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婚約破棄された香薬令嬢は、呪われ公爵家の空気をほどく ~魔力なしと捨てられた私だけが、冷血公爵を眠らせられる~  作者: 小竹X


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公爵様の眠れない夜に、朝が戻る

馬車の窓に映るアルセーヌの横顔は、審問室を出てからずっと白かった。


王都の石畳を車輪が叩くたび、黒い手袋の指が膝の上で一度だけ縮む。ギルドの登録印章帳。古い照合紙。夜薔薇邸、鎮香確認。その言葉は、無香の部屋を出た後も、リゼットの鼻の奥に薄い冷えを残していた。


「公爵様」


声をかけると、彼は窓から目を戻した。


「今すぐ、あの紙の意味を追うべきではありません」


セドリックが向かいの席でわずかに顔を上げた。問い返す声はない。待つ目だった。


「寝室の空気が先です。今日の審問で、香聖女印章つきの品が眠りを奪ったことは記録されました。なら、戻った今、封じたものを外した部屋がどう変わったかを見なければ」


「私の母の話よりもか」


短い問いだった。責める声ではない。けれど、手袋の指はまた膝の布を押した。


リゼットは首を横に振らなかった。


「順番の話です。眠れない人の部屋を先にします」


車輪の音が一拍だけ大きくなった。橋を渡っている。窓の外で、夕方の光が川面に薄く割れた。


「分かった」


それだけで、彼は背を座席へ戻した。目は閉じない。閉じることに慣れていない人のまぶただった。


ヴァレリウス公爵邸へ戻ると、玄関広間の空気が朝と違っていた。


強い香はない。代わりに、濡らした布を絞った後の水気と、磨いた床石の匂いがある。使用人たちは広間の端で並んでいたが、礼だけをして道を塞がなかった。マノンが一歩進み、盆ではなく白い布束を抱えている。


「東翼の窓を開けております。寝室のカーテンは、リゼット様のご指示通り、片側だけ外しました」


リゼットは瞬きをした。


「私が戻る前に、ですか」


「昨日の記録を、セドリックから預かりました。火を使う香は止め、無香の湯だけにしております」


マノンの後ろで、ニナが小さく頭を下げた。両腕には、洗い上げたリネンがある。真新しいものではない。公爵家で長く使われて、香粉を吸っていない布だ。


「枕は、糸の詰め替え前です。開けてもよいように、まだ縫い止めておりません」


リゼットの喉に、あたたかいものが止まった。


客を迎える動きではなかった。職人が戻る前に、仕事場を整える動きだった。


「ありがとうございます。では、先に寝室へ」


アルセーヌが歩き出しかけて、すぐ止まる。


「私は入らない方がよいか」


「入ってください。公爵様の身体がどう反応するかを見ます。ただし、寝台には座らず、窓を背にした椅子へ」


「君が決めろ」


その返事に、ニナの手元が少しだけ止まった。マノンも聞いていた。リゼットは布束を受け取り、先に廊下へ進む。


寝室は広かった。けれど、広さより先に、薄さがあった。


昨日まで布の奥に貼りついていた焦げた甘さが、壁から一枚剥がれている。封印品を外しただけで、部屋は完全には清まらない。それでも、悪いものを足し続ける流れは止まっていた。香炉の皿は空。枕元には香袋がない。カーテンの片側だけが外され、窓の細い隙間から冷えた風が入っている。


「寒すぎますか」


セドリックが尋ねた。


リゼットは部屋の中央で立ち止まり、息を分けた。石の冷え。寝具の乾き。古い夜薔薇。そこへ、アルセーヌの足元から沈む冷たい花の気配。


「今は、寒いくらいでいいです。香りを閉じ込めるよりは」


ニナが寝台の脇へ膝をつく。縫い止めていない枕を開くと、昨日の焦げ匂いはない。ただ、奥に乾きすぎた草の硬さが残っていた。リゼットは指で押さず、薄い木べらで中身を分ける。


「この枕は使えます。足すものは要りません。中の眠り草を半分抜いて、乾いた綿を戻します」


「半分も」


ニナの声に驚きが混じる。


「多いほど眠れるわけではありません。公爵様の場合、香りが濃いと身体が夜を警戒します」


窓際の椅子へ座ったアルセーヌは、顔色がまだ悪かった。背筋は伸びているのに、指だけが椅子の肘を探す。眠れない人は、眠る場所で身構える。


リゼットは小瓶を出さなかった。水で湿らせた布、無香の湯、乾いた綿、月桂葉を一枚だけ。香薬師の道具としては、あまりに地味だった。


「公爵様。手袋を外していただけますか」


セドリックが動きかける。促される前に、彼は自分で右手の手袋を抜いた。


「触れるか」


「脈を見ます。手首に、布越しで」


「許可する」


リゼットは湿った布を一枚、自分の指に巻いた。肌には触れない。手首の少し上、青白い血管の横へ布の端を置く。脈は速かった。眠っていない人の速さではある。けれど、審問室で古い照合紙を見た時のような跳ね方ではない。


