第003話 もう一度食べられる分
戸を叩いたのは、セドリックではなかった。
エルナが開けると、前とは違う国側の担当者が立っていた。担当者は、折り畳まれた紙を両手で差し出した。
「勇者ユアンの剣に関する、国からの正式な通知です。今後の連絡は私が承ります」
エルナは紙を受け取った。
折り目はきちんと重なっていた。開くとき、紙の端が指へ引っかかり、エルナは持ち直した。
担当者は室内へ入ろうとせず、戸口で待った。前に同じ場所へ立ったセドリックの姿を思い出したが、目の前の人物は紙の受領だけを確かめている。箱も護送兵もなく、今回は文章だけが国から来ていた。
文面は数行で終わっていた。
剣は損傷が大きく、ユアンが実際に使用した部材と痕跡を保ったまま、元の姿へ復元することはできない。よって展示は中止する。遺族に責任はなく、保管と公的な処理については国が責任を負う。
エルナは最初の行へ戻り、もう一度読んだ。
外形を作ることができないとは書かれていない。実物性を保てないから、展示しないと書かれている。
自分が復元を拒んだことも、鋼を包丁へ使うと決めたことも、そこには書かれていなかった。セドリックの名もない。
紙の短さは、説明が足りないというより、外へ出す事実をそこまでに限っているように見えた。
「公には、剣の損傷と実物性を保った復元ができないこと、展示中止を知らせています」
新しい担当者は続けた。
「故郷には、小さな碑が置かれました。以後、必要な手続きはこちらで引き受けます」
エルナは紙を畳まなかった。折り目のまま手に持ち、うなずいた。
前の担当者について尋ねれば、何か答えが返るのかもしれない。けれど、その答えが文面の外にあることだけは分かった。
担当者はそれ以上を説明せず、戸口を離れた。
エルナは紙を机へ置いた。責任の主語は国だった。前の担当者がなぜ来なかったのかを示す言葉は、一つもなかった。
小碑は、人が囲んで見上げるような大きさではなかった。
エルナは少し離れた場所から、石の表面を読んだ。
刻まれているのはユアンの名前と、生まれた年、亡くなった年を示す二つの日付だけだった。
勇者とも、魔王討伐とも書かれていない。何を成し遂げ、どこで死んだのかもない。店のことも、料理のこともなかった。
名前の下には、文字を置かない石の面が残っていた。
兄の人生を知るには少なすぎた。公に残すものとしては、それ以上を書かないと決められた形でもあった。
エルナは近づかなかった。声をかけず、何も置かなかった。
名前の文字は、知っている兄の呼び方よりも、紙に記された公的な名前に見えた。それでも、日付の間にあった時間を、碑の余白が説明してくれるわけではない。
二つの日付をもう一度目で追い、その場を離れた。
ベルンから仕事が終わったと知らされたとき、エルナは一人で工房へ向かった。
作業台には、細長い剣箱はなかった。
作業台には、一本の包丁が置かれていた。装飾も、ユアンを示す印もない。剣の柄も鍔も、折れていた刃の形も、そこには残っていなかった。
ベルンは包丁を持ち上げ、エルナへ柄を向けた。
「頼まれた一本だ」
エルナは手を伸ばした。
柄を握ると、片手の中へ収まった。兄の剣を箱越しに見たときとは、持つための姿勢が違う。腕を張る必要もなく、握った先を自分で向けられる。
わずかに角度を変えると、刃の重さが手の中で移った。握り込めば先が下がり、力を抜けば手首が戻る。特別な印がなくても、これは自分が依頼し、自分が扱うための一本だった。
「使える鋼は、刃と中子へ回した」
ベルンは包丁から手を離した。
「形見として返せる鉄は残っていない。もう一本を作れる分もない。これで全部だ」
エルナは空いた作業台へ視線を移さなかった。
残りがないことは、依頼の前に聞いていた。いま手にしている一本が、その結果だった。
「分かりました」
ベルンは使い方を語らなかった。兄ならどうしたかも、これを何と呼ぶべきかも言わない。
エルナも、剣だった頃のどこが残っているのかを尋ねなかった。刃と中子に鋼が使われている。それ以上を、見分けることはできなかった。
「受け取ります」
