤回するしかなさそうだった。
「買いかぶりすぎです」
「かもしれません。ですが、私の勘は大抵外れないもので」
男はそう言って一礼すると、次の客のほうへ移っていった。去り際に一度だけ振り返ったその目には、値踏みでも詮索でもなく、もっと単純な興味の色があった。それが一番厄介だと思った。悪意なら警戒すればいい。だが好奇心には、身の守りようがない。
「大丈夫か、顔色悪いぞ」
ガルドが俺の肩を軽く叩いた。
「ちょっとな。人に酔った」
「お前が人に酔うタマかよ」
軽口に紛れて表情を取り繕ったが、胸の奥のざわつきはしばらく消えなかった。
その夜、宿の食堂に顔を出すと、フィーネが先に来ていて古い文献を広げていた。東の森で見つけた紋様について、資料室に通い詰めているらしい。
「何か分かったか」
「少しずつ、ですが」
フィーネはページをめくりながら、抑えた声で説明を始めた。あの紋様は大陸北方に伝わる召喚術式の一種と構造がよく似ていて、単に何かを呼び寄せるのではなく、生き物同士を組み合わせて新しい何かを作り出すための式なのだという。
「そんなものを扱う奴が、この近くにいるってことか」
「文献には一度だけ、それらしい存在の名が挙がっています。魔王軍の幹部と呼ばれる者たちで、個々に固有の権能を持ち、配下の魔物を独自に作り替える者もいる、と」
その一言で、ギルドマスターが口にした「先触れ」という言葉が急に重みを持って迫ってきた。
「幹部ってのは、何人いるんだ」
「文献によって数はまちまちです。ただ、それぞれが独立して動くことが多いようです」
つまり、東の森のあれを作った奴は、まだどこかで生きている。フィーネは肯定も否定もしなかったが、文献を押さえる指先がわずかに震えているのが見えた。この女がこれだけ動揺しているという事実そのものが、何よりの答えのように思えた。
「このことは、まだガルドさんにもクレアさんにも話していません」
「なんで俺には話す」
「あなたなら、聞いても取り乱さないと思ったので」
買いかぶりすぎだ、と返そうとして、俺は口をつぐんだ。今日はもう二度も同じ台詞を言いかけている。
翌日、ギルドから正式な通達が出た。北方の複数の街から似た報告が相次いでいて、ギルド連合はこれを個別の事件ではなく一つの大きな動きの一部として扱う方針に転換したという。掲示板の前で通達を読み上げる職員の声を、街の連中が神妙な顔で聞いていた。
その帰り道、ガルドが並んで歩きながら小声で切り出した。
「昨日のあれ、俺のせいだよな。部隊長の前で余計なことを言ったのが、どこかで漏れたんだ」
「もういい、それは」
「いや、謝る。お前が目立ちたくないのは分かってたのに、うっかり口が滑った」
「事実を言っただけだろ。お前が謝ることじゃない」
「それでも、だ。今後お前のことを聞かれても、俺はもう何も言わない」
ガルドは珍しく神妙な顔で頭を下げた。この男が誰かにこういう態度を見せるのを、俺は初めて見た気がした。弟の話を打ち明けたあの夜から、彼の中で何かが確かに動き続けている。
「イチさん」
宿の近くまで来たところで、ヒカリが俺の隣に並んで、いつになく真剣な声を出した。
「昨日の歌、皆さん女神様の加護だって言ってましたけど」
「ああ、言ってたな」
「私は、違うって知ってます」
立ち止まったヒカリの顔を、街灯の光が半分だけ照らしていた。
「誰がなんと言っても、私だけは知ってます。だから、何があっても、私はイチさんの隣にいます」
唐突な宣言に、俺は言葉に詰まった。
「大袈裟だな、お前は」
「大袈裟でもいいです」
ヒカリは笑ったが、その笑顔にはいつもより真剣な色が混じっていた。俺はその色の意味をあえて深く考えないことにした。考えれば、いつもと同じように、何か別の理由へすり替えてしまう自分がいることも分かっていたからだ。
半年前、通貨の数え方も知らずに露店で騙されかけていた少女は、もうどこにもいない。今、隣に立っているのは、自分の意志で誰かの隣にいると決めた一人の勇者だった。
部屋に戻ってからも、俺はしばらく寝付けなかった。
窓の外では月が高い位置にあって、街の屋根を青白く濡らしている。「影のごとく立つ者」という一節が、頭の中で何度も繰り返し鳴っていた。歌われて、そして消えた。事実は正しく歌われたのに、誰の中にも残らなかった。それは俺がこの半年ずっと望んできた形そのものだったはずだ。
だとしたら、この落ち着かなさは何なのだろう。
前世の物語なら、こういう場面は決まって歓迎すべき転機として描かれる。埋もれていた者がようやく日の目を見る合図だ。俺はその型を誰よりもよく知っていて、それでいて今、型が示すはずの喜びをまるで感じていない。むしろ、あの吟遊詩人の目を思い出すたびに、逃げ出したいような気分になる。
型を知っているというだけの取り柄が、自分自身の感情を説明するときには、まるで役に立たなかった。
物語は、少しずつ俺の存在に気づき始めている。その気配だけが、夜が更けてもまだ肌にまとわりついていた。
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