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婚約破棄された香薬令嬢は、呪われ公爵家の空気をほどく ~魔力なしと捨てられた私だけが、冷血公爵を眠らせられる~  作者: 小竹X


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8/18

仮印を笑う声に、眠れる部屋が答える

翌朝、夜薔薇の間から火の匂いはしなかった。


廊下に出たリゼットは、まずそれに気づいた。いつもなら東翼の奥から薄く流れてくる焦げた蜜と濡れた花の匂いが、今朝は途切れている。代わりに、窓を開けた石の冷えと、干した布の乾いた匂いがあった。息が、少し奥まで入る。


「昨夜から、香炉には触れさせておりません」


セドリックが扉脇で一礼した。徹夜明けの顔だったが、襟は乱れていない。


「夜薔薇の間の見張りは二交代。マノンは奥で休ませています。公爵様は寝室で一刻ほど」


「一刻」


思わず繰り返すと、セドリックの目元がわずかに緩んだ。


「椅子で、です。途中で起きられましたが、喉の痛みはないと」


リゼットは胸の前で指を重ねた。喜びを大きく出すと、次の手順を間違える。けれど、床石の冷たさまで少し軽く感じた。東翼の作業部屋へ向かう途中、エミールが記録箱を抱えて待っていた。


「リゼット様。ギルドから使者が参っております」


「ベルナール副長老からですか」


「副長老の封ではあります。ただ、同封された抗議状はラングレー家名義です」


部屋の空気が、一度固くなった。作業部屋の卓上には、緑の封蝋の封筒と、別に薄紫の封蝋で閉じられた文書が置かれていた。紫の方にはラングレー家の百合の印がある。押し方が強すぎて、花弁の端がつぶれていた。


ギルドの使者は、若い書記だった。005の審問室でベルナール副長老の隣にいた男で、今朝は外套の肩に細かな霧をつけている。


「副長老より、現物確認の命を受けて参りました」


彼は硬い声で言い、紫の文書へ視線を落とした。


「ラングレー家は、リゼット・オルラン殿が用いた封印を正式印章と認めず、封印箱の証拠能力に異議を申し立てています。文面では……」


そこで一度、言葉が止まる。アルセーヌは窓際に立っていた。黒い礼装の上に外套はない。寝ていない夜の青白さはまだあるが、昨日より目の奥が静かだった。


「読む前に、本人に確認しろ」


短い声だった。


書記が瞬きをする。リゼットへ向き直った。


「読み上げてもよろしいですか」


声は急かさなかった。リゼットは紫の封蝋を見た。百合の印の縁に、かすかな甘い香が残っている。ラングレー家の客間でいつも焚かれていた、安い白花香。


喉の奥が少し乾いた。


「お願いします」


書記は文書を開いた。


「『正式な個人印章を持たぬ下働き娘が、裁ち小刀で蝋に傷をつけたものを封印と称するなど、香薬師ギルドの権威を愚弄する行為である。ゆえに、当該封印箱の開封履歴および保全記録は信用に値しない』」


ニナが部屋の端で息を呑んだ。彼女の腰には、あの日リゼットへ貸した裁ち小刀が下がっている。


リゼットは、膝の震えを待った。来ない。代わりに、指先が静かに動いた。卓上の三つの封印箱へ布をかける。昨日から動かしていない。エミールの記録どおり、窓から遠い順に、未開封瓶、検品済み布、枕糸と香炉灰。


「確認を始めます」


書記の眉が上がる。


「反論は」


「反論は、箱を見てからにします」


リゼットは一番手前の箱を引き寄せた。黒い封蝋に、交差する二本の切り込みが入っている。線は細い。けれど、蝋の表面を越えて、下の紐へほんの少しかかっていた。


「エミール様。記録の最初を」


「春告月十三日、夕刻。東翼作業部屋にて、未開封の香聖女印章つき小瓶三本を第一箱へ収容。立会人、セドリック、マノン、ニナ、エミール。封印者、リゼット・オルラン。封蝋、ヴァレリウス公爵家黒蝋。仮印、交差二線。線は紐端に接する」


