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婚約破棄された香薬令嬢は、呪われ公爵家の空気をほどく ~魔力なしと捨てられた私だけが、冷血公爵を眠らせられる~  作者: 小竹X


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2/16

もう客ではない部屋に、朝の香りが入る

黒い封蝋の依頼状は、一晩置いても甘い焦げを移さなかった。


それが、リゼットには少し不思議だった。昨夜の夜会の香りは、まだ髪の奥と外套の裏に残っている。焦げた蜂蜜、粗い黒沈香、開け放した窓から入った冷たい夜気。何度洗っても、指の節だけがあの接客室を覚えていた。封筒から立つのは夜薔薇の冷えと、その底に沈む薄い朝の匂いだけだった。


ヴァレリウス公爵邸の門は、王都の北端にあった。


黒い鉄柵には薔薇の蔓が絡んでいる。花は咲いていた。艶のある黒に近い紫で、雨を含んだように重い。近づいても強い香りはしない。花そのものは静かで、土の湿りと石の冷えだけが足元へ落ちている。


問題は、屋敷の方だった。リゼットは門をくぐった瞬間、息を細くした。


布だ。


厚いカーテン、壁布、来客用の敷物。まだ見えていないものまで、鼻の奥へ形を作る。古い香炉の煙が何年も染み込み、そこへ冷たい澱が重なっている。花の香りではない。眠り損ねた夜が、布の織り目に乾いて残った匂いだった。


「お辛いですか」


横を歩いていた男が足を止めた。昨夜、公爵の背後に控えていた銀髪の従者だ。名をセドリックと名乗ったばかりで、丁寧な声に反して、リゼットの外套と靴を何度も確かめている。


逃げるかもしれない、と思われているのだろう。


「辛いほどではありません。門の内側から空気が変わります」


「旦那様の呪いですか」


「まだ分かりません。呪いという言葉で片づけるには、染みついたものが多すぎます」


セドリックは返事に少し遅れた。「それを、分けられるのですか」


「仕事にするなら」


リゼットは依頼状を握り直した。


昨夜、宿の小さな机で契約書を読んだ。期間は七日。延長は双方の同意。報酬は日ごとに支払い、薬材費は別。危険を感じた作業は拒める。私物と配合記録は本人の所有物とする。リゼットの名で作った香薬を、ヴァレリウス家は無断で販売しない。


どの条項も、工房では一度も与えられなかったものだった。


だからこそ、怖かった。紙に書かれた尊重は、破られた時にどんな音を立てるのだろう。


玄関広間の扉が開く。


冷たい空気が流れ出た。広間の奥、黒い階段の手前にアルセーヌ・ヴァレリウスが立っていた。昨夜と同じ黒い礼装ではない。首元を緩めた濃灰の上着で、顔色はまだ青白い。眠れた人の顔ではなかった。


「来たか」


短い言葉だった。


従者が頭を下げる。リゼットも礼をした。目を上げる前に、アルセーヌの靴が半歩だけ後ろへ下がる音がした。


近づきすぎないための距離だった。


「契約書は読んだか」


「はい。三か所、追記をお願いします」


セドリックの視線が上がった。玄関の端で待っていた侍女たちも、わずかに動きを止める。公爵の眉は動かない。


「言え」


「一つ。香炉、寝具、衣服、薬材箱を確認する時、持ち主の許可を得ること。二つ。出所の分からない香薬は、私の判断で密封できること。三つ。客間ではなく、換気できる作業部屋をいただきたいこと」


「客間では足りないか」


「客として座っていては、布の匂いは変えられません」


リゼットの声は思ったより固かった。広間の空気が、喉の内側に薄く貼りつく。急かされる前に言わなければ、と指が依頼状の角を押した。


「北か東に窓がある部屋を。直射の西日が入ると、薬草が傷みます。水場が近いとなお助かります」


彼はセドリックへ視線を向けた。


「東翼の朝食室は」


「この二年、使っておりません。換気はできますが、暖炉が」


「暖炉は使えるようにしろ。鍵はリゼットに渡す」


鍵。


リゼットは顔を上げた。


「私に、ですか」


「君の作業部屋だ。出入りを管理できなければ、配合記録も守れない」


そこで一度、言葉が切れた。広間の空気が冷たいせいか、彼の呼吸は浅い。急ぐ様子はない。


「内側から閉められる。不要なら返せ」


胸の奥で、小さく音がした。


昨夜割れたものは戻らない。欠けた場所へ、まだ名のない道具が置かれたようだった。


「お借りします」


「借りるのではない。契約期間中は君の管理下だ」


銀の鍵が差し出された。リゼットは両手で受け取る。冷たい金属が掌に乗った。


その時、広間の右手で茶器が鳴った。


侍女の一人が盆を持ち直している。年配の女だった。白い襟は乱れていないが、こめかみのあたりを押さえた指だけが強い。茶の香りは薄い。代わりに、彼女の袖口から古い香炉灰の匂いがした。


