盗まれた名を、香りが言い返す
申し立て控えの紙は、まだ乾ききっていなかった。黒い封筒から抜き出された一枚には、ラングレー家の青い封蝋が割れた跡と、香粉でこすった指の跡が残っている。文字は整っていた。整いすぎて、急いで書いたことが分かる。
「リゼット・オルランは、オルラン工房所有の調合法を不当に持ち出し、ヴァレリウス公爵家へ売り込んだ疑いがある」
読み上げられた言葉が、東翼の朝食室に落ちた。寝具係の若い女が、小さく息を飲む。マノンは布を畳む手を止めた。窓辺の封印箱には、昨夜から集めた香聖女印章つきの小瓶が番号順に並んでいる。どの瓶にも触れないよう、卓の端には無香の布が敷かれていた。
盗人。
その語は紙に書かれていない。けれど、行間から甘い香粉に混じって立ちのぼる。接客室の卓。マリウスの指先。返されなかった配合帳。
リゼットは、手元の密封瓶へ視線を落とした。瓶底の灰色の澱は、光の向きで鈍く沈む。紙は嘘を書ける。香りは、扱った順を残す。
「続きは」
自分で言うと、声は揺れなかった。セドリックは一拍だけリゼットを見てから、控えを読み続けた。
「同人は婚約破棄後、工房から持ち出した配合帳を用い、無断で公爵家の診香を行っている。よって香薬師ギルドに対し、調合法の返還、使用差し止め、ならびに身柄の聞き取りを求める」
身柄。
マノンの眉がはっきり動いた。寝具係は顔を青くし、封印箱の前へ半歩出そうとして、踏みとどまる。
扉のそばのアルセーヌは、紙へ手を伸ばさなかった。
「リゼット」
名前だけだった。彼の声が代わりに怒ることはない。公爵家の権威で、今すぐ青い封蝋を踏み潰すこともしない。呼ばれた名の中に、返事を待つ間があった。
リゼットは、胸の奥の息を細く吐いた。
「ギルドに出すなら、私が説明します」
「何を先に置く」
「香りが変わらないものです」
答えた瞬間、手が動いた。考えるより先に、いつもの手順が体へ戻る。白皿を三枚、密封瓶を二つ、納品札、薄紙、寝具係の受取控え。リゼットは卓上へ並べたものを、いったん全部離した。
「このままでは駄目です。昨日は屋敷内で危険を止めるための検品でした。ギルドへ見せる証拠なら、触った順と、誰が見たかを残します」
従者はすぐ羽根ペンを取った。
「記録係を呼びます」
「公爵家の方だけでは足りません。ギルドへ届ける封印に、屋敷外へ出る使者の立ち会いも必要です。封蝋は公爵家の黒と、私の仮印を並べてください。私の印章はありませんから、署名と、薬包紙へ使う小刀の刻みで代えます」
「仮印」
窓辺の低い声が繰り返した。短い声に、急かす響きはない。
「はい。オルラン工房の印章ではなく、私が今日ここで封じたと分かる印です」
そう言ってから、リゼットは少しだけ指を止めた。私の印。工房では、印章に触ることを許されなかった。帳面を書いても、瓶を仕上げても、最後に押されるのはオルラン家の印か、コレットの花文字だった。自分の手がどこまで働いたかは、いつも香りの中にだけ残っていた。
「小刀を」
寝具係が真っ先に動いた。
「私、裁ち台のものを取ってまいります。昨日の枕の糸を切った刃は、まだ洗わずに包んであります」
リゼットは顔を上げた。
「洗っていないのですか」
「リゼット様が、出所の分からないものは捨てないでとおっしゃったので」
寝具係の声は細いが、最後まで言い切った。マノンが静かにうなずく。
「私も、夜薔薇の間の香炉灰を移した時の布を残しております。水は替えましたが、布は乾かしておりません」
朝食室の空気が、わずかに変わった。昨日までなら、不安な品は早く片づけられただろう。叱られる前に、誰かが見ない場所へ押し込んだかもしれない。今は違う。怖いものを、怖いまま番号のついた箱へ入れている。
「ありがとうございます。では、刃は証拠に触れた道具として別に包みます。布は乾かさず、湿りを保ったまま密封を」
「承知いたしました」
寝具係が走りかけて、扉の手前で足を止めた。廊下の向こうから、別の足音が近づいてくる。
入ってきたのは、灰色の上着を着た若い男だった。細い眼鏡をかけ、革の記録箱を抱えている。セドリックが「記録係のエミールです」と短く紹介した。
