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婚約破棄された香薬令嬢は、呪われ公爵家の空気をほどく ~魔力なしと捨てられた私だけが、冷血公爵を眠らせられる~  作者: 小竹X


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3/14

香聖女の印章は、眠りを奪う

枕の縫い目から出た焦げ匂いは、朝になっても消えなかった。


リゼットは小さな白皿を三枚、東翼の朝食室の卓に並べた。ひとつは昨夜の枕から抜いた糸くず。ひとつは夜薔薇の間の香炉灰。最後のひとつは、納品箱から出たばかりの琥珀色の小瓶だった。


小瓶の封蝋には、花を抱いた聖女の印章が押されている。


「オルラン工房より、ヴァレリウス公爵家寝具係宛て。紹介者はラングレー家」


セドリックが納品札を読み上げた。声はいつも通り静かだが、紙を持つ指先だけが硬い。卓の横では、寝具係の若い女が青ざめた顔で立っていた。両手を前で組み、爪が手袋に食い込んでいる。


マノンも同席していた。今朝はこめかみに手を当てていない。けれど、白い襟元に緊張が残っている。


「昨夜、枕を替えたのは私です」


寝具係が言った。


「香薬は縫い目へ直接入れておりません。箱の中で、枕と一緒に包まれておりました。ラングレー家のご紹介で、香聖女様の眠り香なら安全だと」


最後の方は、声が少し細くなった。


リゼットは責める言葉を探さなかった。責めるなら、香りの出所だ。


「箱の中身を、順番通りに出していただけますか」


「はい」


寝具係は籠へ残っていた薄紙を卓に広げた。白いリネン、乾燥させた薔薇の小袋、封を切っていない香薬の瓶が二つ。薄紙の端には、甘い粉が点々とついている。花の色に紛れるような、淡い灰色だった。


リゼットは息を浅くする。甘い。けれど、眠りへ向かう甘さではない。焼けすぎた蜜に、喉を乾かす苦みが混じっている。黒沈香の芯が粗く割れ、眠り草の苦みを抱えたまま香油へ落とされている。


「窓を開けます。香薬を温めないでください。火も近づけません」


「手伝う」


戸口から落ちたアルセーヌの声に、全員が振り向く。彼は黒ではなく、灰色の上着を着ていた。夜をまとったような昨日までの色より、朝の冷えに近い。顔色は悪いままだが、足取りに乱れはない。


リゼットは一礼した。


「公爵様。危険量までは使いません」


「それでも、君が止める前に私が止める。そういう役が要るのだろう」


短い言葉だった。セドリックがすぐ窓へ向かう。マノンは水差しと無香の布を用意した。寝具係は、自分の持ち場を取り戻すように、薄紙を押さえた。


リゼットは胸の奥で息を整えた。ここは工房ではない。早く仕上げろと急かす声も、失敗すれば代わりはいくらでもいると言う視線もない。卓の向こうで、アルセーヌが一歩分の距離を空けて立っている。


待っている。


「まず、同じものかどうかを見ます」


リゼットは細い匙を取り、瓶底の澱をほんの少しだけ掬った。布の端へ移す。灰色の粒は水を吸う前に、薄く光った。嫌な光だった。花粉でも灰でもない。よく乾いた鉱物粉のように、目を刺す。


「マノン様、昨朝の頭痛に似た匂いがしたら、すぐおっしゃってください。寝具係様は窓側へ」


「私も見てよいのでしょうか」


寝具係が尋ねた。


「見てください。あなたが悪いと決めるためではありません。次に同じ箱を受け取らないためです」


寝具係は唇を噛み、うなずいた。


水で湿らせた布に澱を伸ばすと、甘さがふわりと上がる。すぐに、喉の奥が乾いた。マノンが小さく咳をする。セドリックの眉間が寄った。


「この段階で咳が出るなら、眠り香ではありません」


「火を入れてもいないのに」


マノンの声が低い。リゼットは答えた。


「火を入れたら、もっと早く上がります」


もう一枚の布を重ねた。甘さを押さえ、苦みだけを拾う。鼻の奥で、昨夜の夜会が一瞬よみがえった。閉じた接客室。マリウスの指が卓を叩く音。コレットの扇。瓶底の澱。


喉が詰まりかける。


「リゼット」


名を呼んだのはアルセーヌだった。それだけだった。リゼットは白皿へ視線を戻した。


「続けます」


「無理をする必要はない」


「無理ではありません。ここで止めたら、ただの気のせいに戻されます」


部屋の空気が止まった。自分の声が、思ったよりはっきり響いていた。リゼットは布の端を折り、香りを細く逃がす。


「眠り草は、本来なら冷水で苦みを抜いてから使います。これは芯が残っています。そこへ黒沈香を焦がした油で重ねている。最初は甘いので、眠れると思う方もいます。けれど、少し経つと喉が乾き、まぶたの裏が熱くなります」


