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第002話 一本に使ってください

ベルンの指が離れても、エルナの目は刃から動かなかった。


工房の仕事は止まったままだった。作業台の端に伏せられた槌も、その脇の細い金具も、誰かが次の手を決めるまで待っている。


ベルンは細い金具を取り上げ、折れた刃の面へ当てた。


「ここまでは元の刃だ。だが、外形を揃えるなら、この幅のままでは使えん」


金具が、刃の端から内側へ移る。


「削って形を取り直す。残っている曇りも擦れも、そのときに減る。柄は組み直しになる。鍔は残せるが、周りが新しくなれば、元の剣に占める古い部材はわずかだ」


前の説明より言葉は少なかった。代わりに、どこが残り、どこへ手が入るのかが、金具の先で区切られていった。


エルナは柄を見た。兄が握ったと聞かされなくても、長く使われた擦れは見える。その跡を残したまま、整った姿へ戻すことはできない。


セドリックが作業台の向こうから言った。


「人々が必要としているのは、名だけを借りた記念品ではありません。魔王討伐へ実際に携えられた、勇者の剣です」


エルナは顔を上げた。


「だから、直すんですか」


「損傷したままでは、広く示すことが難しい。勇者が勝利のために用いた剣を、誰もが見られる形で残したいと考えています」


声は戸口で死亡を告げたときと同じだった。押しつけるために大きくもならず、引くために柔らかくもならない。


「直したものを、兄が使った剣だと展示するんですか」


セドリックはすぐには答えず、ベルンが示した刃を見た。


「その判断のために、鑑定を求めました。実物であることを失うなら、国としても同じ物だとは扱えません」


ベルンが金具を台へ戻した。


「形を揃えれば、見た目は剣になる。ユアンが使った跡を優先すれば、この折れた姿から大きくは動かせん。両方は取れない」


エルナは、折れた刃と柄の間にある空きを見た。


この剣を見る前なら、壊れた物は直せばよいと思ったかもしれない。けれど、その隙間を埋めるために、兄が触れた場所から削っていくのだと言われた。


整えられた剣を前にして、出立前と同じだと思える自信はなかった。


「復元には同意しません」


自分の声が工房の奥まで届いた。


セドリックの視線がエルナへ戻る。


「理由を、確認してもよろしいですか」


「形を戻すために、今あるものを消すからです。人に見せられる姿になっても、それを兄の剣だとは、私は決められません」


言い終えても、何を代わりに望むのかは浮かばなかった。


箱へ入れたままにするのか。折れた姿で保管するのか。どちらも答えには見えない。それでも、目の前の復元へうなずくことだけはできなかった。


セドリックは追って別の案を出さなかった。


「所有者の意思として受け取ります。剣は現状のまま、一時保管を継続します」


ベルンは刃を持ち上げず、国側の者が部材を一つずつ箱へ戻すのを待った。蓋が閉じられ、封が施される。


剣の所在は変わらなかった。国側が箱を保持したまま、エルナだけが戸口へ向かった。


「後で連絡が必要になった場合は、こちらから伺います」


セドリックの声を背に受け、エルナは振り返らなかった。


何へ変えるかを決めたから出るのではない。決められない物を残したまま、ひとりで考える場所へ戻るために、工房を出た。


旧居の戸を閉めると、家の中には自分の足音だけが残った。


エルナはすぐには座らなかった。工房で見た刃の境目が、まぶたの裏ではなく、手の届かない作業台にそのまま残っている気がした。


やがて、置き場所を知っている古い帳面を取り出した。


表紙も中の紙も、見たことのあるものだった。兄が旅立つ前から家にあり、エルナも何度か開いている。


頁の間には、旅先から届いた手紙が挟まっていた。届くたびに読んで、なくさないよう帳面へしまったのはエルナ自身だった。


新しく見つけたものは何もない。


帳面を開くと、兄の字で店のことが断片的に書かれていた。


客が背をぶつけずに通れる広さ。大きな鍋を置く場所。洗った道具を乾かす棚。必要な物の名が、思いついた順に書かれ、空白を挟みながら続いている。


前に読んだとき、エルナは兄が帰ってから話すための覚え書きだと思った。店をやりたいと言っていたから、気が向いたときに書いているのだろう、と。


