嘘の香聖女は、春薔薇夜会で息を止める
春薔薇夜会の大広間には、まだ舞曲が入っていなかった。
高い窓の外は暮れかけている。硝子越しの空に残った薄桃色が、銀の燭台と白い花器へ淡く映っていた。招かれた貴族たちは扇を閉じたり開いたりしながら、献香台の周囲へ視線を集めている。
香聖女の献香。
その名だけが先に歩いて、会場の空気を甘くしていた。
リゼットは献香台の左側に立った。温室の上窓から続く風の流れ、証人席、反応花、王宮香薬局の白い封を同時に見られる位置だ。足元には無香布が敷かれ、手元には水を張った白磁の皿がある。
右側には、コレットが立っていた。
白銀の礼装に、香聖女の小瓶を模した首飾り。薄桃色の手袋。髪には春薔薇の飾り。見栄えだけなら、夜会の灯によく合っていた。
「このような形で献香を見せるなんて、あんまりですわ」
コレットは声を震わせた。甘い白花香が、袖口から少し強く立つ。
「王宮へ捧げる香は、祝福のためのものです。疑うために並べるものではありません」
近くの貴婦人が扇を止めた。誰かが小さくうなずく。まだ、彼女を哀れむ目が残っている。
リゼットは献香箱を見た。
「祝福のためなら、吸う人が苦しまないことを先に確かめます」
コレットの唇が薄く開く。言い返す前に、セラフィナ・ロワが前へ出た。白い外套の裾が、磨かれた床を少しだけ滑る。
「本日の献香は、王宮香薬局立会いの公開再検として扱います。対象は香聖女名義献香品一箱、オルラン工房第五配合帳控原本、ベルフォール侯爵家旧試供瓶記録、モリエ男爵家生活痕跡、王宮温室の反応花」
大広間の奥で、ざわめきが広がった。客席の前列では、ベルフォール侯爵家の使者とモリエ男爵家の家令が証言札を膝に置いている。皆、夜会客の席から、公に見届ける者として呼ばれていた。
マリウス・ラングレーは証人席の前列にいた。上着の銀飾りはいつもより大きい。香聖女の名を守るための装いなのだろう。けれど椅子の肘に置いた指が、ゆっくり打っていた。
アルセーヌは、リゼットの後ろにはいない。証人席の端。黒に近い濃紺の礼装で、ほかの実害家と同じ列に座っている。彼の前には、ヴァレリウス公爵家の被害記録と、二本線の封印箱の写しが置かれていた。
後ろに立たないでほしい。そう頼んだのはリゼットだった。彼はその通りにしている。
若い書記が鐘を一つ鳴らした。夜会の楽師たちは楽器を下ろしたまま、壁際で待っている。春薔薇の花器の間に、温室から運ばれた一鉢が置かれた。蕾の外側はまだ固い。箱に近かった側だけが、内へ巻いていた。
「まず反応花を見ます」
リゼットは白磁の皿へ指を浸し、無香の水を一滴だけ蕾の根元へ落とした。水は苦くない。土も腐っていない。葉脈は乾いていない。
それでも、献香箱を半歩近づけると、蕾の先がきゅっと縮んだ。扇の音が止まる。
「温室でこの箱に近かった春薔薇です。水切れではありません。冷えでもありません。白花香の下に、冷水処理不足の眠り草と焦げた蜜が重なった時だけ、この巻き方になります」
コレットが笑おうとした。
「花は人ではありませんわ」
「はい。だから先に反応します」
リゼットは顔を上げた。
「花が反応する量で止められれば、人の喉まで行きません」
証人席の端で、オデット・マランが背筋を伸ばした。温室係の作業服を脱ぎ、王宮女官の灰緑の礼服を着ている。彼女は短く一礼した。
「その一鉢は、私が温室で保全しました。箱を温水管から離す前、蕾は献香箱の方向へだけ巻いておりました」
若い書記が証言として書き留める。客席の老侯爵が身を乗り出し、後ろの令嬢たちが扇の陰で息を詰めた。
マリウスが椅子から立ちかけた。
「温室係の扱いが悪かっただけだろう。夜会用の花は繊細だ」
「では、箱を開けます」
リゼットは言った。
大広間の息が詰まった。楽師も、給仕も、客席の貴族たちも動かなかった。
開封役はベルナール副長老だった。灰色の髪を固く結い、表情を動かさない。彼女が白い封の時刻を読み上げると、若い書記が同じ時刻を復唱した。