「昨夜の夜会と同じ症状でございますね」


そう言ったセドリックは、窓から入る風の向きを確かめている。


「はい。枕から出た匂いとも根が同じです」


リゼットは三枚の白皿を近づけた。枕の糸くず。夜薔薇の間の香炉灰。香聖女印章の澱。


同じ甘さが、違う濃さで重なっている。リゼットは皿の縁をそろえた。


「夜薔薇の間の灰は古いものです。枕は新しい。今日の瓶は封を切ったばかり。古さは違います。けれど、処理の癖と焦げは同じです」


マノンが白皿を見つめた。


「では、旦那様の寝室へ、外からこれが」


「入りました」


寝具係が息を飲む。リゼットは彼女へ向き直った。


「納品日は」


「おとといです。ラングレー家の使いが直接。公爵様の不眠に効けば、今後は定期納品にと」


「おととい」


リゼットの指が止まった。婚約破棄の前だ。コレットが夜会で披露する前から、この瓶は公爵家へ入る予定だった。


「納品札を見せてください」


差し出された紙の日付は、リゼットが接客室に呼び出される一日前。工房の正式印章。その横に、聖女印章が重ねて押されている。


リゼットは印章の縁を見た。花を抱く聖女の左肩だけ、線が欠けている。夜会で見た瓶にも、同じ欠けがあった。


「この印章、欠けています」


「偽造ですか」


寝具係が青い顔で言った。


「いえ。少なくとも同じ印面です。工房で使っているものそのものか、同じ傷がある複製です」


マノンが椅子の背を握った。


「香聖女様の品、と皆が申しておりました」


その呼び名が、部屋に落ちた。香聖女。布を畳むと、コレットの笑顔が頭の隅に浮かぶ。甘い声。軽い扇。お姉様には申し訳ないけれど、という言葉。


申し訳ないと思う人の香りではなかった。


「香薬師に聖女の名は要りません」


誰も返さない。リゼットは瓶の封を戻し、灰色の澱がついた布を密封瓶へ入れた。小さな金具を留める音が、やけに大きく聞こえる。


「必要なのは、吸った人が息をしやすいかどうかです。この香薬は、公爵様を眠らせません。眠りへ落ちる前に、身体を起こしてしまいます。公爵家の夜薔薇の澱と重なれば、なお悪い」


「断言するか」


問いはアルセーヌから来た。


リゼットは彼を見た。逃げ道のない問いではなかった。彼の手は卓に置かれていない。答えを急かす姿勢でもない。


だから、選べた。


「はい。危険です。少なくとも、ヴァレリウス公爵家では使用を止めるべきです」


アルセーヌはすぐセドリックへ目を向けた。


「屋敷内のオルラン工房印、ラングレー家紹介、香聖女印章つきの品をすべて集めろ。香炉、寝具、衣装箱、馬車の膝掛けまでだ。リゼットの確認が終わるまで封を開けるな」


「承知しました」


「寝具係」


若い女の肩が跳ねた。


「君を罰する話ではない。次からは、紹介者の名ではなく中身で止めろ。止めてよいと、今ここで命じる」


寝具係の目に、急に水が浮いた。彼女は深く頭を下げた。


「はい。必ず」


リゼットはその横顔を見た。工房で老女が小声で頼んできた時と似ている。間違いを押しつけられる前に、誰かが止めてよいと言うだけで、人の背は少し伸びる。


マノンが静かに言った。


「リゼット様。昨日、私が楽になったのは気のせいではなかったのですね」


「気のせいで頭痛は半分になりません」


若い寝具係が、小さく笑った。すぐに口元を押さえたが、マノンの目元もゆるんだ。


白皿を見下ろしたまま、アルセーヌが言った。


「君の配合帳が戻れば、もっと早く分かるのか」


その一言で、胸の奥に硬いものが触れた。リゼットは首を横に振った。


「早くはなります。ですが、なくても分かります。これは私が書いた配合を雑に写したものです。帳面を奪われても、私の鼻と手順まで奪われたわけではありません」


窓の外で、朝の風がリネンを揺らした。


言ってから、リゼットは少し遅れて自分の手を見る。震えていなかった。怖さは残っている。けれど、怖いままでも言えた。


短くうなずいたアルセーヌは、すぐ対価の話へ移った。


「なら、その鼻と手順に対価を払う」


「契約には含まれています」


「今回の証拠保全は別だ。君の仕事が増えた」


新しい紙は、すでにセドリックの手元に用意されている。公爵家の人々は、命じられた時の動きが早い。けれど今は、リゼットの白皿を避け、布に触れず、窓を閉めない。誰も勝手に片づけない。


それが、なにより仕事をしやすかった。昼前には、東翼の朝食室の前に小さな列ができた。


侍女が衣装箱を抱え、馬丁が膝掛けを持ち、料理番が食堂の香草袋を差し出す。全員、どこか不安げで、それでも扉の前で立ち止まるたび、リゼットに目で確認を求めた。


「これは台所の月桂葉です。問題ありません」


「こちらの手袋は、外から来た香粉がついています。密封を」


「この湯布は無香です。寝室へ戻せます」


ひとつずつ分ける。危険なものばかりではない。安全なものを安全だと言うことも、同じくらい大事だった。


寝具係がリストを書き、マノンが布の替えを運び、セドリックが封印箱へ番号を振る。アルセーヌは途中で退いた。体調のせいだろう。それでも退く前に、彼は使用人たちへ言った。


「この部屋では、リゼットの手順に従え」


それだけで十分だった。夕刻、最後の封印箱が閉じられた頃、黒い封筒を手に戻ってきたのはセドリックだった。


今朝の納品札とは別の紙だ。封蝋はラングレー家の青。嫌なほど整っている。


「王都の香薬師ギルドへ、ラングレー家から申し立てが出るそうです」


リゼットは手を止めた。セドリックは封筒を開かず、卓の上へ置いた。


「内容は、リゼット様がオルラン工房の調合法を盗み、ヴァレリウス公爵家へ持ち出した、とのこと」


部屋の中で、誰かが息を詰めた。


リゼットは封蝋を見た。甘い焦げ匂いはしない。ただ、紙の端に、香粉で隠した汗の匂いが薄く残っている。


マリウスの字だ。扉の陰から、アルセーヌの声が静かに落ちた。


「では、次はギルドに見せる証拠を整えよう」


リゼットは白皿の上の灰色の澱を見た。奪われた名前で、奪われたと言い返される。けれど、今度は一人で閉じた部屋にいない。


「はい」


リゼットは密封瓶へ封を重ねた。


「香りは、紙より先に残ります」

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