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婚約破棄された香薬令嬢は、呪われ公爵家の空気をほどく ~魔力なしと捨てられた私だけが、冷血公爵を眠らせられる~  作者: 小竹X


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9/13

香聖女の眠り香は、侯爵家の朝を壊す

朝のベルフォール侯爵家の馬車寄せには、花が多すぎた。


白百合、橙花、薄桃の薔薇。門扉から玄関まで、客を迎えるための鉢が並び、まだ露を抱いた花弁から甘い匂いが立っている。けれど、その奥に、焦げた蜂蜜のような苦みが混じっていた。


眠り香だ。


リゼットは胸元の布を少し押さえた。膝は止まらない。彼女の隣で、ギルドの若い書記が記録板を抱え直す。後ろには、黒蝋で封じられた小さな封印箱が一つ。交差する二本線は、そのままだ。


「無理なら、玄関前で止める」


アルセーヌの声が低く落ちた。馬車の中で何度も確認された問いではない。今ここで、もう一度選ばせる声だった。


リゼットは花鉢の列を見た。甘さが強いほど、苦みは隠れる。隠れても、消えない。


「入ります。封印箱は開けません。比較に使うだけです」


「分かった」


それだけ言って、彼は先に立たなかった。侯爵家の執事が慌ただしく扉を開き、黒い礼装の公爵へ深く頭を下げる。


「ヴァレリウス公爵閣下。お越しいただき、恐れ入ります。お嬢様は二階の朝の間に」


アルセーヌは執事の言葉を遮らず、リゼットへ視線を向けた。


「こちらは、ヴァレリウス公爵家が正式に依頼している香薬師、リゼット・オルランだ。ベルフォール家の眠り香を診るのは彼女の判断で行う。私の保護下の客ではない」


執事の目が、ほんの一瞬だけリゼットの古い作業服へ落ちた。すぐに戻る。


「香薬師殿。どうぞ」


殿、と呼ばれた。胸の奥で、何かが小さく鳴った。リゼットは頭を下げ、玄関の敷石を越えた。


侯爵家の廊下は明るかった。大きな窓から朝日が入り、壁には金糸の布が掛けられている。けれど、二階へ近づくほど、空気は閉じていった。花の甘さが窓の内側で煮詰められ、喉の上に貼りつく。


「窓は」


「お嬢様が冷えを嫌われるため、昨夜から閉めております」


案内役の侍女が答える。目の下が赤い。彼女自身も眠っていないのだろう。


「火は入っていますか」


「昨夜、眠り香を一滴だけ。香聖女様の試供瓶でございます。広く使われる前に、侯爵家でお試しを、と」


若い書記のペン先が止まった。


朝の間の扉が開くと、白いリネンの匂いが押し寄せた。


寝台は奥の窓際に移されている。病室ではない。朝茶を飲むための小卓、薄い水色のカーテン、銀の鏡、花柄の寝衣。すべてが、令嬢の朝を美しく見せるために整えられていた。


その中心で、ベルフォール侯爵令嬢イレーヌは枕に背を預けていた。年はリゼットより少し下だろう。頬は白く、唇だけが乾いてひび割れている。胸元のレースが、細かく上下していた。


「水を飲んでも、すぐ喉が渇くの」


声は掠れていた。


侯爵夫人が寝台脇で両手を握っている。指輪の石が朝日に光った。


「医師には、興奮と不安だと言われました。けれど、この子は昨夜、よく眠れるようにと香を試しただけです。ラングレー家からは、夜薔薇公爵家の騒ぎに巻き込まれた恐怖が出たのだろうと」