リゼットは手袋を替えた。
箱の蓋が少しだけ開く。
甘い香が、布の隙間から出た。美しい匂いだった。春の夜会にふさわしいように整えられている。白花。薄い薔薇。蜜。貴婦人の髪に移れば、しばらくは評判になるだろう。
その奥で、舌の根が乾く。
リゼットは吸い込みすぎないよう、一歩引いた。無香紙を箱口へかざし、すぐ白磁の皿へ移す。紙の端が、ほんのわずかに黄ばんだ。
「白花香は上手に整えています」
コレットの目が明るくなる。
「でしょう。私の献香は」
「けれど、眠り草の冷水処理が足りません。焦げた蜜で熱を入れ、白花で苦みを隠しています。灯が入った広間で使えば、喉の乾き、頭の重さ、脈の乱れが出ます」
コレットの顔から色が落ちた。
リゼットは箱の中身を全部出さなかった。小瓶を一つだけ、封札を見せたまま、白布の上へ置く。瓶栓の内側に、薄く苦みが残っている。
「ベルフォール侯爵家旧試供瓶を」
侯爵夫人が立った。今日はイレーヌ本人ではない。彼女はまだ夜会の香を避けている。侯爵夫人は封印筒を抱え、若い書記へ渡した。
「娘が使った瓶です。あの朝、娘は水を苦がり、粥も口にできませんでした」
封印筒は開けられない。外側の記録だけが示される。春告月十二日、白い花の小広間、コレットから受領。左肩の欠けた香聖女印章。栓の苦み。
次に、モリエ男爵夫人の別紙が読まれた。幼い令息の咳、水の苦み、枕元の香皿、洗い水を一桶だけ残したこと。夜会疲れとして扱うよう促されたこと。
読み上げの途中で、誰かの扇が床へ落ちた。
マリウスが立った。
「証言は感情に寄りすぎている。いずれも噂を恐れた家の話だ。正式な香聖女印章は、この献香箱にある。欠けもない。王宮へ納める品を、古い試供瓶と同列に扱うのは」
「正式印章は表にあります」
リゼットはリボンを指した。
「見える場所に、欠けのない印章があります。見えない場所には、別の印が残っています」
セラフィナの合図で、献香箱のリボンが裏返された。銀糸の下、糊に隠れていた円い押し跡が灯に浮く。
花冠。
左肩が欠けている。
大広間に、今度は低い声が走った。客席の扇がいくつも閉じられ、誰かが「隠し印か」とつぶやく。
コレットは一歩下がった。春薔薇の飾りが揺れる。
「飾りの押し跡ですわ。花の飾りに花冠があるのは当然でしょう」
「飾りなら、表へ出します」
リゼットは第五配合帳控原本へ視線を移した。ベルナールが台へ置く。原本は王宮香薬局とギルドの共同保全封で縛られている。該当頁だけを、無香紙越しに示す。
差し替え頁の左下。
同じ欠け。
「こちらは旧工房の第五配合帳控原本に残った押し跡です。さらに、箱底の紙粉には温め香がありました。第七棚貸出簿の欠落頁、第五配合帳控の差し替え頁、この献香箱の底紙。すべて同じ断定はしません。ただ、同じ道具、または同じ手順の線にあります」
マリウスは笑った。乾いた音だった。
「断定しないと言いながら、まるでこちらが悪いと決めつけている」
「決めるのは、記録と香です」
リゼットは小瓶の栓へ無香紙を当てた。紙を白磁の皿へ移し、そこへ反応花の蕾を箱から遠ざけた状態で近づける。
何も起きない。
今度は、温め香の残った箱底紙粉を別の皿へ置く。蕾の先が、ゆっくり内側へ巻いた。
「献香の香そのものだけではありません。箱底に残った温め香と、瓶栓の眠り草、白花香が重なる時に反応します。見栄えよく温室で薔薇になじませるという指示は、危険を弱めるのではなく、隠す方へ働きます」
オデットが証人席で唇を結んだ。
「私は、その指示書を受け取りました。香聖女名義の献香品は、夜会当日まで温室で薔薇に香をなじませるように、と」
白い外套の審査官が指示書を掲げる。
「受領書付の担当名は、ルネ・デュマ。これについては、本人の直接確認が必要です。現時点で、意図的関与とは断定しません」
マリウスがすぐに食いついた。
「ならば王宮側の受領不備だ。こちらの献香を悪意と扱う理由はない」