「今から、部屋へ香りを足しません。抜きます」


「眠らせる香薬師が、香を使わないのか」


「今日は、眠りを邪魔するものを減らす日です」


彼の口元が、ごくわずかに緩んだ。笑みと呼ぶには薄い。


「君らしい」


短い言葉で、リゼットは手元へ視線を落とした。意味を拾いすぎると、作業の順が乱れる。布越しの脈を数え、月桂葉を二つに折って、枕から離れた小皿へ置いた。


「マノン様。窓はこのまま。ニナ様、枕を戻してください。セドリック様、暖炉の灰受けを空に。火は入れません」


「承知いたしました」


三人が同時に動いた。足音は多いのに、部屋はうるさくならなかった。誰もリゼットの前へ入らない。誰もアルセーヌを急かさない。


枕が戻る。香袋のない寝台は、ひどく素っ気なかった。白いリネンに、夕方の薄い光が落ちている。寝室の床にも、窓から斜めの光が伸びていた。


「公爵様。寝台へ横にならず、この椅子のまま目を閉じてください」


「寝台ではないのか」


「寝台は、今まで眠れなかった場所です。身体が覚えています。まずは、椅子で」


一度だけ寝台を見てから、アルセーヌは目を閉じた。


沈黙が降りる。


部屋の外で、誰かが盆を持ち直す音がした。すぐに止まる。マノンが扉へ向かい、声を出さずに手だけで下がるよう示した。ニナは枕の縫い糸を持ったまま、息を詰めている。セドリックは暖炉の横で動かない。


一呼吸目で、アルセーヌの眉間が寄った。


二呼吸目で、手首の脈が少し強く打つ。


三呼吸目。肩が落ちた。


リゼットは布越しの指を離さなかった。数える。十。二十。三十。椅子の背にもたれた頭が、わずかに傾いた。起きている人の傾きではない。


ニナが口元を押さえた。マノンの目が赤くなる。セドリックは何かを言いかけて、奥歯で止めた。


アルセーヌ・ヴァレリウスは、眠っていた。


長い眠りではない。砂時計の白い砂が、まだ半分も落ちていない間だけだった。それでも、部屋の空気はその短さを大切に抱えた。誰も身じろぎしない。窓の隙間から入る風だけが、カーテンの外された金具をかすかに鳴らす。


目を開けても、アルセーヌはすぐ身体を起こさなかった。


「今は、朝か」


声が掠れていた。


リゼットは、窓の外の夕光を見た。


「夕方です」


「そうか」


彼は目元を片手で覆った。手袋をしていない手だった。指の間から、息が細く抜ける。


「喉が、痛くない」


それだけで、マノンが深く頭を下げた。ニナは縫い糸を握ったまま、泣きそうな顔で笑っている。セドリックは窓の方を向いた。礼儀正しく、誰の顔も見ない角度だった。


リゼットは湿った布を畳んだ。


「今日はここまでです。長く眠ろうとすると、身体がまた警戒します。明日も同じ手順を」


「君は」


アルセーヌが顔を上げる。


「今夜、休めるのか」


リゼットは返事に詰まった。審問室の石灰水。マリウスの声。古い照合紙。全部が、まだ身体のどこかに残っている。


「東翼の作業部屋で、記録を」


「記録はエミールに任せろ」


短く遮られた。強い命令ではない。けれど、いつもより少しだけ低い。


「君の手順で、私の部屋は息をした。次は君が座れ」


マノンがすぐ椅子を引いた。ニナが白い布を膝掛けのように整える。使用人たちの動きが早すぎて、リゼットは断る言葉を一つ失った。


「では、半刻だけ」


「半刻では足りません」


マノンの声だった。年配の侍女は、少しも笑っていない。


「香薬師様のお部屋にも、温めた無香の湯を運ばせていただきます。夕食は、香草を使わないものにいたしました」


香薬師様。


昨日まで少し硬かった呼び名が、今は仕事の名として置かれている。リゼットは、膝の上で指を重ねた。胸の奥が、香りではないもので満ちる。


その時、廊下の向こうで小さな物音がした。


マノンが振り返る。戻ってきた若い侍女が、灰受け用の浅い皿を両手で持っていた。中には、夜薔薇の間から集めた古い香炉灰がある。リゼットが朝に頼んでおいたものだ。


「申し訳ございません。灰を移しておりましたら、底に張りついていたものが」


皿の縁に、黒く焦げた小片が乗っていた。


封蝋だった。


古い。熱で丸まり、色は黒から緑へ変わりかけている。けれど、割れ残った端に、乳鉢と月桂葉の細い線が見えた。ギルドの古い透かしと同じ形。その裏側には、黒薔薇の花弁に似た押し跡が半分だけ残っている。


マノンの顔から血の気が引いた。


「その香炉は、先代奥様の頃から夜薔薇の間にございました」


立ち上がることはなかった。ただ、椅子の肘を握る指が白くなる。


リゼットは皿へ顔を近づけすぎないよう、細く息を吸った。灰に埋もれていた封蝋片からは、十年前の照合紙と同じ冷えがした。


そして、その奥に、ほんのかすかな朝の匂いがあった。

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