最後の言葉だけ、少し硬かった。アルセーヌを恐れているのではない。誰を信じればよいか分からない顔だった。


リゼットは寝台へ近づく前に、立ち止まった。


「令嬢様。枕元の品を拝見してもよろしいですか。身体には触れません」


イレーヌが小さくうなずく。


「お願いします。胸が、ずっと走っているみたいで」


リゼットは小卓を見た。銀の水差し。半分残った朝茶。白い小瓶。瓶の首には、薄桃色のリボンが結ばれている。蝋に押された香聖女印章は、花弁の左肩が欠けていた。


部屋の全員が、それを見た。


「書記様。印影を」


「確認します」


若い書記は記録板を侯爵夫人へ見える角度で持った。ギルドの小さな型紙を瓶口へ近づける。欠けた左肩。コレット名義の正式登録印章にはない傷。


「春告月十六日登録の印影とは一致しません」


侯爵夫人の手が、娘のシーツを握った。


「では、これは」


「まだ、そこまでは言いません」


リゼットは静かに言った。断定を急ぐと、相手の不安も一緒に燃える。


「先に、令嬢様の息を楽にします。窓を一つ、上だけ開けてください。花鉢は廊下の突き当たりまで下げます。白磁の器には触らず、火だけ落とします」


「火だけ、ですか」


侍女が聞き返す。


「灰を動かすと、底の匂いが上がります」


セドリックが同行していればすぐ動いただろう。ここは他家だ。侯爵夫人の視線がアルセーヌへ向きかける。


彼は答えなかった。


代わりに、リゼットを見た。


侯爵夫人は唇を結び、侍女へうなずいた。


「香薬師殿の指示どおりに」


窓金具が鳴る。細く開いた隙間から、冷たい朝が入った。花鉢が一つずつ運び出されるたび、甘さの幕が薄くなる。リゼットは無香の布を水で湿らせ、枕元ではなく寝台の足側へ掛けた。


「顔の近くに置かないのですか」


イレーヌが掠れた声で尋ねる。


「近すぎると、喉が水を欲しがります。まず、足元から逃がします」


リゼットは白い小瓶へ鼻を近づけすぎず、蓋の縁だけを嗅いだ。


白花の甘さ。焦げた蜂蜜。冷水を抜かずに急いだ眠り草の苦み。


その下に、ほんの少し、夜薔薇の冷えがある。公爵家の澱そのものではない。だが、同じ方向へ沈むものを混ぜてある。


「公爵家で封じた箱を、ここへ」


アルセーヌが自分で持とうとした。リゼットは首を横に振る。


「重い方をエミール様が持つ時と同じです。底だけ支えてください。封のある面は私が見ます」


「分かった」


短い返事。侯爵家の侍女が、目を丸くした。公爵が、下働きに指図されているように見えたのだろう。けれど、その場の空気は荒れなかった。彼が当然のように従ったからだ。


封印箱は小卓の端に置かれた。黒蝋の二本線は切れていない。リゼットは白い小瓶と箱の距離を一掌分だけ空ける。


「開けないのですか」


若い書記が確認する。


「開けません。公爵家の箱は比較対象です。開ければ、侯爵家の香と混じります」


リゼットは無香紙を一枚出し、白い小瓶の栓へ触れた。栓そのものは抜かない。縁に残った香粉だけを紙へ移す。次に、封印箱の外側に残る黒蝋の匂いを、別の紙へわずかに取った。


二枚を、同じ皿に入れない。


「水を一滴」


侍女が銀匙を差し出す。リゼットは首を振った。


「銀ではなく陶器を。金属の冷えが苦みを強めます」


侯爵夫人が自分の茶碗の受け皿を差し出した。高価なものだ。薄い青磁の縁に金の線が入っている。


「これを」


「ありがとうございます」


無香紙の端に水が落ちた。白花の甘さが立つ。部屋の奥で、イレーヌが咳き込んだ。


「離して」


リゼットが言うより先に、アルセーヌが皿を持ち上げ、窓側へ移した。だが、どこまで動かすかは彼女を見て待つ。


「窓の下で止めてください。外へ出すと、風で戻ります」


「ここか」


「はい」


咳は二度で収まった。イレーヌの胸の上下が少しだけゆっくりになる。


リゼットは二枚目の紙を湿らせた。公爵家の封印箱の外側に残る香は弱い。黒蝋と乾いた布。そこへ、あの眠り草の苦みが薄く混じる。


「同じ根です」


若い書記が顔を上げた。


「同一品、という意味ですか」


「いいえ。同じ手順の失敗です。冷水で抜くべき苦みを残し、強い白花で隠し、黒沈香を焦がして重さを出している。公爵家では夜薔薇の澱と重なって眠りを奪いました。侯爵家では、花を多く閉じ込めた部屋で、喉の乾きと動悸になっています」