エミールは部屋へ入るなり、卓から一歩半の位置で止まった。
「近づいてよろしい距離は」
その問いに、リゼットは少し驚いた。記録係はすでに手袋をしている。袖口は布で留め、香粉をつけていない。
「卓から半歩手前まで。まず、香りを吸い込まないでください。記録は窓側で」
「承知しました。証拠番号、品名、発見場所、立会人、封印者、封印時刻でよろしいですか」
「封を開けた人と、開けていない人も分けてください」
ペン先が止まる。
「なぜでしょう」
「封を開けていない瓶から同じ欠けが見つかれば、後から私が細工したとは言えません」
エミールの目が細くなった。疑う顔ではなかった。記録の中で、どの欄を増やすか考える顔だ。
「欄を作ります」
そのやり取りを、アルセーヌは黙って見ていた。黒い手袋の指が、椅子の背に触れている。顔色はまだ悪い。朝食室に香りはほとんどないのに、夜薔薇の冷えは彼の足元で薄く沈んでいた。
リゼットは密封瓶を手に取った。
「公爵様は、窓の近くへ。ここからは瓶を開けませんが、封蝋を温めます」
「君は」
「私は手順を指示します。香りが上がる位置には立ちません」
彼はうなずき、窓辺へ移った。すぐに椅子が引かれる。アルセーヌは座らなかった。ただ、リゼットと卓の間に入らない位置で止まった。
封蝋用の小さな火が運ばれてくる。火皿は銀で、底に黒薔薇の紋がある。熱が上がる前に、リゼットは無香の布を一枚かぶせる位置を指示した。焦げた匂いを出さないためだ。マノンが水差しを近くへ置き、寝具係が戻ってきた小刀を包みごと差し出す。
「刃には触れず、柄だけを」
「はい」
緊張で、寝具係の返事は少し高かった。
小刀の刃には、枕糸を切った時の細い繊維が残っていた。焦げた甘さが、ほんのかすかに残っている。リゼットは刃を使わない。柄の端を、柔らかくした蝋へ一度だけ押した。
浅い斜め線。もう一度、交差させる。花でも紋でもない。薬包紙に切れ目を入れる時の、リゼットの癖そのものだった。
「これを、今日の仮印にします」
エミールのペンが走る。
「封印者、リゼット・オルラン。仮印、交差する二本の切り込み。使用道具、寝具係保管の裁ち小刀。立会人、ヴァレリウス公爵、セドリック、マノン、寝具係、記録係エミール」
「私の名も、立会人へ」
寝具係が言った。声は震えていたが、今度は誰の顔色も見ていない。
「ラングレー家紹介の箱を受け取ったのは、私です。安全だと思ってしまったのも。ですから、見たことは言えます」
リゼットは彼女を見た。
「お名前を、記録してよろしいですか」
「はい。ニナと申します」
初めて聞く名だった。エミールが欄を足す。ニナは自分の名が書かれる紙を、怖そうに、それでも目をそらさず見ていた。
「証言は責任を押しつけるためではない」
アルセーヌの声が窓辺から落ちた。
「君が受け取った事実と、誰の紹介だったかを残すためだ。罰する相手を間違えない」
ニナの肩が、少し下がった。
リゼットは封印箱の蓋を閉じた。黒い封蝋、交差する二本の切り込み、エミールの記録番号。ひとつずつ増えるたび、卓の上から曖昧さが減っていく。
次は納品札だった。紙は香りを吸いやすい。直接瓶と同じ箱へ入れれば、後から移り香だと言われる。リゼットは薄い硝子板を二枚用意してもらい、納品札を挟んだ。
「札の日付は、婚約破棄の前です」
エミールが読み上げる。
「王暦三一七年、春告月十二日。受取先、ヴァレリウス公爵家寝具係。紹介、ラングレー家。製造、オルラン工房。押印、工房印および香聖女印章」
別の紙が、横へ置かれた。
「昨夜会場で回収した瓶の封蝋片です。こちらも同じ欠けがあると、リゼット様が」
「同じかどうかは、並べて見ます」
リゼットは小さな拡大硝子を借りた。香聖女印章の聖女は、花を抱いている。その左肩の線だけ、薄く途切れていた。公爵家の瓶も、夜会の封蝋片も、途切れ方が似ている。
完全に同じ、と言うにはまだ早い。
「同一の可能性が高い、と記録してください」
「断定しないのですか」
問いかけたセドリックの声に、責める響きはなかった。
「ギルドの登録印章帳を見ていません。断定はそこでします」
リゼットは硝子を置いた。