手紙を一通広げる。


そこには、旅先で食べた料理のことがあった。固い豆を柔らかくする前の手間。根菜を煮崩さず鍋へ入れる順。薄い生地を広い板で焼き、具を包んで出すやり方。


料理の行だけが細かかった。


別の手紙には、少ない火口でいくつかの鍋を回す工夫が書かれている。帳面をめくると、火口のそばへ道具を置きすぎないための書き直しがあった。


エルナは手紙を帳面へ戻しかけ、指を止めた。


今まで、帳面は帳面、手紙は手紙として読んでいた。


店の広さも、鍋を置く場所も、棚や火口も、手紙の中にある料理を実際に作って出すための準備だった。帳面の覚え書きへ、何をどの順に煮るか、少ない火口をどう使うかという旅先の気づきがつながっていく。


兄は、いつかできたらいいと同じ夢を繰り返していたのではなかった。


帰ってきたあとに始めるため、外で見たものを一つずつ持ち帰ろうとしていた。


エルナはそれを知っていた。


知っていて、帰ってから聞けばいいと思っていた。店のことも、外を見てきた人の大きな話だと受け流した。


帳面の空白は、計画がなかった印ではない。まだ帰って書き足す場所だった。


その空白を見つめても、兄から答えは返らなかった。


食堂を開けと書かれた頁はない。剣をどうしろと命じる手紙もない。エルナが見落としていたことを責める言葉さえ、どこにもなかった。


ただ、別々だと思っていた紙が、一軒の小さな店へ向いていた。


エルナは広げた手紙を重ねた。折り目を合わせたが、帳面へ戻さなかった。


兄の計画を自分が引き継げるかは分からない。店を持つつもりも、今はなかった。


けれど、兄が帰ってから使うために集めていたものを、勇者の展示へ戻すこととも、箱の中で動かさずに置くこととも違う形で、自分の生活へ渡すことはできるかもしれない。


そこまで考えたところで、エルナは椅子から立った。


帳面と手紙は机に残した。答えを証明する物として持ち出す必要はなかった。


工房へ戻ると、箱は作業域の外に置かれていた。封は戻され、国側の者がそばに立っている。


ベルンは仕事の手を止めた。セドリックもいた。


「判断が変わりましたか」


セドリックに問われ、エルナは首を横へ振った。


「復元しないという判断は変えません」


工房の誰も続けて言葉を挟まなかった。


エルナは箱を見た。中にあるのは、折れていても、まだ兄の剣だった。形を変えなければ、残った部材も、兄が使った跡も、そのままにしておける。


だからこそ、次の言葉は、復元を拒んだときとは別に口にしなければならなかった。


「再利用できる鋼で、料理に使う包丁を作ってください」


ベルンの眉がわずかに動いたが、問い返す声は実務のままだった。


「一本でいいのか」


「一本です。使える鋼は、その刃と中子へ回してください」


セドリックがエルナを見る。


「勇者の剣を、人々へ示せる形では残せなくなります」


「分かっています」


「国は復元と展示を望んでいました。その立場は変わりません」


エルナはうなずいた。


「それでも、私の物について決めます」


セドリックは目を伏せずに、その返答を受けた。


「所有者の選択として確認します。明示された依頼の範囲で、加工の取扱いへ移してください」


国側の者が封を解いた。


箱が開かれ、折れた剣がもう一度工房の明かりへ出る。今度は鑑定のためではない。


ベルンは刃を確かめたあと、エルナへ向き直った。


「先に言っておく。一本の刃と中子へ使えば、取り置ける鉄は残らん。もう一つ作れるまとまりもない。仕事に入れば、元の形へ組み直すこともできなくなる」


「残す分はいりません」


言ってから、エルナは言葉を足した。


「一本に使ってください。途中で止めるつもりもありません」


ベルンはうなずき、作業台の上を空けた。


国側の手から、剣の部材がベルンの取扱いへ渡される。彼は加工に使う部分を確かめ、固定した。詳しい説明はしなかった。エルナも尋ねなかった。


道具が刃身へ当てられた。


ベルンは最後に一度だけエルナを見た。


彼女がうなずくと、止まっていた仕事が動いた。


硬い音が一度鳴り、刃身に、元へ戻せない切り口が生まれた。

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