侯爵夫人の目が、娘の枕元へ移った。そこには、昨夜のままの薄桃のリボンがある。


「では、この子は」


「今は、足すより抜きます。水は少しずつ。香のある布とリボンを寝台から離してください。灰は、私が触るまで動かさないでください」


イレーヌが細い指を伸ばした。枕元のリボンへ触れようとする。リゼットはその手の少し手前で止まった。


「触れてもよろしいですか」


令嬢は驚いたように瞬きをした。それから、うなずいた。


リゼットは手袋越しに手首を支えた。脈は速い。指先は冷たい。香りだけで全てを診るわけではない。人の身体が出す小さな返事を、香りと分けて聞く。


「怖かったですね」


イレーヌの目に涙が滲んだ。


「私、夜会で配られた時、きれいな香りだと思ったの。お母様が、香聖女様のものなら安心だと」


侯爵夫人が顔を伏せる。


「私が選ばせました」


責める声ではなかった。自分を責める声だった。


リゼットはリボンを無香布で包み、小卓から離した。


「選ばせた人が悪いのではありません。安全だと名乗って売った側が、確かめる手順を省きました」


若い書記のペンが走る。侯爵夫人が顔を上げた。


「その言葉を、ギルド記録へ残せますか」


「残します」


書記が答えた。


部屋の空気は、すぐには変わらない。それでも、閉じた甘さは薄くなった。イレーヌの呼吸は、まだ浅い。だが、胸の上で固く握っていた手が、少し緩んでいる。


「白磁の器を見ます」


リゼットが言うと、侯爵家の侍女たちが道を開けた。


それは窓と反対の壁際に置かれていた。白磁に金の縁。美しい器だ。底の灰は白く見えるが、中央だけが灰色に湿っている。


「昨夜、一滴とおっしゃいましたね」


「はい。栓に付いた分を落としただけです」


侍女は泣きそうな顔で答える。


「量が多すぎたのではありません。部屋が閉じすぎていました。香も、閉じた部屋で使う配合ではありません」


侍女の肩から、少しだけ力が抜けた。


リゼットは灰を動かさず、縁へ付いた粉だけを取った。そこにも、欠けた印章瓶と同じ苦みがある。


「公爵家の箱と、侯爵家の瓶、侯爵家の香炉。三つとも同じ失敗の根を持ちます。ですが、侯爵家の瓶には公爵家の夜薔薇の澱は入っていません。だから、これはヴァレリウス家の呪いが移ったものではありません」


部屋の誰かが、小さく息を吐いた。


それは、アルセーヌの悪評を恐れていた息でもあった。リゼットはその音を責めなかった。恐れは、匂いと同じで、閉じ込めると濃くなる。


アルセーヌが静かに言った。


「ベルフォール家へ害を及ぼしたのは、私の家ではない。だが、同じ品で実害を受けた家として、記録には名を出す」


侯爵夫人が立ち上がった。


「公爵閣下。先ほどの非礼をお許しください。私どもは、噂に怯えました」


「娘を案じたなら当然だ」


短い答えだった。


それから、彼はリゼットを見る。


「謝る相手は、私だけではない」


侯爵夫人の視線がリゼットへ向いた。貴婦人の礼は深かった。


「香薬師殿。娘を、瓶の噂ではなく身体で見てくださったこと、感謝いたします」


リゼットは一瞬、返事を忘れた。


工房では、貴族に頭を下げられることなどなかった。間違いを見つけても、細かいと言われた。配合を守っても、売れなければ意味がないと言われた。


今、侯爵夫人の礼は、娘の寝台の横で静かに置かれている。


「まだ、治ったわけではありません。医師に喉と心の拍を診ていただいてください。私は香を退ける手順を書きます」


「お願いします」


書記が記録板を差し出した。リゼットはそこへ、開ける順、触る人、窓の幅、布の位置、香炉の灰を動かさないことを書いた。文字は少し震えたが、読める。


イレーヌが寝台から小さく言った。


「リゼット様」


様、と呼ばれるたび、慣れないところが痛む。


「はい」


「朝の空気が、少しだけ入ってきました」


窓の隙間から、花ではない匂いが入っている。石畳の冷え、濡れた土、遠くのパン窯。侯爵家の豪奢な朝ではなく、王都の朝だった。


「その匂いを、しばらく残してください」


「はい」


イレーヌは目を閉じた。眠りではない。苦しさの中で、少し休むための目閉じだった。


その時、廊下で足音が乱れた。


外出着のまま、ベルフォール侯爵が現れた。手袋も外していない。彼は妻と娘を見て、次に白磁の器、白い小瓶、記録板を見た。


「ギルド書記殿。これは、事故として扱われるのか」


「現時点では、香聖女印章つき試供瓶による実害の臨時検分です。副長老へ至急送ります」


侯爵の顎が硬くなった。


「ならば、我が家の薬庫も見ていただきたい」


侯爵夫人が驚いて振り返る。


「あなた」


「今朝、薬庫係が古い控え箱を見つけた。先代の時代のものだ。白木の箱で、黒薔薇の封がある。ラベルには、古い字でこう書かれていた」


彼はリゼットへ、一枚の古い札を差し出した。


紙は乾いているのに、指先へ冷えが移った。黒い薔薇の押し跡。その上に、緑の封蝋がかすかに残っている。


リゼットは文字を読んだ。


夜薔薇邸、鎮香確認控。


若い書記が息を呑む。アルセーヌは何も言わなかった。ただ、リゼットの手元を見て、待っている。


「開ける順を、決めます」


今度も、リゼットの声は震えなかった。

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