第18話 名を上げたい男の、名もなかった頃
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第18話 名を上げたい男の、名もなかった頃
討伐から数日が経っても、ガルドの様子はどこかおかしいままだった。
いつもなら真っ先に酒場に飲みに行こうと誘ってくる男が、依頼を終えるとさっさと自分の部屋に引き上げてしまう。大剣の手入れをする手つきだけが、やけに丁寧になっていた。
「ガルドさん、最近静かですよね」
クレアが心配そうに言う。
「討伐の後遺症かもな。脇腹、まだ痛むみたいだし」
俺はそう答えたが、本当は違うと分かっていた。あの化け物と対峙した日、ガルドの目に浮かんだ重たい何かは、傷の痛みとは別種のものだった。
依頼の合間、ギルドの掲示板前でも、ガルドはいつもの調子を装っていた。だが、以前なら真っ先に飛びついていたはずの高難度依頼の張り紙を、今日は素通りしていた。
「あれ、見なかったんですか。報酬、結構いい額でしたよ」
フィーネが珍しく話しかけると、ガルドは肩をすくめた。
「今日はいい」
その返事に、フィーネは眉をわずかに上げた。いつものガルドなら、報酬額を聞いた瞬間に手を挙げていたはずだった。
「イチさんが、話を聞いてあげたらどうですか」
ヒカリが何気ない調子でそう言った。
「なんで俺が」
「なんとなく、です。ガルドさん、イチさんにだけは、何か言いたそうにしてる気がして」
ヒカリの勘は、こういうことに関しては馬鹿にできない。
夜、依頼のない一日の終わりに、俺は酒場の隅でガルドを見つけた。珍しく一人で、安酒のグラスを前に、遠くを見るような目をしている。以前、掲示板の前で見せたのと同じ目だった。
「隣、いいか」
「おう。珍しいな、お前から誘うなんて」
ガルドは軽い調子で応じたが、声には隠しきれない疲れが滲んでいた。
「なあ、イチ。お前、なんで手柄をいらないなんて言えるんだ」
唐突な問いだった。茶化す響きは一切なかった。
「別に、大した理由じゃない。俺は元から、そういう役回りだと思ってるだけだ」
「そういう役回り、か」
ガルドは小さく笑った。自嘲めいた笑い方だった。
「俺には、それが分からない。分からないっていうか、分かりたくない、が正しいのかもな」
グラスの中の酒を、ガルドはしばらく見つめていた。それから、ぽつりぽつりと語り始めた。
「俺の生まれた村、知ってるか。北の方の、小さな山村だ。冬になると魔物の被害が増える、そういう村だった。俺には弟が一人いた。体が弱くて、俺が代わりに守ってやらなきゃいけないような、そんな弟だった」
ガルドの声は淡々としていたが、その奥に何か固い芯があるのが分かった。
「ある年の冬、村が魔物の群れに襲われた。今回みたいな、統率個体がいるタイプの群れだ。村の男たちが総出で応戦したが、数が多すぎて手に負えなかった。俺は当時、十二だった。剣の握り方も、まだろくに知らなかった」
ガルドは一度、目を閉じた。開いたときには、少しだけ光が翳っていた。
「弟を連れて逃げようとした。だが途中で、魔物に追いつかれた。俺は無我夢中で弟を庇って、気づいたら弟だけが、俺の腕の中にいなかった」
ガルドの手が、グラスを強く握りしめた。
「助けに来た大人たちが、間一髪で俺を引っ張り上げてくれた。だが弟は、間に合わなかった。俺は生き延びて、弟は死んだ。それだけの話だ」
言葉が途切れる。俺は何も言わずに、続きを待った。
「あの日から、俺はずっと考えてる。もし俺があのとき、もっと強かったら。もっと名の知れた剣士だったら。誰かが俺を見て、駆けつけてくれるのがもっと早かったら、弟は死ななかったんじゃないか、って」
「それで、名を上げることに」
「ああ。馬鹿げてるだろ。もう死んだ弟は戻らないのに、俺は今でも、誰かに認められることに必死になってる」
ガルドは自嘲めいた笑みを浮かべたが、その目は笑っていなかった。
「情けない話だ。仲間内でこんなこと言うのは、初めてだよ」
沈黙が流れた。酒場の喧騒が、やけに遠くに感じられる。
「なあ、ガルド。その日、お前が弟を守れなかったのは、お前が弱かったからじゃない。十二歳のガキが統率個体のいる群れに立ち向かえる方が、どうかしてる」
「分かってる。頭では、分かってるつもりだ」
「頭で分かってても、腹の底が納得しない。そういうもんなんだろうな」
「ああ。まさにそれだ」
ガルドは初めて、俺の言葉に強く頷いた。
「情けなくなんかない。誰だって自分の中に消えない後悔の一つや二つある。それを埋めるために何かを頑張るのは情けないことじゃない」
「お前がそれを言うのか。手柄なんかいらないって顔してるお前が」
「俺は埋めるものが違うだけだ。誰かの隣で役に立てれば、それでいいと思ってる。お前が名を求めるのと方向は逆かもしれないが、根っこは似たようなもんかもしれない」
