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婚約破棄された香薬令嬢は、呪われ公爵家の空気をほどく ~魔力なしと捨てられた私だけが、冷血公爵を眠らせられる~  作者: 小竹X


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18/27

消えた受領記録は、夜薔薇の間へ戻る

夜会の翌朝、王宮香薬局の廊下には封印箱が並んでいた。


白木、黒塗り、革張り。家紋の札がついた箱が、壁際の長机へ端から端まで置かれている。昨夜まで香聖女の小瓶を飾り棚に置いていた家々が、夜明け前から使者を出したのだ。


香はほとんどしない。それでも、リゼットの喉は少しだけ乾いた。箱の列には、誰かの朝の咳や、飲めなかった水や、言えずに閉じた部屋が入っている。


「提出済みは十三家。交換済み正式瓶を含めれば、昼までにもう少し増えます」


若い書記が帳面を抱え直した。眠れていない顔だった。昨夜の公開再検の記録を、まだ清書しきれていないのだろう。廊下の向こうでは、商家の代理人が王宮香薬局の受付で声を落としていた。


「香聖女名義の納入札は、いったん外せとのことですか」


「王宮香薬局と香薬師ギルドの共同再検が終わるまでです」


受付係の返答は事務的だった。けれど、その一言で、代理人の肩が目に見えて落ちる。香聖女の名は、祝福の飾りから、損失の札へ変わっていた。


セラフィナ・ロワは廊下の列を見渡し、リゼットへ向き直った。


「勝利の翌朝、という顔ではないわね」


「勝った箱ではありませんから」


リゼットは一番近い封印箱の札を見た。薄桃色のリボンが切られ、上から王宮香薬局の白い封が重ねられている。


「苦しんだ人の瓶です」


セラフィナは少しだけ目を伏せた。


「だから、先に本簿を見る。ルネ・デュマの扱いは、まだ決めない」


「はい」


アルセーヌは廊下の柱のそばにいた。証人席の端にいた昨夜と同じ距離で、こちらを急かさない。黒革を片方だけ外し、封印箱には触れないよう胸元へ畳んでいる。


「疲れたら止めろ」


「止まる時は、先に言います」


彼はうなずいた。短い返事だけが、廊下の冷えた空気へ落ちた。


王宮香薬局の受領本簿は、昨夜のうちに封じられていた。ベルナール副長老が封蝋の時刻を読み、若い書記が復唱する。セラフィナが白い封を切った。


帳面は大きかった。厚い紙が何枚も重なり、端には薬草と墨の匂いが染みている。搬入日、品名、名義、受領担当、置き場、再検要否。欄は細かく分かれていた。


問題の頁は、すぐに分かった。春薔薇夜会用献香品の搬入が続く中で、一行だけ白い。前後の罫線はまっすぐ残り、紙の肌も荒れていない。削った跡も、水を落とした波もない。空白は、静かすぎた。


「消したのではないですね」


リゼットは白い作業用のものに替え、頁の端へ無香紙を差し込んだ。灯にかざす。紙の繊維は途切れていない。前の行の墨は少し濃く、次の行の墨は乾きが速い。


「前後を書いた時、ここを避けています。あとで埋めるために空けたのとも違います。筆の止まりが、行の端で迷っていません」


若い書記が息を詰める。


「つまり、搬入時に書くべき一行を、書かない手順にしていた?」


「その可能性があります」


リゼットは断定しなかった。無香紙を外し、頁の下へ薄い黒布を入れる。


「ルネ様の普段の筆跡を見てもよいですか」


セラフィナが別の薄い綴じを差し出した。下級書吏たちの日次控えだ。ルネ・デュマの名がある頁には、細く角ばった字が並んでいる。受領、返却、立会。どの字も、最初の縦線に少し強い圧があった。リゼットは問題の空白へ戻った。紙の奥に、圧痕はない。


「ルネ様がここに書いて消したのではありません。少なくとも、この行には、あの筆圧が一度も乗っていない」


「なら、名義だけ使われた線が残るわね」


セラフィナの声は低い。


「ただし、本人が関わっていないとも言えない」


「はい。書かなかった人と、書かせなかった人が同じとは限りません」


ベルナールが深く息を吐いた。怒りではなく、古い紙の湿りを吐き出すような音だった。


「机も見るかい」


ルネ・デュマの机は、記録室の奥にあった。小さな机だ。高位の書吏の広い席からは離れ、窓に近い。朝の光が届く代わりに、廊下の出入りがよく見える位置だった。


椅子は引かれていない。墨壺には蓋があり、羽根ペンは洗われていた。逃げた者の机というより、いつも通り戻るつもりで離れた机に見えた。


端に、無香手袋が一組だけ残っている。リゼットはそれへ顔を近づけすぎないよう、白磁の皿の上へ移した。袖口に紙粉がついている。新しい紙ではない。乾いた糊の粉と、焦げた蜜の薄い匂い。