その時、アルセーヌが立った。
動きは静かだった。だが、証人席の端から立っただけで、扇の群れが少し沈む。
「ヴァレリウス公爵家は、春告月十二日に同じ欠けた香聖女印章つきの香薬で実害を受けた」
彼はリゼットを見なかった。会場へ向けて、証人として話している。
「不眠が強まり、喉が乾き、呼吸が浅くなった。リゼット・オルランは、香を足さずに抜いた。以後、同系統品を封じた部屋では眠りが戻り始めている」
短い言葉だった。
けれど、貴族たちの視線がリゼットの後ろを離れ、献香台へ戻った。アルセーヌの証言は彼女を覆わない。証拠の列へ、一つ置かれただけだった。公に告げられたその言葉で、夜会客の沈黙は哀れみから確認へ変わった。
リゼットは白磁の皿を持ち替えた。指先に汗がにじむ。旧工房の大広間で、マリウスに笑われた日の記憶が喉の奥へ触れた。
早く量れ。
魔力もないのに、香聖女の邪魔をするな。
今は、誰も急かしていない。
「コレット」
リゼットは初めて、義妹の名を呼んだ。
「この配合を祝福として使うなら、なぜ旧試供瓶を回収しましたか。なぜ正式瓶と交換しましたか。なぜ症状を夜会疲れや夜薔薇公爵家への不安として処理させましたか」
コレットの唇が震える。
「私は、皆に喜ばれる香を」
「喜ばれる香なら、苦しんだ人の瓶を残せます」
沈黙が落ちた。皆の前で、コレットは瓶を見ず、自分の首飾りを握っていた。
マリウスがコレットの前へ出ようとする。セラフィナが片手を上げ、王宮香薬局の警護が一歩だけ動いた。
「香聖女名義献香品は、この場で献香中止」
セラフィナの声は大広間の端まで届いた。
「同名義の王宮納入予定品は全て保留。夜会配布済み試供瓶および交換済み正式瓶は、各家から王宮香薬局へ提出させます。オルラン工房、ラングレー家、香聖女名義の販路については、王宮香薬局と香薬師ギルドの共同再検へ移す」
ざわめきが大きくなった。客席のあちこちで、香聖女名義の試供瓶を受け取った家名がささやかれる。
これは叱責ではない。処分の始まりだ。
コレットの首飾りが、灯を受けて揺れている。小瓶を模した銀飾りは綺麗なままだった。けれど誰も、そこへ憧れの目を向けなくなっていた。公に止められた献香の前で、客席の視線は銀飾りから黒蝋の二本線へ移っていた。
ベルナール副長老が、原本の封を閉じ直した。
「リゼット・オルラン」
「はい」
「あなたの交差二線は、今回の献香箱一箱、反応花、箱底紙粉、リボン写し跡、瓶栓確認紙に対しても、臨時保全印として記録します」
リゼットは黒蝋を受け取った。
手は震えなかった。
献香台の左側で、彼女は一つずつ封をした。香聖女の白い封札の横に、黒蝋が落ちる。二本線を入れる。線は細い。だが、灯の下でまっすぐ見えた。
若い書記が記録を読み上げる。
「香聖女名義献香、公開再検により中止。旧試供瓶被害記録、第五配合帳控原本、温室反応花、献香箱外装および内容物に、同一または近似する欠けた花冠小印写し跡、温め香、冷水処理不足の眠り草を確認」
そこで、彼の声が少し止まった。横から差し出された紙を、セラフィナが受け取る。王宮香薬局の使者が持ってきたものだった。白い封。端に焦げた蜜はない。ただ、急いで閉じた跡がある。
「下級書吏ルネ・デュマは、本日の受領記録照会に出頭していません」
大広間の空気が変わる。
リゼットは反応花を見た。蕾はまだ巻いている。けれど、上窓から入る冷たい風で、葉だけは少し開いていた。
彼女は続ける。
「王宮香薬局の受領本簿では、当該献香品の搬入欄に、一行分の空白がある。削られたのではありません。最初から、書かれなかった空白です」
マリウスの顔から、余裕が消えた。
コレットは何か言おうとして、息を吸ったまま止まる。白花香が強すぎたのか、首元を押さえた。
リゼットは白磁の水を一口飲んだ。
苦くない。
「次は、空白を見ます」
その声は、大広間の灯の下でまっすぐ落ちた。




