第10話 隣町の依頼と、届かなかった声
お読みいただきありがとうございます。
第10話 隣町の依頼と、届かなかった声
隣町までの護衛依頼が回ってきたのは、フィーネとの一件から数日後のことだった。薬種商の荷馬車を一日かけて隣町まで送り届ける仕事だ。街道沿いに小規模な魔物が出るという理由で護衛が必要になったが、依頼としてはこれまでで一番のんびりしたものになるはずだった。
「野宿するの、初めてです」
荷馬車の荷台に揺られながら、ヒカリが物珍しそうに周囲の景色を眺めていた。彼女がこの世界に来て以来、ずっと街中で過ごしてきたことを思えば、無理もない。
「今夜中には着かないのか」
「日暮れ前には無理そうですね」
御者台からガルドが答える。予定より道が荒れていて、進みが遅れていた。
「野営、決定だな」
ガルドの声には、むしろ張り切っているような響きがあった。
結局、日が完全に落ちる前に街道脇の開けた場所で野営の準備をすることになった。焚き火を囲んで五人分の夕食を済ませた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
「見張りは交代で。俺とフィーネが最初、クレアと……」
ガルドがそこまで言いかけて、視線を巡らせた。
「イチとヒカリが後半な」
「え」
思わず声が漏れた。ヒカリも同時に何か言おうとしたが、ガルドは素早く自分の毛布を広げてしまい、それ以上の反論を受け付けない体勢に入っていた。フィーネは何も言わず、ただ薄く口の端を上げていた。あの女、絶対に分かってやっている。
前半の見張りが終わり、交代の時間になった。焚き火のそばに、俺とヒカリだけが残された。
「静かですね」
ヒカリが小さく言った。街の喧騒がない分、虫の声と焚き火の爆ぜる音だけが、やけにはっきり聞こえる。
「ああ」
それきり会話が途切れて、しばらく火を見つめる時間が続いた。ふいに、遠くの茂みで何かが動く気配がして、二人同時に身構えた。ヒカリの手が反射的に剣の柄にかかる。だが、それも一瞬のことで、茂みから出てきたのは小さな夜行性の獣が一匹だけだった。緊張が抜けると、どちらからともなく小さく笑ってしまい、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。気まずいわけではないが、居心地の落ち着き方が普段とは違う。街中では常に誰かの声や物音に紛れていた沈黙が、ここではやけに輪郭を持って感じられた。
「イチさん、市場の日のこと」
不意にヒカリが切り出した。
「あれから、ずっと考えてたんです。あの、なんでだよ、って言った時の」
心臓が跳ねた。あの日から意図的に避けてきた話題だった。
「あれは別に、大した意味は」
「私、嬉しかったんです」
ヒカリの声は、焚き火よりも小さかった。
「怒られたのに、嬉しいって変ですよね。でも、イチさんがあんなふうに感情剥き出しで何か言うの、初めてだったから」
俺は何と返せばいいか分からず、火を見つめたまま黙っていた。
「私、ずっと思ってることがあって」
ヒカリが少し体をこちらに向けた気配がした。
「イチさんは、いつも自分のことを後回しにするじゃないですか。今日だって見張りの順番、絶対わざとじゃないのに、あの言い方で決められて、それでも文句一つ言わなかった」
「別に、文句を言うほどのことじゃ」
「そういうところです」
少し強い口調だった。
「私、もっと、イチさんに」
そこまで言いかけて、ヒカリは急に言葉を止めた。風向きが変わって、焚き火の煙がちょうど彼女の顔のほうへ流れ、小さく咳き込んでいる。
「けほっ……煙、目に染みて」
「大丈夫か」
「大丈夫です、平気です」
涙目のまま笑いながら、ヒカリはそう言った。だが、さっきまで彼女が言おうとしていた続きは、煙と一緒にどこかへ消えてしまったようだった。
「何か言いかけてたよな」
「忘れました」
嘘だというのは、声の調子で分かった。それでも俺は、それ以上追及しなかった。追及したところで、自分がどう答えるべきなのか見当もつかなかったからだ。
「そろそろ交代の時間か」
話を逸らすように、俺は空を見上げた。星が、街では見えないほどの数で瞬いている。
「綺麗ですね」
「ああ」
二人分の相槌が、焚き火の音に紛れて消えていった。届かなかった言葉が一つ、この夜の空気の中にまだ漂っている気がした。それが何だったのか、確かめる勇気は、今夜もやっぱり出てこなかった。
お読みいただきありがとうございます。続きも楽しんでいただければ嬉しいです。
ブックマーク・評価・感想をいただけると、今後の励みになります。




