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婚約破棄された香薬令嬢は、呪われ公爵家の空気をほどく ~魔力なしと捨てられた私だけが、冷血公爵を眠らせられる~  作者: 小竹X


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12/14

王宮の前で、二本線は消されない

香薬師ギルドの本審問室には、花の匂いがなかった。


代わりに、石灰で磨かれた床、乾いた羊皮紙、白く晒した無香布の匂いがある。壁際には水盆が三つ置かれ、窓は上だけ開いていた。春告月十八日の朝の空気が、細い刃のように室内へ入ってくる。


リゼットは自分の名の横に入れた二本線の控えを、両手で持っていた。


紙は軽い。けれど、喉の奥は重い。


「申請者、リゼット・オルラン」


ベルナール副長老の声が審問室に通った。005の予備審問と同じ灰色の髪。同じ静かな目。違うのは、長卓の中央に王宮香薬局の白い印章を置いた女が座っていることだった。


「王宮香薬局、審査官セラフィナ・ロワ。立会います」


白い外套の女は、そう名乗った。医師の細い手袋をしている。机の上には銀匙も香炉もない。陶器の皿、無香紙、細い硝子管、そして赤い封紐だけが並んでいた。


「本日は、香聖女名義の旧試供瓶、ラングレー家回収簿写し、十年前の鎮香確認控、余剰香包、ならびにリゼット・オルラン個人印章申請を同じ審査線上で扱います」


審問室の右側で、マリウス・ラングレーが鼻で息をした。久しぶりに見る旧婚約者は、夜会の時より整った礼装を着ていた。香も新しい。白花香の甘さを薄くして、苦みを隠している。隠し方が変わっても、奥の焦げた蜜は消えていなかった。


「異議があります」


マリウスは立ち上がった。


「回収簿はラングレー家の私的な帳場控えです。無断で写されたものを審問に載せるなど、商家の信用を損なう。そもそもリゼットは正式印章を持たぬ申請者です。検分者として扱うのは順序が違う」


白い外套の審査官は、リゼットを見なかった。ベルナールへも見ない。ただ、長卓の端に置かれた黒い封印箱へ目を落とした。


「その異議を記録します。回収簿の前に、旧試供瓶から扱いましょう。申請者リゼット・オルラン、開封順を述べてください」


マリウスの眉が動いた。リゼットは息を浅く吸った。白花香はない。石と紙と、朝の空気。膝が震える前に、手順を置く。


「ベルフォール侯爵家旧試供瓶は、栓を抜きません。瓶口の外縁、リボン、封蝋の印影、香炉灰への移り香だけを確認します。交換用の正式瓶は未使用のまま、別卓へ。二つを同じ皿に載せません」


「理由を」


セラフィナの声は平らだった。


「症状を起こした瓶と、後から整えられた瓶の香を混ぜないためです。交換すれば、欠けた印影、栓の苦み、薄桃色のリボンに移った香、朝の間の香炉灰とのつながりが消えます」


若い書記のペンが走る。彼は今日、ベルナールの隣から離れ、リゼットの言葉が見える位置に座っていた。011で受領簿の写しを取った手だ。


「ベルフォール家」


副長老が呼ぶと、侯爵夫人が前へ出た。イレーヌは来ていない。まだ長い審問には耐えられない身体だ。その代わり、侯爵夫人は娘の薄桃色のリボンを包んだ無香布と、医師の診立てを持っていた。


「娘は昨夜から、薄い鶏のスープを少し取れるようになりました。喉の乾きは残っていますが、香炉を止め、花鉢を下げた後、胸の走りは弱まりました」


マリウスが唇を開きかける。


「夜薔薇公爵家への恐怖を原因としない証言ですね」


白い外套の審査官が先に言った。侯爵夫人は一度だけアルセーヌを見た。黒い礼装の公爵は、長卓の左端で、リゼットの声が届く距離を保っていた。


「はい。娘は恐怖で花瓶の印影を欠けさせることはできません」


審問室の空気が、少し動いた。リゼットは旧試供瓶へ近づいた。瓶には触れない。無香紙を瓶口の外縁へ近づけ、ほんの少しだけ残り香を受ける。白花。焦げた蜜。冷水処理を省いた眠り草の苦み。次に、薄桃色のリボン。肌に触れないよう包まれた布越しでも、甘さの奥の苦みが残っている。