ガルドはしばらく黙って俺を見ていたが、やがて小さく笑った。今度はさっきまでとは違う、少し柔らかい笑い方だった。
「お前、意外と喋るんだな」
「珍しく酒が回ってるんだろ」
「一滴も飲んでないくせに」
俺たちは軽く笑い合った。重たい話のあとの、この軽さがありがたかった。
「今日の話、ヒカリにもクレアにもフィーネにも言うなよ」
「言わない」
前世の物語なら、重い過去を打ち明けられた場面には、決まって続きがある。打ち明けた男は次の戦いで覚醒するか、あるいは死ぬ。物語の定石はそのどちらかだ。だが目の前のガルドは、そのどちらでもない顔をしていた。ただ少しだけ軽くなった顔で、グラスを傾けている。定石をなぞらない人間の顔を見るのは、悪くない気分だった。
「お前にだけ話したのは、なんでだろうな。自分でも分からん。でも話してよかった気はする」
グラスの氷が、小さく音を立てて崩れた。
「弟の名前、聞いてもいいか」
少し迷ってから尋ねると、ガルドは一瞬だけ驚いた顔をして、それからゆっくりと口を開いた。
「トト、っていった。俺よりずっと利発なやつでな。将来は村を出て、街で商人にでもなるんだ、なんて生意気なことを言ってた」
「いい名前だな」
「だろ。俺には勿体ないくらいの弟だったよ」
ガルドの声が、わずかに湿った。だがそれを誤魔化すように、彼はまたグラスを傾けた。
「弟の分まで、名を上げなきゃいけない、なんて考え方は、もうやめようと思う。ただ、生きてる誰かを、次はちゃんと守れる男でいたい。それだけだ」
その言葉には、これまでの「名声への執着」とは違う響きがあった。過去に縛られた執着から、今を生きる誰かのための意志へ。ガルドの中で、何かが確かに変わろうとしているのが分かった。
「森のあの化け物、お前が読んでなきゃ、俺は今頃死んでた」
「その話は、もういいだろ」
「いや、言わせてくれ。お前の目は、本物だ」
ガルドの目に浮かんだものは、もう遠い場所を見る目ではなかった。今、目の前にいる俺を、まっすぐに見る目だった。だが、それ以上の言葉は続かなかった。彼自身、まだこの感覚を言葉にする準備ができていないのだろう。無理に言葉にしなくても、伝わるものは伝わっている。今はそれで十分だった。
「今度その台詞、部隊長の前で言うなよ」
「なんでだ」
「面倒なことになる」
「相変わらず変なやつだな、お前は」
ガルドは声を上げて笑った。久しぶりに聞く、いつもの豪快な笑い声だった。
「お前も、たまには弱音吐けよ」
ガルドがふいに言った。
「俺は別に」
「強がるなって。誰かに寄りかかるのも、悪いことじゃないぞ」
その言葉が、思いのほか胸に残った。俺は誰かに寄りかかったことが、これまであっただろうか。
その夜、宿への帰り道、ヒカリが待っていたように声をかけてきた。
「ガルドさんと、何を話したんですか」
「秘密だ」
「ケチ」
ヒカリは頬を膨らませたが、それ以上は聞いてこなかった。ただ、ガルドの部屋の方角を見て、小さく微笑んだ。
「なんとなく、いい話をしてきたんだな、って分かります」
「お前の勘も、たまには当たるんだな」
「たまに、は余計です」
軽口を交わしながら歩く夜道は、いつもより穏やかに感じられた。
「イチさんも、いつか話してくれますか。ガルドさんみたいに」
「さあな」
「はぐらかしましたね、今」
「気のせいだ」
主役の重い過去は語られて、脇役の重い過去は語られない。物語の型としては、それが普通なのだろう。だが、いつか自分の番が来たとき、この型通りに黙っていられる自信は、正直なところなかった。
誰かの重たいものを、少しだけ軽くする。それも、俺にできることの一つなのかもしれない。だが、自分の重たいものを誰かに預けるやり方は、まだ知らないままだった。
翌日、ギルドに顔を出すと、ガルドはいつもの調子で高難度依頼の張り紙の前に立っていた。
「おい、イチ。これ、報酬がいいぞ。行くか」
豪快な笑い声が、久しぶりに戻ってきていた。だがその奥に、以前とはわずかに違う何かが宿っているのを、俺は感じ取っていた。名声への渇望だけだったものに、誰かを守りたいという願いが重なっている。以前よりずっと強い動機のように思えた。
「相変わらず現金なやつだな」
「褒め言葉として受け取っておく」
フィーネが呆れたように肩をすくめ、クレアがくすくすと笑った。ヒカリだけが、俺とガルドの顔を交互に見比べて、何かを察したような笑みを浮かべていた。
いつも通りに見える日常の裏側で、確かに何かが少しずつ形を変えていく。誰も俺の働きに気づかないこの世界で、それでも隣にいる誰かの重たいものを、少しだけ軽くできる。今日はそれで十分だった。
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