「マノン」


彼が呼ぶ。


侍女はすぐ姿勢を正した。


「失礼いたしました」


「また頭痛か」


「朝だけでございます。いつものことで」


いつものこと。


リゼットはその言い方に、工房の老女を思い出した。痛みを仕事の一部として畳み込む声。誰にも数えられないまま、日々の底へ沈む声。


「マノン様。昨夜、夜薔薇の間にお入りになりましたか」


侍女の目がリゼットへ向いた。警戒ではない。公爵家の使用人として、余計なことを言わない顔だった。


「朝の火を入れに」


「その後から痛みますか」


「いつもです」


「でしたら、先にそちらを見せてください」


従者が口を開きかけた。先に、低い声が落ちる。


「案内を」


短い命令で、セドリックが動いた。


夜薔薇の間は、一階の奥にあった。


扉の前から、空気が違う。広間の冷えは石と布の匂いで、この部屋には甘さが混じっている。花ではない。眠り草を古い油で煮すぎた時の、喉へ絡む甘さだ。


マノンが扉を開ける。


重いカーテンが窓を塞いでいた。昼前だというのに、室内は夕方のように暗い。黒薔薇の刺繍が入った長椅子、銀の香炉、暖炉脇に積まれた白い薪。部屋の真ん中に置かれた小卓には、昨夜のものではない茶器が二客残っている。


リゼットは一歩入って、すぐ止まった。


「香炉に火は」


「朝、少しだけ。旦那様がこの部屋を通る前に、空気を和らげるよう先代の頃から」


「蓋を開けても?」


マノンがアルセーヌを見た。公爵の視線はリゼットにあった。


「持ち主の許可が要るのだろう」


リゼットはうなずいた。


「はい」


「この部屋の香炉を確認する許可を出す。危険なら密封していい」


「ありがとうございます」


香炉の蓋は、見た目より重かった。銀の縁に黒い膜がついている。灰は細かいが、混ざってはいけない粒がある。焦げた眠り草。古い黒沈香。そこへ、夜薔薇の冷えが油のように染みている。


マノンの頭痛は、呪いそのものより、この重ね方に近い。


「窓を二つ開けます。カーテンは東側だけ。急に光を入れると、残った香りが上がります」


「はい」


「無香の布と水、それから火の入っていない炭受けを。香炉は床に置かず、窓の下へ」


セドリックの合図で、部屋の中に人が増える。椅子の脚が絨毯に沈み、窓の留め金が固い音を立てた。誰かが咳を飲み込む。リゼットはそれを聞いて、香炉から顔を離した。


「咳を我慢しないでください。出るなら出した方が早いです」


若い侍女が慌てて口元を押さえた。


「失礼を」


「失礼ではありません。部屋の方が悪い」


その言葉に、マノンの眉がほんの少し動いた。


リゼットは水に布を浸し、絞りすぎないまま香炉の縁を拭った。黒い膜が布へ移る。甘さが鈍り、代わりに鉄錆に似た匂いが浮いた。昨夜の灰色の澱より細い。根は同じだ。


「月桂葉を少し。薄荷は入れすぎません。頭痛のある方には強すぎます」


持ってきた小瓶を開ける。落とすのは一滴だけ。湿った布を香炉の上へかざし、煙を立てずに残り香を拾う。窓から入った風が、部屋の上の方へ回った。


黒薔薇の刺繍が揺れる。


暗い部屋に、細い光が入った。埃が見えた。銀の香炉の脚元に落ちていた灰も見えた。見えるようになるだけで、怖さは少し薄くなる。


「マノン様、こちらへ。香炉の正面を避けて、窓を背にしてください」


「私が、ですか」


「はい。香りを吸わせず、抜きたいので」


マノンは迷った。年配の侍女が主の前で椅子に座るのをためらうのは、リゼットにも分かった。短く、主の声が落ちる。


「座れ」


マノンは座った。リゼットは彼女の袖口へ触れない距離で、湿らせた布を膝の上に置く。


「額に当てず、手元に。ゆっくり息をしてください。苦ければ止めます」


「香薬師様、これは治療なのでしょうか」


「掃除の手前です」


若い侍女が小さく瞬きをした。笑ったのかもしれない。すぐ真面目な顔に戻ったが、部屋の空気が少しだけ動いた。


マノンは布の上へ視線を落とし、息を吸った。


一呼吸。


二呼吸。


三呼吸目で、肩の力が抜けた。


「耳鳴りが、遠くなりました」


その声は掠れていた。驚きで、礼法が少し遅れている。


リゼットは香炉の灰を炭受けへ移した。黒い粒を一つ、白い小皿へ分ける。指では触れない。


「灰は捨てずに残してください。出所を調べる必要があります。マノン様の頭痛は、夜薔薇の澱に古い眠り香を重ねたせいで悪化しています。香りで香りを隠すほど、部屋に層ができます」