「仕事は終わりだ」
ベルンは頷きも大げさな礼もせず、受け渡した手を作業台の脇へ戻した。
エルナは包丁を作業台へ戻さなかった。安全に持てるよう刃を覆い、自分の手で一本を持ち帰った。
旧居へ戻ると、包丁を飾れる場所は探さなかった。
鍋を出し、豆と根菜を用意した。
豆は今食べる分だけでは足りない量を鍋へ入れた。残りを捨てずに済むよう、一度作れば翌日も食べられる量にする。
根菜を洗い、作業台へ置く。
包丁の刃を最初の一本へ当てた。押す場所が定まらず、切り口が斜めになった。エルナは向きを変え、もう一度刃を入れた。
最初の欠片は厚く、次は薄かった。
同じ大きさに揃えようとすると、手元ばかりを見てしまう。指を引き、刃の進む先を空け、切れたものから鍋へ移した。
包丁は、兄の剣のようには見えなかった。
長い刃を振るうための物でも、誰かへ示すための物でもない。根菜の丸みを押さえ、食べられる大きさへ分けるには、片手で扱えるこの形が必要だった。
刃が板へ触れるたび、乾いた音が短く続いた。
二度目、三度目と切るうちに、柄の握り方を直す回数が減った。それでも厚さは揃わない。エルナは切り直せるものだけ小さくし、細くなった端はそのまま鍋へ入れた。
豆の上へ根菜が重なった。
鍋の縁に落ちた小さな欠片を指で拾い、残りも中へ入れた。作業台には切り屑がわずかに残り、エルナは布で一度拭った。
水を加え、火を入れる。
煮立つまでの間に、エルナは帳面に挟んだ手紙を開いた。
旅先の料理について書かれた行の中に、煮込みへ香草を加える話があった。名前を覚える必要があると思わず、以前は読み流した箇所だった。
兄が食べた料理の説明は短く、どれほど入れたかまでは書かれていない。火へ入れる前か後かも、エルナには読み取れなかった。
手紙を調理台から離れた場所へ置く。
鍋の表面が動き始めたところで、書かれていた香草を一種類だけ加えた。
煮えるうちに匂いが変わった。
それが兄の覚えたものと同じなのか、確かめる方法はなかった。手紙の言葉から想像した匂いと、鍋から上がる匂いさえ、ぴたりとは重ならない。
火の具合を見ながら、鍋の底を一度かき混ぜる。
豆が柔らかくなり、根菜の角が少し丸くなるまで待った。包丁で切った大きさが揃っていないため、先に火の通るものと、まだ固いものがあった。
エルナは柔らかくなった根菜を崩さないよう、鍋の中で位置を入れ替えた。固いものを汁へ沈め、火を弱めて、また待った。
待つ間に包丁を洗った。
刃についた根菜の欠片を水で落とす。柄まで濡らしすぎないよう持ち替え、布で水気を取った。
光へ掲げることも、刃の中に昔の傷を探すこともしなかった。
水気が残っていないのを確かめ、包丁を次に取り出せる場所へ収めた。他の道具と離して飾るのではなく、使うときに手を伸ばせる位置だった。
鍋の根菜へ火が通ると、エルナは火を止めた。
一人分を器へよそった。
食卓に置いたのは、その器だけだった。
鍋には、もう一度食べられる分が残っている。
エルナは椅子に座り、煮込みを口へ運んだ。
豆は柔らかかった。厚く切った根菜には少し歯応えが残り、薄いものは汁の中で形を崩していた。香草の匂いは一口ごとに強くなるわけではなく、ときどき遅れて混じった。
兄の手紙から想像した味とは少し違った。
ユアンが旅先で食べたものとも、家で以前作った煮込みとも、同じかどうかは分からない。比べる相手も、完成した作り方も残っていなかった。
エルナは豆を噛み、根菜を食べた。
食べ終えても、思い出したことに答えはつかなかった。兄がどんな店にしたかったのかも、そこで何を出したかったのかも、知ることはできないままだった。
器の底に残った汁まで口へ運び、席を立つ。
食べた量だけ、鍋の中身は減っていた。残りを見ても、足りないとも多すぎるとも思わなかった。
器を洗い、水を切った。
鍋に残した煮込みは捨てなかった。食べ足りなかったから取っておくのでも、帰らない兄を待つためでもない。次にこれを食べるのは、翌日のエルナ自身だった。
火から外した鍋の熱が落ちるよう、エルナは蓋を少し横へずらした。