「今できるのは、同じ欠けを持つ香聖女印章つきの品が、婚約破棄前から公爵家へ入っていたことを示すことです。私が婚約破棄後に盗んで持ち出した、という話とは順番が合いません」
沈黙が落ちた。意味は、誰にも説明しなくてよかった。マノンが、濡れた布を別の密封瓶へ入れる。ニナが蓋を支え、エミールが時刻を書く。封蝋を渡す前、セドリックは火の匂いが強くなりすぎていないか窓を少し開けた。
朝食室の外では、使用人たちが通るたびに足を緩める。誰も中を覗き込まない。けれど、何が行われているかは伝わっているのだろう。廊下の端で茶器が一度鳴り、すぐ静かになった。
最後に残ったのは、申し立て控えそのものだった。リゼットは青い封蝋の割れ跡を見た。香粉で隠した汗の匂いは、まだ薄く残っている。
「これは、どう扱いますか」
エミールが尋ねた。
「写しを取って、原本は別封に。紙の匂いも残します」
「匂いも証拠になるのですか」
「ギルドでは、弱い証拠です。ですが、誰が急いだかは分かります」
言いながら、リゼットは自分の声が少し冷えているのを感じた。怒りがないわけではない。胸の奥で、まだ熱い。ただ、その熱をそのまま紙へぶつけても、マリウスの望む形にしかならない。
手順へ変える。リゼットは申し立て控えを硝子板へ挟んだ。
「私の配合帳は、オルラン工房にあります。返還を求める書面も必要です。ただし、盗まれたと叫ぶだけでは足りません。帳面にしかない配合と、帳面がなくても私が説明できる手順を分けます」
「明日の審問で言うのか」
アルセーヌが問うた。
明日。その一語に、リゼットは顔を上げた。アルセーヌは、まだ正式な呼び出しを受けていないことを知っている。だからこれは予測だ。ラングレー家がこの速度で控えを回したなら、ギルドもすぐ動く。
「呼ばれれば」
「呼ばれなくても、こちらから行く」
セドリックの目が上がった。マノンも手を止める。
窓辺から卓へ戻らず、アルセーヌはその場で続けた。
「ヴァレリウス公爵家は、香聖女印章つきの品で実害を受けた家だ。私は依頼主として、証人になる」
リゼットの指が、硝子板の縁で止まった。証人。後ろ盾ではない。庇護者でも、代弁者でもない。同じ場に立ち、見たことを言う人。
「公爵様が出れば、話が大きくなります」
「もう大きい」
短い返事だった。
「君一人の盗用疑惑ではない。私の屋敷へ、眠りを奪う香薬が入った。ニナが受け取り、マノンが苦しみ、私が眠れなかった。公爵家の名を使いたい者には、そう伝えればいい」
セドリックは静かに頭を下げた。エミールはペンを止めない。ニナは口元を結んでいた。マノンの目は、いつもより少し強い。
リゼットは硝子板を置いた。
「では、私も言います」
声は大きくない。けれど、部屋の端まで届いた。
「私の調合は、誰かを酔わせるための飾りではありません。眠れない人を、眠れるところまで連れていくための手順です。盗んだかどうかを問われるなら、私の手で答えます」
うなずいたのはアルセーヌだった。
「それでいい」
それだけだった。甘い言葉はない。安心しろとも言わない。けれど、リゼットは少しだけ息がしやすくなった。
昼を過ぎる頃、封印箱は三つになった。第一箱は、未開封の香聖女印章つき小瓶。第二箱は、検品済みの澱と布、枕糸、香炉灰。第三箱は、納品札、封蝋片、申し立て控えの写し。箱ごとに黒い封蝋と交差する二本の切り込みがつき、エミールの記録紙が結ばれている。
最後の紐を締めた時、玄関の鐘が鳴った。廊下へ出たセドリックが戻ってくる。手には白い封筒があった。封蝋は青でも黒でもない。香薬師ギルドの緑、乳鉢と月桂葉の印。
「ギルドからです」
部屋にいた全員が、手を止めた。
封を切ったセドリックは、短い文面へ目を走らせる。
「明日午前、予備審問。リゼット・オルラン様、ヴァレリウス公爵家代理人、ラングレー家代理人の出頭を命じる、と」
リゼットは、封印箱に刻まれた二本の線を見た。盗まれた名で、呼び出される。でも、その名はもう、彼らだけのものではない。
「参ります」
窓辺からアルセーヌが言った。
「私も行く」
リゼットはうなずき、三つの封印箱へ布をかけた。香りは閉じ込められている。それでも、どこかに薄い朝の匂いが残っていた。