エミールの声は速くない。紙を読むというより、作業をもう一度置いていく声だった。


リゼットは箱を持ち上げず、卓に置いたまま向きを変えた。


「ニナ様。この線は、あなたの小刀で入れましたね」


ニナは前へ出た。唇は緊張で白い。それでも、声は通った。


「はい。私の裁ち小刀です。リゼット様が、刃先を拭いてから使われました。私は横で見ておりました」


「その後、この箱に触れましたか」


「いいえ。箱を運ぶ時も、底板を支えただけです。封のある側には触れておりません」


書記が蝋へ顔を近づける。リゼットは止めなかった。彼がギルドの細い針を出すのを見て、箱の右側へ白い布を置く。


「針を使うなら、先に布へ触れてください。金属に香粉が残っていると、蝋の縁に移ります」


書記の手が止まった。一拍遅れて、彼は言われたとおりにした。針先が蝋の縁をなぞる。二本線の交差した中心には、黒蝋がわずかに盛り上がっている。後から刃を入れた跡はなかった。柔らかい時に入れた線が、そのまま冷えて固まった形だ。


「紐も切れていない」


書記が呟いた。


「第二箱も同じ手順です。第三箱だけ、香炉灰が湿りを抱えているため、内側に無香紙を一枚挟みました。挟んだ時刻は記録にあります」


「はい」


エミールが頁をめくる。その音の途中で、紫の文書が卓上でかさりと鳴った。窓は閉じている。アルセーヌが、文書の端を指先で押さえていた。


「ギルド書記」


「はい」


「ラングレー家は、仮印が正式でないから箱が信用できないと言ったな」


「そのように」


「ならば、春告月十二日にヴァレリウス公爵家へ届いた香聖女印章つきの納品瓶は、どう扱う」


書記の喉が動いた。リゼットはアルセーヌを見た。彼はそれ以上言わない。答えを彼女へ寄こすように、一歩だけ下がった。


リゼットは紫の文書から封印箱へ視線を戻した。


「春告月十二日の瓶に押されていた香聖女印章は、春告月十六日に登録されたコレット様の個人印章と一致しませんでした」


書記がうなずく。


「審問記録にあります」


「正式印章でないものを信用できないと言うなら、ラングレー家の納品瓶の方が先に困ります。あの瓶は、正式登録前の欠けた印影で公爵家へ入っています」


ニナの肩が少し上がった。あの日、紹介者の名を信じて受け取った箱だ。


「私の二本線は、格式を飾るためのものではありません。誰が、どの時刻に、誰の前で封じたかを追えるように入れました。線だけでは足りないから、証人と記録を添えました」


書記は返事をしなかった。針を布の上へ置き、第二箱を見た。第三箱も。


しばらく、紙の擦れる音と、ニナの小刀の鞘がベルトに当たる小さな音だけが続いた。


「臨時検分記録として、受理できます」


その一言で、ニナが目を伏せた。泣くのをこらえる時の顔だった。


書記は顔を上げる。


「ただし、副長老はもう一点、確認を求めています。封印手順が職能上必要だったこと。単なる抗弁に留まらず、香薬の変質を防いだ手順であることです」


リゼットはうなずいた。


「寝室へ」


アルセーヌが扉へ向かいかける。リゼットは首を横に振った。


「先に、夜薔薇の間の入口です。火入れを止めた変化を見てから、寝室へ移ります。公爵様は廊下で」


「分かった」


あまりにすぐ従ったので、書記が目を上げた。セドリックは咳払いをしなかった。けれど、口元だけが仕事の顔でなくなった。


夜薔薇の間の前には、無香の布を持った使用人が二人立っていた。扉は半分だけ開けてある。中の香炉は空のまま、白い皿をかぶせられていた。


書記が入口で足を止める。


「昨日の夜より、軽い」


「昨日、入られたのですか」


「封蝋片の写しを届ける前に、副長老の命で廊下まで。私は咳が出ました」


彼は自分の胸元へ手を置いた。今朝は咳をしていない。


リゼットは扉の内側へ一歩だけ入り、壁布には触れず、床に置いた白い皿を指した。


「香炉の底から上がる湿りを止めました。火を入れない。灰を動かさない。窓を片側だけ開ける。昨夜はそれだけです」


「香薬は」


「使っていません」


書記が黙る。


「強い香で押さえ込むと、夜薔薇の冷えは底に溜まります。公爵様の寝室へ移ると、身体が夜を覚えます。だから、封印箱も部屋も同じです。開ける順、触る人、火と水を入れる時を間違えると、香りが変わります」


