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婚約破棄された香薬令嬢は、呪われ公爵家の空気をほどく ~魔力なしと捨てられた私だけが、冷血公爵を眠らせられる~  作者: 小竹X


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盗人と呼んだ声が、印章帳で詰まる

香薬師ギルドの審問室は、どの工房の香りもしなかった。それがまず、リゼットには怖かった。王都で一番多くの香薬師が出入りする場所なのに、空気は乾いた羊皮紙と石灰水の匂いだけで整えられている。香りを消すための無香。誰の言い分にも寄らない場だと、壁そのものが告げていた。


三つの封印箱は、黒い布に包まれて卓の端へ置かれた。リゼットは自分の膝の上で、手袋の指を一度だけ押さえた。交差する二本線を刻んだ仮印。あの浅い傷が、今朝の光の中では小さく見える。けれど、小さいから消えるものではない。


「遅かったな、リゼット」


先に声が来た。


審問室の奥、緑の長卓の前にマリウス・ラングレーが立っていた。紺の上着に、ラングレー家の青い飾り紐。彼の後ろには、オルラン工房の代理人だという中年男が控えている。コレットの姿はない。代わりに、卓の上には花を抱く聖女の印章が押された証明書が置かれていた。


「公爵家へ逃げ込めば、工房のものを盗んでも許されると思ったのか」


喉の奥が乾く。盗人。紙に書かれていた言葉が、今度は声になった。リゼットの耳はそれを拾い、身体は一瞬だけ接客室の閉じた窓を思い出す。甘い香粉。卓を叩く指。返されなかった配合帳。


背後で、布が小さく擦れた。アルセーヌは何も言わなかった。公爵の黒い手袋が、封印箱の取っ手へ触れない位置で止まっている。代わりに前へ出る気配はない。リゼットの答えを待つ距離だった。


「申し立ての内容は聞きました」


リゼットは礼をし、長卓の中央へ目を向けた。


審問役は、灰色の髪を後ろで束ねた老女だった。名札にはベルナールとある。香薬師ギルドの副長老。彼女の隣で、若い書記が羽根ペンを構えている。ペン先には香油ではなく、鉄胆の黒いインクがついていた。


「リゼット・オルラン。まず確認する」


低く、よく通る声だった。


「ラングレー家側は、あなたが婚約破棄後にオルラン工房の調合法を持ち出し、ヴァレリウス公爵家へ無断で売り込んだと申し立てている。反論は」


「あります」


「述べなさい」


マリウスが鼻で笑った。


「どうせ、また匂いがどうのと言うのだろう。ギルドは香り遊びの場ではない」


書記のペンが止まった。ほんの一瞬だ。副長老はマリウスを見ずに言った。


「ここは香薬師ギルドです。香りを証言から外すなら、我々の資格印章も外すことになります」


マリウスの口元が固まる。リゼットは封印箱へ向き直った。


「箱を開ける順を指定してよろしいでしょうか」


「理由は」


「香りの移りを避けるためです。先に紙、次に未開封瓶、最後に検品済みの布と澱を。開封済みのものから開けると、相手方が移り香だと言えます」


副長老の目が細くなった。


「許可する。書記、順序を記録」


「はい」


封印箱の布が外される。ギルドの立会人が黒い封蝋を確かめ、エミールの記録紙を読み上げた。封印者、リゼット・オルラン。仮印、交差する二本の切り込み。立会人、ヴァレリウス公爵、従者セドリック、侍女マノン、寝具係ニナ、記録係エミール。


ニナの名が審問室に落ちた時、マリウスの眉が動いた。


「寝具係まで巻き込んだのか」


「巻き込んだのは、ラングレー家紹介の納品箱です」


リゼットは初めて、彼をまっすぐ見た。マリウスの顔に、薄い笑みが戻る。


「言い方が上手くなったな。公爵様に教わったのか」


その瞬間、アルセーヌが一歩だけ進んだ。大きな音は立てていない。それでも、部屋の空気が締まる。リゼットの横ではなく、少し後ろ。彼女の声を遮らない位置だ。


「私は、香聖女印章つきの品で実害を受けた家の当主として来ている」


短い声だった。


「彼女の言葉を教えるためではない。聞くためだ」


書記のペンがまた動き始めた。リゼットは一度だけ息を吸う。無香の部屋では、自分の呼吸がよく分かった。


第一箱から、硝子板に挟んだ納品札が出された。


「日付を」


副長老が言い、書記が読み上げる。


「王暦三一七年、春告月十二日。受取先、ヴァレリウス公爵家寝具係。紹介、ラングレー家。製造、オルラン工房。押印、工房印および香聖女印章」


「春告月十二日」


リゼットは繰り返した。


「私が婚約破棄を告げられたのは、春告月十三日です。つまり、この香薬は、私が工房から出される前に公爵家へ納品されています」


「日付など、いくらでも」


マリウスが口を挟む。乾いた指が、卓を一度だけ叩いた。


「あなたの番は後です」


乾いた音だった。工房の接客室でマリウスが卓を叩いた音とは違う。相手を黙らせるためではなく、場を戻す音。


第二箱から、未開封の小瓶が二本出された。琥珀色の硝子。花を抱く聖女の封蝋。その左肩に、細い欠け。リゼットは瓶に触れなかった。


「このまま、印章だけを見てください」


ギルドの立会人が拡大硝子を置いた。副長老が覗き、次に書記が覗く。若い手がわずかに止まった。


「欠けがあります」


「どこに」


「聖女像の左肩です。線が一部、押されていません」


リゼットは、夜会で拾った封蝋片を同じ硝子板の上へ並べてもらった。公爵家納品瓶。夜会の瓶。どちらも同じ場所が欠けている。


マリウスの代理人が前へ出た。


「印章の傷など、使用中につくものです。香聖女コレット様の正式印章であることに変わりは」


「登録印章帳を」


副長老が言った。


審問室の壁際にいた別の書記が、分厚い緑表紙の帳を運んでくる。二人がかりだった。卓に置かれると、乾いた革と古い紙の匂いが立つ。その奥に、ごく薄い冷たさが混じっていた。


