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婚約破棄された香薬令嬢は、呪われ公爵家の空気をほどく ~魔力なしと捨てられた私だけが、冷血公爵を眠らせられる~  作者: 小竹X


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10/17

十年前の嘘は、黒薔薇の小箱で眠らない

薬庫へ向かう前に、リゼットはもう一度イレーヌの呼吸を見た。朝の間の窓は、上だけ開いている。白花の鉢は廊下の突き当たりまで下げられ、寝台の足元には湿らせた無香布が掛けられていた。


甘さはまだ残っている。けれど、喉の上へ貼りつく厚みは、少し薄くなっていた。イレーヌは枕に背を預けたまま、両手で杯を持っている。


「水が、苦くありません」


掠れた声だった。けれど、昨夜から走り続けていた胸は、少しだけ待つことを覚えたように上下している。


侯爵夫人の肩が落ちた。泣く一歩手前の顔で、娘の髪を撫でる。


「薬庫は、後でもよろしいのではありませんか」


ベルフォール侯爵が古い札を握ったまま言った。急ぎたい声と、娘から離れたくない声が混じっている。


リゼットは首を振らなかった。「後にします。ただし、今日のうちに開けるなら、先にこの部屋の手順を書き残します。令嬢様の香炉を誰かが動かした後では、薬庫の箱と比べられません」


若い書記が記録板を差し出した。リゼットは、窓の幅、花鉢を戻さないこと、白磁の香炉灰を動かさないこと、水を少しずつ飲ませることを書いた。最後に、薄桃色のリボンを包んだ無香布の位置を記す。


「これは証拠ですか」イレーヌが小さく尋ねた。


「はい。ですが、令嬢様の身体に近づけない証拠です」


イレーヌは杯を見下ろし、ほんの少し笑った。「怖いものが、少し遠くにあるのは、助かります」


その一言で、部屋の空気が変わった。侯爵家は、噂に怯える家ではなくなった。娘の寝台の脇で、試供瓶を隠すのではなく、遠ざけて記録する家になった。


アルセーヌは何も言わなかった。ただ、リゼットが書き終えるまで廊下へ出ずに待っていた。


薬庫は、朝の間とは違う寒さを持っていた。地階へ下りる石段は狭く、灯りは壁の金具に掛けたランプだけだった。薬庫係の老女が鍵束を抱えて先に立つ。鍵同士が小さく触れ合う音が、乾いた石の壁に返った。


「先代侯爵の時代の棚でございます。普段は封じ薬と外用薬だけを置く場所で」


「香薬は」


「高価なものは上階へ。こちらは、古い控えと、使わなくなった道具です」


扉が開くと、乾いた紙と古い木の匂いが流れた。花はない。甘さもない。けれど、奥の棚の一段だけ、冷えが重い。


白木の小箱は、布に包まれていた。布の縁には細い黒薔薇の跡がある。箱の蓋には、黒い封蝋の割れ跡。その上へ、古い緑の封蝋がかぶさっていた。


緑は乾いて白っぽく割れ、乳鉢と月桂葉の線が半分だけ残っている。若い書記が息を止めた。リゼットは箱へ手を伸ばさない。


「ランプを一つ、扉の外へ。火を近づけすぎないでください。水も、まだ使いません」


侯爵が薬庫係を見た。老女はすぐに動き、ランプを扉の外側の金具へ移した。暗くなる。けれど、封蝋の割れ目はその方が見えた。


「公爵様。公爵家の封印箱は、この部屋へ入れません。扉の外で」


「分かった」彼は黒い小箱を抱えた従者へ目で合図した。封印箱は薬庫の外、敷居から一歩離れた台に置かれる。彼自身も敷居の手前で止まった。


「あなたは中へ入られませんか」侯爵が驚いたように聞く。


「私が入ると、夜薔薇の澱が混じる」短い返事だった。


リゼットは一瞬だけ彼を見た。黒い礼装の袖口に、朝の間で動かした皿の水滴が乾いて残っている。公爵家の当主が、自分の家の疑いに触れる箱を前にして、境目で止まっている。


「必要なら呼べ」


「はい」


それで十分だった。


リゼットは無香の手袋を替えた。薬庫係、侯爵、侯爵夫人、若い書記。立会人の名を順に確認する。最後に、朝の間からついてきた侍女が、リボンを包んだ布を別の盆に載せていることを確かめた。