「先代奥様の頃から、この部屋では香を絶やさぬようにと」


マノンが言った。


リゼットは手を止めた。


先代奥様。


その一語に、公爵の視線が窓へ移る。外の黒薔薇が風に押され、花弁の裏を見せた。


「責めているのではありません。続けてきたことが、今の公爵様の身体に合わなくなっているのかもしれません」


「母は、眠れない夜を嫌った」


低い声だった。部屋の誰も返事をしない。


リゼットも、すぐに理由を尋ねなかった。今追うべきは、マノンの頭痛と部屋の空気だ。


「今日から、この部屋では火を使う香を止めます。代わりに、朝は東の窓を十五分。昼に布を干す。夜は無香の湯で香炉の縁を拭く。それだけで三日は様子を見られます」


「香薬は使わないのか」


問いはアルセーヌから来た。


「足す前に、抜きます。足すのは最後です」


彼はうなずいた。


「分かった」


たったそれだけで、部屋の人々が動き出した。セドリックが記録係へ指示をし、若い侍女がカーテンを留める。マノンは椅子に座ったまま、まだ自分のこめかみに触れていた。


「香薬師様」


「リゼットで構いません。契約書にも、職名は香薬師とだけ」


マノンは姿勢を直した。


「では、リゼット様。朝から針で刺されるようだった痛みが、半分ほどに」


「今日は強い茶を避けてください。水を多めに。髪に香油を使っているなら、今夜だけ休んだ方がいいです」


「髪にまで分かりますか」


「椿油に、白い麝香が少し。害はありません。今の部屋では残りやすい香りです」


マノンは目を伏せた。


「承知しました」


その声には、さっきまでの固さがなかった。


リゼットは皿に分けた黒い粒を包み、持参した小箱へ入れる。小箱の蓋を閉める前に、アルセーヌが近づきかけて止まった。


「見ても?」


「はい。触れないでください」


彼は小箱を覗き込むだけにした。距離は近い。袖が触れるほどではない。リゼットは昨夜の夜会で彼が布の端をつまんだ手を思い出した。


「昨夜の香と同じか」


「似ています。まったく同じではありません。こちらは古い。何度も火を入れ直した匂いです」


「オルラン工房のものか」


「断言はできません」


言ってから、リゼットは小箱の中の粒をもう一度見た。焦げの奥に、砂糖菓子のような甘さが細く残っている。コレットの袖口から立っていたものと、よく似ていた。


「昨日の夜会で嗅いだものと、根が近いです」


公爵の顔色は変わらなかった。


「なら、急がなくていい。君が断言できるところまででいい」


リゼットは小箱を閉じた。


急がなくていい。


その言葉は、強い香りよりもゆっくり胸へ入ってきた。工房では、いつも逆だった。早くしろ。黙って仕上げろ。理由を言うな。売れる形にしろ。


ここでは、理由を言えと言われる。


「次は、どこを見る」


リゼットは部屋を見回した。窓、香炉、カーテン、マノンの袖口。今すぐ全てを調べたくなる。焦れば匂いは混ざる。


「公爵様が一番長くいらっしゃる場所を。寝室です」


セドリックがわずかに息を詰めた。公爵は一拍置いた。


「許可する。無理なら途中で出ろ」


「危険なら出ます」


「危険でなくても、辛ければ出ろ」


リゼットは返事を忘れかけた。マノンが静かにこちらを見ている。若い侍女は、もう咳を我慢していなかった。


「はい」


寝室は二階の突き当たりにあった。


廊下を進むほど、夜薔薇の冷えは濃くなる。壁の燭台は磨かれているのに、火のない芯だけが湿っている。扉の前で、リゼットは小箱を胸元へ寄せた。


「開けます」


従者が扉に手をかける。


中は、整いすぎていた。


黒い天蓋、畳まれた上掛け、使われた形跡の薄い寝台。眠るための部屋なのに、眠りが避けて通ったような冷たさがある。リゼットは敷物を踏まないように進み、枕の前で止まった。


甘い。


ごく薄い。確かにある。


焦げた蜂蜜の奥に、粗い黒沈香。昨夜、コレットの扇の陰から立った香り。オルラン工房の新作香薬と同じ根。


リゼットは枕へ触れる前に、手を引いた。


「この枕は、いつから使われていますか」


セドリックの顔が強張った。


「昨夜、新しいものに替えたばかりです」


低い声が落ちる。


「昨夜?」


「夜会からお戻りになる前に。寝具係が、香りを整えるようにと」


リゼットは枕の縫い目を見た。白い布は新しい。なのに、縫い目の奥だけが古く焦げている。


公爵邸の澱ではない。


外から入った匂いだ。


「公爵様」


声が少し掠れた。


「この枕から、旧工房の香料と同じ苦い焦げ匂いがします」


窓の外で、黒薔薇が揺れた。

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