リゼットは瞬きをした。夜薔薇。ほんの少しだけ。アルセーヌの足元に沈む冷えと同じではない。もっと古く、紙の繊維に閉じ込められた冷えだ。登録印章帳の端ではなく、挟み込まれた別紙のあたりから来ている。


「どうした」


アルセーヌの声は、リゼットだけに届く低さだった。


「帳の中に、古い夜薔薇の匂いがします」


「今は印章を」


「はい」


彼はそれ以上問わなかった。リゼットは帳へ意識を戻す。今追うべき順番を、彼も変えない。


書記がコレット・オルランの登録頁を開いた。


「香聖女コレット名義の個人印章登録は、春告月十六日」


部屋が静かになる。春告月十六日。リゼットの婚約破棄の三日後。公爵家への納品日の四日後。


「登録印影を確認」


副長老が言う。


帳に押された聖女は、花を抱いている。左肩の線は、切れていなかった。滑らかに、肩から袖へ流れている。


欠けがない。書記が喉を鳴らした。リゼットは、胸の奥で何かがゆっくり沈むのを感じた。怒りではない。形のある事実が、卓へ置かれる感覚だった。


「登録印章帳の印影と、公爵家納品瓶および夜会の封蝋片の印影は一致しません」


副長老の声が、審問室の石壁へ触れて返った。


マリウスの顔から、先ほどの薄笑いが消えていた。


「古い印章を使っただけだ。登録が遅れたとしても、工房内では」


「では、その古い印章の管理記録を提出できますか」


リゼットは尋ねた。マリウスの視線が刺さる。昔なら、それだけで口を閉じた。今は、卓の上に硝子板と封印箱がある。


「私は、帳面を持っていません。けれど手順は分かります。眠り草は冷水で苦みを抜きます。抜かなければ、湿らせただけで喉を乾かす匂いが上がる。黒沈香を焦がした油で隠せば、最初だけ甘くなります」


第三箱が開けられた。検品済みの布と灰色の澱。密封瓶の中で、焦げた甘さが薄く曇っている。副長老が蓋を開けようとすると、リゼットは手を上げた。


「全部は開けないでください。布の端だけを、石灰水を含ませた紙に触れさせます」


「なぜ」


「火を使うと強く出すぎます。ここで見るべきは、眠り草の苦みが残っているかどうかです」


副長老はうなずいた。石灰水を含んだ紙に、布の端が触れる。甘さが一瞬だけ上がり、すぐに苦みが追いかけた。書記が咳を飲み込む。マリウスの代理人が顔をしかめた。


「これは」


「冷水処理を省いた匂いです」


リゼットは短く言った。


「私が作る眠り香ではありません。私の手順を知っている人なら、この苦みを残さない」


「君の手順だと、どう証明する」


マリウスの声が荒くなった。


「配合帳は工房にある。君のものではない」


「私が今、ここで説明したからです」


リゼットは彼を見た。


「帳面を持っている人が正しいなら、この瓶は人を眠らせられたはずです」


審問室の隅で、誰かが息を止めた。


アルセーヌが静かに手袋を外した。左手の薬指の付け根に、薄く赤い痕が残っている。眠れない夜に自分で握りしめたのか、古い傷なのか、リゼットには分からない。


「私からも証言する」


副長老が彼を見る。


「ヴァレリウス公爵。どうぞ」


「香聖女印章つきの香薬を寝具へ近づけた夜、私は眠れなかった。呼吸が浅くなり、喉が乾いた。リゼットが火を使わずに同じ澱を示した時、使用人にも咳が出た」


言葉はそれだけだった。盛らない。誇張しない。けれど、公爵家当主の証言として記録されるには十分だった。


「そして、彼女は私の代わりに話していない。私も彼女の代わりに話さない」


書記のペンが、少し遅れて動いた。リゼットはその音を聞いていた。胸の奥が熱い。泣きたくなる熱ではない。声を保つための熱だ。


帳は閉じられなかった。むしろ、副長老の指が、先ほどリゼットが気づいた別紙の端を押さえた。


「登録印章帳に、欠けた聖女印章の記録はありません。ただし、古い照合紙が挟まっています」


マリウスが顔を上げる。


「照合紙?」


副長老は書記に目配せした。書記が慎重に別紙を開く。古い紙は端が波打ち、乳鉢と月桂葉の古い透かしが入っていた。


そこから、夜薔薇の冷えが薄く上がった。リゼットの背筋を、細い寒さが撫でる。


別紙には、花を抱く聖女ではない、欠けた肩の輪郭だけが写されていた。印章全体の登録ではない。破損印影の照合控え。日付は古く、先代公爵夫人の存命中に近い。


「この欠けは、コレット・オルランの登録印章とは一致しない」


紙面から目を離さず、副長老は言った。


「むしろ、十年前に持ち込まれた破損印影と近い。照合依頼者名は、オルラン工房。用途欄は」


そこで、彼女は一度言葉を止めた。


審問室の無香の空気の中で、古い夜薔薇だけがかすかに残る。


「夜薔薇邸、鎮香確認」


アルセーヌの手が、椅子の背を掴んだ。音は小さかった。けれど、リゼットには聞こえた。

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