「白木箱の外側だけを見ます」


木目は細かい。長く置かれていたわりに、虫食いはない。蓋の端に、古い紙片が貼られていた。夜薔薇邸、鎮香確認控。その下に、小さく、預かり、とある。


「ベルフォール家が預かった控えです」若い書記が読み上げる声は低かった。


「なぜ我が家が」


侯爵夫人が夫を見る。侯爵は首を横に振った。知らない顔だった。


リゼットは箱の角へ鼻を近づけすぎず、空気だけを分けた。乾いた無香紙。黒薔薇の冷え。緑の封蝋に残るギルドの薬草。奥に、夜薔薇の間の香炉底と同じ湿り。


けれど、もう一つある。白花の甘さではない。花を隠すために足された、薄い蜜のような重さ。今朝イレーヌの小瓶にあった焦げた蜂蜜より古く、苦みは少ない。


「同じ流れにあります」書記のペンが止まった。


「同じ品ではありません。十年前の箱の方が古く、処理も丁寧です。ただ、香を閉じ込める考え方が同じです。冷えを外へ逃がさず、別の香で押さえています」


「だから、夜薔薇の間の香炉が」


侯爵夫人が言いかけて、口を閉じた。リゼットはうなずかない。断定には早い。


「開けます。ですが、蓋を上へ持ち上げません。右へずらして、下の紙が動くかを見ます」


「箱の中身が傷みますか」


「空気が急に入ると、十年前の香が一度に立ちます。朝の間へ戻したくありません」


薬庫係が青ざめた。リゼットはその手元へ布を渡す。「怖い時は、布を鼻ではなく口元へ。息を止めると、あとで強く吸ってしまいます」


老女は黙ってうなずいた。


封蝋の割れ目に銀の薄いへらを入れる。緑の蝋は脆く、乾いた音を立てた。黒い下地は硬い。蓋は、指一本分だけ右へずれた。


薬庫の空気が、細く鳴った。匂いは、強くなかった。だからこそ、リゼットの背筋が冷えた。


強い香でごまかすなら、時間とともに派手に腐る。これは、控えとして長く残るよう作られている。消えるべきものだけを抑え、残すべき印だけを閉じ込める手順だ。


中には、無香紙に包まれた薄い束があった。「紙だけですか」侯爵が言う。


「紙にも香は残ります」リゼットは一枚目を開いた。古い確認書だった。文字は細く、ところどころ薄れている。それでも、用途欄は読める。


夜薔薇邸、鎮香確認。香炉三基、壁布二枚、寝具一式。火入れ継続のこと。マノンの証言と同じ言葉が、紙の上にあった。


敷居の外から動かないまま、アルセーヌの黒い手袋の指が箱の持ち手に沈む。


「火入れ継続」


リゼットは次の行へ視線を落とした。調合確認、オルラン工房。その下に、別の署名がある。ギルドの署名ではない。細い文字で、ベルフォール家薬庫預かり役、ロラン・ベルフォール。


侯爵が息を呑んだ。


「祖父の弟です。王宮香薬局に出入りしていたと聞いている」


若い書記のペンが走る。「では、ベルフォール家は保管先として関わっていた」


「少なくとも、この控えの預かり役です」


リゼットは紙を動かさないまま、端の印影を見た。黒薔薇でも、乳鉢でもない。小さな花冠のような印。左肩が欠けている。


今朝の白い小瓶の欠けと、位置が近い。部屋にいる全員が、それを見た。


「香聖女印章ではありません」リゼットは先に言った。若い書記が顔を上げる。


「十年前の検分用の小印です。登録印章ではない。花冠の形も違います。ただ、欠け方が似ています」


「似ている、だけでは」


侯爵夫人の声は震えていた。責めているのではなく、娘の瓶とどう結びつくのかを恐れている。リゼットは、朝の間から持ってきた盆を指した。


「白い試供瓶の印影を、この紙の横へ置きます。触れさせません。見比べるだけです」


侍女が盆を差し出した。薄桃色のリボンは無香布に包まれ、瓶は栓を抜かずに横へ置かれる。若い書記が型紙を出した。花冠の小印。欠けた香聖女印章。


同じではない。けれど、左肩の欠けの位置は、同じところで止まっていた。


「古い検分用の小印を写して、香聖女印章らしく作った可能性があります」書記の声が硬い。


「可能性です」リゼットは言った。


可能性、と口にした瞬間、喉の奥が乾いた。工房で何度も言わされた「証拠がないでしょう」という声が、遠くで揺れた。けれど、今は一人ではない。薬庫には侯爵家の立会人がいて、敷居の外にアルセーヌがいる。若い書記のペンは止まっていない。