廊下の向こうで、小さな足音が止まった。休むよう命じられていたマノンが、肩掛けを羽織って立っている。


「マノン様」


「失礼を。どうしても、ひと言だけ」


セドリックが止めかけたが、アルセーヌが目で制した。


マノンは書記へ頭を下げた。


「昨朝まで、私はこの部屋の火入れの後に頭痛を起こしておりました。昨夜、リゼット様の手順で火を止めてから、耳鳴りが軽うございます」


彼女の声は弱かった。弱いまま、嘘ではなかった。


「公爵様も、椅子で眠られました。長い時間とは申せません。それでも、十年仕えて、初めて見る眠りでした」


書記は記録板を抱え直した。


「証言として、名を残しても」


「残してください」


マノンは迷わず答えた。


寝室へ移ると、白いリネンが朝の光を受けていた。香袋のない枕、空の香炉皿、片側だけ外したカーテン。豪華さは薄れたのに、部屋は昨日より落ち着いている。


アルセーヌは入口で止まった。リゼットが決めた線を、誰に言われず守っている。


書記は敷居の外から中を見た。


「公爵家の寝室を、ここまで香なしに」


「眠りを邪魔していたものを抜いただけです」


リゼットは枕元の小皿を示した。月桂葉が一枚、乾いている。


「香薬師の印章は、いい香りを足す印だけに限りません。危ないものに触らない、混ぜない、変えない。その責任にも押します」


書記のペンが止まった。


「その言葉も、記録に残します」


「お願いします」


そこで初めて、アルセーヌが口を開いた。


「副長老へ伝えろ。ヴァレリウス公爵家は、リゼット・オルランの二本線を当家の保全記録における有効な封印として扱う。正式な個人印章が必要なら、申請書を出す」


「公爵家保証で、ですか」


「本人が望むなら」


リゼットの方へ視線が来た。


望むなら。


その一語は、部屋の中で急がなかった。リゼットは自分の手を見た。香料で荒れた指先。まだ正式印章を持たない手。ニナの小刀で二本線を刻んだ時、ただ証拠を守るためだった線。今は、少し違う。


「申請します」


声は思ったより静かに出た。


「ただし、オルラン工房の印章から離し、私個人の印章として」


アルセーヌはうなずいただけだった。けれど、窓際にいたニナが両手を握り、マノンが肩掛けの端で目元を押さえた。


書記は深く頭を下げた。


「副長老へ、そのまま持ち帰ります。臨時認定の扱いになる可能性があります」


廊下に戻ると、玄関側から早い足音が近づいてきた。セドリックが受け取りに出るより先に、若い下男が息を切らして角を曲がる。


「申し訳ございません、急使です。南区のベルフォール侯爵家より、ギルドと公爵家へ同時に」


差し出された封筒から、白花香が漏れていた。甘すぎる。リゼットは封を切る前に、布を一枚挟んだ。侯爵家の青い封蝋だった。その端に、欠けた香聖女印章の写しが押されている。


書記の顔色が変わった。手紙は短かった。ベルフォール侯爵家の令嬢が、コレット・オルラン名義の眠り香を使った翌朝から、喉の乾きと動悸を訴えている。夜会で配られた試供瓶と同じ香りだという。


リゼットは紙を閉じなかった。部屋の乾いた空気の中で、白花香だけが場違いに甘い。アルセーヌが問う。


「行けるか」


「行きます」


今度は、膝も指先も迷わなかった。


「封印箱を一つ、開けずに持っていきます。私の二本線のまま」

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