第001話 兄ではなく、剣が帰った
鐘の最初の響きで、エルナは持ち上げかけていた椅子を床へ戻した。
脚が板を擦る音は、二つ目の鐘に呑まれた。壁も戸も、外から押されるようにかすかに震える。
魔王討伐の勝利を知らせる鐘だった。
兄が国から一代限りの勇者の称号を受けて出ていってから、エルナは何度も帰還の日を思い浮かべた。けれど、町じゅうへ届く音が実際に鳴り始めると、何から手をつければいいのか分からなかった。戸口へ行くべきか、待つべきか。それさえ決めないうちに、扉が叩かれた。
エルナは椅子から手を離した。
「はい」
返事はしたのに、かんぬきを外す指が一度滑った。鐘がまた鳴る。今度はすぐ近くで打たれたように、扉の板越しに腹へ響いた。
開けた先に、ユアンはいなかった。
立っていたのは、見覚えのない男と、護送兵たちだった。男はセドリックと名乗った。背後では、護送兵が細長い箱を支えている。箱には封が施され、誰の手も離れていなかった。
エルナは男の顔を見てから、箱を見た。
箱は、人ひとりが帰ってきたときに持つ荷物の形ではなかった。
「勇者ユアンのご家族、エルナで間違いありませんか」
「妹です」
声が思ったより早く出た。それで次の言葉も続くものだと思ったのに、セドリックは口を閉じたまま、ほんの一呼吸だけ待った。
「魔王討伐は成功しました」
鐘が、その報告を追い越すように鳴った。
「勇者ユアンは死亡しました。遺体は帰還していません」
エルナは、扉の縁を握った。
死亡した。
その言葉と、鐘の意味が同じ場所に収まらなかった。勝ったから鳴っている。兄は死んだと、この男は言った。どちらかを聞き違えたのではないかと考えようとして、セドリックの後ろの箱に目が止まった。
「兄は」
口に出したところで、何を聞こうとしたのか分からなくなった。
「捜索は行われました」
セドリックは言葉を足して慰めようとはしなかった。
「結果を含め、室内で説明する許可をいただけますか。確認していただく物があります」
エルナは扉を開いたまま、横へ退いた。
それが招き入れる動作だと気づくまで、少し時間がかかった。
護送兵は箱を戸口寄りの台へ運んだ。置いた後も、そのそばを離れない。セドリックが封を確かめ、エルナへ視線を向けた。
「開封します」
封が解かれる小さな音は、閉めた扉の向こうから届く鐘より、はっきり聞こえた。
蓋が持ち上がる。
中にあった剣は、一本の形を保っていなかった。
柄も鍔も、出立の日まで家にあったものと同じだった。鞘へ収まっていた頃の姿なら、エルナもよく知っていた。けれど今は、柄から続く刃が途中で断たれ、残った刃身と並べて固定されていた。
光は鈍く、どの部分も動かなかった。
「勇者ユアンの私物として戦地から持ち帰った剣です。ご本人の物か、確認をお願いします」
エルナは台の前まで進んだ。
触れれば何かが決まるような気がして、手を出せなかった。代わりに、柄の形から鍔、折れた刃へと目を移す。知らない剣を兄の物だと思い込む余地はなかった。見慣れた形が、見たことのない姿になっていた。
「兄のです」
言うと、セドリックは短くうなずいた。
箱の蓋は開いたままだった。エルナは剣を見下ろし、セドリックの報告を聞いた。
魔王討伐後の撤退で、石門が予定より早く閉じ始めた。ユアンは剣で門を支え、同行者を先に通した。自分も最後に通るつもりだったが、足場の崩落が早まり、地下側へ取り残された。崩落後は進入できず、捜索ののち、死亡と判断された。
どの言葉にも、兄の最後の姿はなかった。
ただ、箱の中の折れた剣だけが、石門を支えたという報告とつながっていた。
「最初から、残るつもりだったんですか」
エルナは剣を見たまま尋ねた。
「いいえ。本人も帰還する予定でした」
セドリックの答えはすぐに返った。
それ以上は分からないのだと、続く沈黙で分かった。エルナは、開いた箱の縁に指を置きかけ、触れずに引いた。
「これだけ、ですか」
「戦地から持ち帰られ、ユアンの遺品として戻った物は、この剣だけです」
兄は戻らず、剣だけが戻った。
箱は目の前にあるのに、受け取って抱えることもできない。護送兵の手は箱のそばにあり、セドリックはその位置を変えないまま、次の説明へ移った。
「剣はユアンの私物です。死亡に伴い、所有権は近親者であるエルナへ継承されます」
エルナは顔を上げた。
「では、私の物なんですか」