「確かめる場所があります。ギルドの古い検分印管理帳。王宮香薬局の預かり記録。ベルフォール家の薬庫台帳。そして、ラングレー家が配った試供瓶の流通記録です」


侯爵がすぐに言った。「我が家の台帳は出します」


侯爵夫人も頷く。「娘が受け取った夜会の招待状と、試供瓶を渡した者の名も」


空気が、また変わった。恐れる家ではない。名を出す家になった。


リゼットは最後に、確認書の二枚目を見た。そこには短い但し書きがあった。


鎮香確認後、余剰香包一袋をベルフォール家薬庫に預ける。王宮香薬局再検まで開封無用。


「余剰香包」若い書記が呟く。


リゼットは箱の奥を見た。無香紙の下に、小さな白い包みがある。十年前の香包だ。今すぐ開ければ、夜薔薇の間で続いた火入れの根を一つ見られるかもしれない。


アルセーヌの視線を感じた。母の部屋に入った香。十年前から眠りを奪ったかもしれない香。彼が知りたいものは、今、白木箱の底にある。


リゼットは蓋へ手を置いた。


「今日は、開けません」


誰もすぐには答えなかった。


「イレーヌ様の部屋に、まだ今朝の試供瓶の香が残っています。この薬庫にも古い香が立ちました。十年前の香包を開けるなら、王宮香薬局かギルド本審問の場で、換気と医師を置いて行うべきです」


敷居の外で、アルセーヌが短く息を吐いた。「君の判断でいい」


「公爵様の、」


母上のことです、と言いかけて止めた。薬庫の石壁が、余計な言葉を冷たく返す。


アルセーヌは首を振った。「今ここで開けて、誰かを苦しませる方が母に近いとは思わない」


リゼットは蓋を戻した。


緑の封蝋はもう割れている。だから、黒蝋の横へ新しい封は押さない。リゼットは無香紙を巻き、箱の紐を元の位置へ戻し、黒蝋の割れた横へ二本線の仮印を入れた。切り込みは浅い。今開けた者と時刻を追うための線だ。


「この二本線も、記録に残してください」若い書記は、力を込めて頷いた。


薬庫を出ると、朝の間から侍女が駆けてきた。「お嬢様が、少し粥を召し上がりました」


侯爵夫人が口元を押さえる。侯爵は目を閉じた。薬庫の冷えを出たばかりの廊下に、湯気と米の匂いが薄く流れてくる。


リゼットはそこで初めて、自分の指が強張っていたことに気づいた。アルセーヌが、無言で手袋を差し出した。


彼のものではない。リゼットが作業前に外した、無香の手袋だった。いつの間に拾っていたのか、畳まれている。


「落としていた」


「ありがとうございます」


受け取る時、指先が少し触れた。手袋越しではない。ほんの一瞬。彼はすぐ手を引いた。急がない人の距離だった。


玄関の方で、別の足音が乱れた。下男が、息を切らして廊下へ現れる。手には薄紫の封筒があった。百合の封蝋。押し方が強く、花弁の端が潰れている。


若い書記の顔が変わる。


「ラングレー家からです」侯爵が封を切った。紙を開く音が、廊下に乾いて響く。


文面は短かった。


夜会配布の試供瓶は、香聖女コレットの正式瓶と交換する。旧瓶は品質確認のため速やかに返送されたし。体調不良については、夜薔薇公爵家に関する過度の不安によるものとして扱うのが、各家の名誉のためである。


侯爵夫人の顔から血の気が引いた。リゼットは紙の端に残る甘い匂いを嗅いだ。


白花香の奥に、焦げた蜂蜜。そして、左肩の欠けた印影が、紫の紙の隅で笑うように潰れていた。

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