ただ、そこに混じっているものがあった。火を入れた灰ではない。火を止めた後の、冷えた香炉底に似ている。


リゼットは指先を止めた。夜薔薇の間の香炉を乾かした時、底の方から出てきた湿り。香油で固めた灰が、火を失っても抱えていた冷たさ。


「これ、献香品だけの匂いではありません」


アルセーヌの視線がわずかに動く。


「何がある」


「古い香炉灰に近い冷えです。王宮香薬局の棚の匂いではありません。夜薔薇の間で火入れを止めた後の底に、少し似ています」


セラフィナはすぐに若い書記へ目を向けた。「記録。断定語は避けて。類似する冷え、と」


若い書記が筆を走らせる。今度は怒りで字を太らせなかった。


「十年前の返却本簿を」


ベルナールが言った。


記録室のさらに奥から、古い薄帳が運ばれてきた。第七棚の貸出簿ではない。返却時だけを控える別冊だった。表紙の角は擦れ、紐は一度替えられている。


該当する年の頁を開くと、王宮再検後の器具返却欄が続いていた。乳鉢。月桂葉刻み皿。黒薔薇封書控え。余剰香包外紙。花冠小印箱。


箱は戻っている。中身の返却先だけが、白かった。


リゼットは息を吸わなかった。先に目で見る。罫線、紙の肌、前後の墨、筆の止まり。


昨夜の献香品搬入欄と、同じ空白だった。


「ここも、消していません」


古い頁の白さは、年月で少し黄ばんでいた。それでも、削り跡はない。初めから書かないまま、周囲だけが埋められている。


「十年前も、返却先を書くべきところを空けています。花冠小印の箱は戻った。けれど、中身がどこへ返ったかは書かれていない」


アルセーヌの顔色が変わった。


母の部屋。


誰もその言葉を口にしていないのに、リゼットの胸へ先に落ちた。十年前、先代公爵夫人の夜薔薇の間へ、ギルドの封書とオルラン工房の白木箱が届いた。香を絶やしてはならないと命じられた。火入れ継続。壁布二枚。香炉三基。


そして、返却先のない花冠小印。


「今の献香品の空白は、十年前の空白をなぞっています」


リゼットは無香紙を閉じた。「ルネ様が黒幕だと決めるには早すぎます。けれど、ルネ様の机に、十年前の夜薔薇邸側へ近い匂いが残っている。誰かが名義を使ったのか、本人がその空白に気づいたのか、または気づいたために出頭できないのか。分けて見た方がよいです」


セラフィナはうなずいた。「王宮香薬局内でルネ・デュマを捜索する。拘束ではなく、所在確認。机と残置品は共同保全」


「これは開けたままにしません。香が薄いので」


リゼットが言うと、ベルナールが黒蝋を置いた。


「二本線を入れなさい」


リゼットは残置品、その紙粉、十年前の返却本簿写し、昨夜の受領本簿写しを分けて封じた。


黒蝋に線を入れるたび、廊下の封印箱の列が頭に浮かぶ。これは勝ちの印ではない。これ以上、書かれなかった人を増やさないための線だった。


王宮香薬局を出る頃には、昼近くになっていた。馬車の窓から見る王都は、昨夜の夜会をまだ引きずっている。菓子屋の前では、香聖女の小瓶を模した砂糖飾りが裏返されていた。薬種商の店先では、薄桃色の札が外され、代わりに「王宮再検中」の紙が貼られている。


リゼットは膝の上で手を開いた。指先に、黒蝋のかすかな重さが残っている。


「怖いか」


アルセーヌが向かいの席で言った。


馬車の揺れに合わせ、窓の朝が彼の頬を薄く照らした。昨夜より青白さは少ない。けれど、夜薔薇の間の名が出た時から、眠りの戻りかけた目に古い影がある。


「怖くないとは言えません」


リゼットは答えた。


「けれど、見ないまま火を入れ続ける方が怖いです」


アルセーヌはしばらく黙った。馬車の車輪が石畳を二度、三度、軽く跳ねる。


「母の部屋は、長く閉じすぎた」


「閉じた部屋は、開ける順番を間違えると、残っている香を変えます」


「分かっている」


彼はそこで言葉を切り、扉横の呼び紐をリゼットの側へ寄せた。止めたい時に止められる位置へ。


「今度は母の部屋を、君の順で開ける」


ヴァレリウス公爵邸へ戻ると、夜薔薇の間の前にマノンが立っていた。


火は入っていない。廊下に漂う冷えは、以前ほど重くない。閉じ込められていた花の匂いが薄くなり、古い石と乾いた布の匂いが前に出ている。


「奥様の壁布を、上だけ外しました」


マノンの声は少しかすれていた。夜会の知らせを聞いて眠れなかったのか、火のない部屋の前で長く待っていたのか。けれど背筋は曲がっていない。


「下は、リゼット様がお戻りになるまで触れておりません」


リゼットは扉の前で足を止めた。壁布の下端から、細い紙片が一つのぞいている。黒薔薇の封の端。そこに重なる、緑の封蝋の薄い欠片。


そして、花冠の左肩が欠けた小さな押し跡。


夜薔薇の間は、火のないまま息をしていた。リゼットは白い作業用のものを替えた。


「窓を上だけ開けてください。香炉には触れず、壁布の下から見ます」


アルセーヌは扉の外で止まった。


「ここから先も、君の順でいい」


リゼットはうなずき、火を入れない部屋へ入った。

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