「はい。ただし現在は、戦地から持ち帰った品の調査、安全確認、公的記録のため、国が一時保管しています。所有者はあなたです。保管を続けることと、所有することは別になります」
箱を持ってきたのも、持ち帰るのも国側なのだろう。だが、中の剣について決めるのはエルナだと、セドリックは言っている。
言葉だけなら分かる。兄が死んだという言葉と同じで、分かることと手が動くことはまだ別だった。
「国は、この剣の復元と恒久展示を希望しています」
セドリックの声は変わらなかった。
「魔王討伐を成し遂げた勇者の剣を、実物の象徴として残すためです。ただし、修復、恒久展示、形状の変更には、所有者であるあなたの同意が必要です」
エルナはもう一度、剣を見た。
折れた刃をつなぎ、柄を整えれば、出立前の形へ戻るのかもしれない。鐘の鳴る日に人々が見たいのは、箱の中で二つに分かれた金属ではないのだろう。
けれど、兄の死を知らされた同じ場所で、直して飾ることへうなずけと言われても、口は動かなかった。
「今、決めなければなりませんか」
「無断で進めることはありません」
セドリックは箱の中へ手を伸ばさなかった。
「まず、元の状態を知る職人に鑑定を依頼します。復元できる範囲と、変更によって失われるものを確認するためです。その結果を聞いた上で、判断していただけます」
「その職人は、兄の剣を知っているんですか」
「ベルンです。ユアンの旅立ち前に、剣を整備しています」
剣を知っている。それだけが、今は必要だった。
エルナは台から一歩下がった。
「復元するかは、今は答えられません」
セドリックは否定も催促もしなかった。
「鑑定を聞くことだけなら、同意します。私も行きます」
「承知しました」
蓋が閉じられ、封が戻される。箱はエルナの物を収めているのに、護送兵が持ち上げた。
戸を出るとき、エルナは自分の家に鍵をかけた。鐘はまだ続いていたが、箱を運ぶ足音の間に入ると、一つひとつ数える気にはなれなかった。
工房へ入ると、金属を打つ音が一度だけ途切れた。
ベルンは手元の作業を止め、こちらを見た。セドリックの説明を聞いても、ベルンは弔いの言葉を挟まなかった。箱の封と、運び込んだ者たちを順に確かめてから、作業台の場所を空けた。
箱が置かれ、再び開かれた。
ベルンはすぐには剣を持ち上げなかった。折れた刃の端、柄、鍔へ目を移し、指先で触れる場所を選んでいく。確かめるたび、国側の者が箱のそばに立ち続けているのが、エルナの視界に入った。
「これはユアンの剣で間違いない」
ベルンが言った。
「旅立つ前に、刃を研いで柄を調整した。元の部材も、そのときの状態も見ている」
セドリックが問う。
「勇者の剣として、元の外形へ復元できますか」
ベルンは折れた刃身を持ち上げ、光へ傾けた。派手な傷ではない。長く使われた金属の曇りと、ところどころの擦れが、その角度で見えた。
「形を作るだけならできる」
セドリックの視線が剣へ落ちた。
「展示に耐える状態まで?」
「勇者の剣らしい姿にはできる」
ベルンはそこで刃を戻した。金属が敷布へ触れ、短い音を立てた。
「ただし、これはそのまま残らん」
指先が、折れた刃の面を示す。
「外形を揃えるには、残っている刃も大きく手を入れる。柄も今のままでは使えない。ここにある傷も、握られて擦れた跡も、大半は消える」
エルナは、ベルンが指した先を追った。
セドリックが言う。
「元の部材を、可能な限り残す方法は」
「残すことを先にすれば、元の姿には戻らない。姿を先にすれば、残る部材は少なくなる」
「人々に示すのは、勇者が実際に使った剣でなければ意味がありません」
「なら、何をもって実際に使った剣とするかを決める必要がある」
ベルンの視線はセドリックを越え、エルナの前で止まった。
「直せるかどうかだけなら、直せる。だが、直したあとに残るのが何かは、別の話だ」
セドリックは反論しなかった。箱へ手を出すことも、作業を命じることもしなかった。
エルナは、兄の剣を見ていた。
戸口で見たときは、折れていることしか分からなかった。いまは、折れたまま残っている部分と、直せばなくなる部分が見えてしまう。
柄には、誰かが握って使った時間の擦れがある。刃には、磨き直せば消える曇りがある。それを失って整った剣になったとき、箱の中にあった物と何が同じなのか、エルナにはまだ答えられなかった。
ベルンの指が離れたあとも、彼が消えると示した箇所から、エルナの目は動かなかった。