「同じです」


「何と同じか、具体的に」


セラフィナは硝子管を持ち上げる。


「公爵家納品瓶、ベルフォール家旧試供瓶、ベルフォール家の白磁香炉灰。どれも、冷水で抜くべき苦みを残し、白花で隠し、黒沈香を焦がして重さを出しています。公爵家では夜薔薇の澱と重なって不眠を強めました。ベルフォール家では閉じた朝の間で喉の乾きと動悸になりました」


「正式瓶は」


「同じ名を名乗っていますが、症状を起こした旧瓶とは香の底が違います。苦みが抜かれ、印影も欠けていません。交換品としては整っています。だから、証拠としては代わりになりません」


マリウスが笑った。


「整っているなら、当家が改良しただけではないか。未発売品に手直しをするのは当然だ」


リゼットの指先が、紙の端を押した。改良。工房で何度も聞いた言葉だった。売れるようにした。見栄えを整えた。客は細かいことなど分からない。そう言って、彼らは苦みを白花で包んだ。


「手直しなら、回収前の瓶を残しても困りません」


リゼットは顔を上げた。


「不備を認めて改良するなら、旧瓶、配布先、症状、変更点を並べるべきです。旧瓶だけを回収して、症状なしとして処理した欄を残す。それは改良と呼べません。消去です」


マリウスの笑みが止まった。ベルナールは静かに言う。


「回収簿写しを」


若い書記が頁を開いた。モリエ男爵家。旧瓶回収済。症状なしとして処理。小さな丸印。


「この丸印は何を意味しますか」


マリウスは答えない。答えない沈黙にも、匂いはある。白花香の奥で、焦げた蜜が強くなる。体温が上がっている。


「ラングレー家側、答弁を」


審査官の声が落ちた。


「帳場の便宜上の印です」


「症状なし、の根拠は」


「各家の名誉に配慮して」


「根拠を聞いています」


審問室に、窓の金具が鳴る音だけが落ちた。アルセーヌが口を開いた。


「ヴァレリウス公爵家は、春告月十二日に香聖女印章つき納品瓶で実害を受けた。喉の乾き。不眠の悪化。寝具への移り香。これを夜薔薇家の噂として処理するなら、同じ処理で他家の症状も消せる」


彼の声は短い。怒鳴らない。机に手もつかない。


「私は、リゼット・オルランに空気の診断を正式依頼した当主として証言する。彼女は、私の家でもベルフォール家でも、開けない判断を含めて被害を減らした」


セラフィナは初めてアルセーヌを見た。


「人格保証ではありませんね。手順と結果への証言ですね」


「そうだ」


その返事で、リゼットは少しだけ息を吐けた。庇いの言葉とは違う。積み上げたものを、同じ高さの言葉で置かれた。


「次に、余剰香包へ移ります」


赤い封紐が、セラフィナの手元でほどかれた。


侯爵家の薬庫から運ばれた白木箱は、長卓の中央に置かれている。黒薔薇封の割れ跡、古い緑封蝋、そしてリゼットが入れた浅い二本線。箱の隣には、水盆、無香布、陶器皿、王宮香薬局の細い換気筒がある。


「申請者。ここで開けますか」


リゼットは白木箱の底を見た。十年前の香包。夜薔薇の間で続いた火入れ。アルセーヌの母の部屋へ入ったかもしれない香。


「全部は開けません」


マリウスが苛立ったように息を吐く。


「また先延ばしか」


リゼットは彼を見ない。


「香包の外紙の角だけを開きます。内包みは切りません。外紙の折り返しに残った粉だけを無香紙へ移します。火は使いません。水も直接落としません。王宮香薬局の換気筒を窓側へ」


セラフィナの手袋が止まった。


「なぜ内包みを切らない」


「十年前の香は、今の症状確認には強すぎます。ここで全部を立てれば、旧試供瓶の香と古い鎮香の境が分かりにくくなります。今日は、同じ印章管理線にあるかどうかを見る場です。全量の検分は、医師と換気室を置く再検で行うべきです」


白い外套の審査官は、ほんの少し口元を動かした。笑ったのか、息を抜いただけなのかは分からない。


「開けない理由を評価します。続けて」


リゼットは手袋を替えた。古い紙は、触れる前から冷たい。封紐をほどくと、乾いた音がした。角だけを開く。中から香はほとんど立たなかった。


ほとんど、だから怖い。残すための手順だ。派手に香らせず、長く閉じ込めるための粉。白花の甘さはない。黒薔薇の冷え、薄い蜜、月桂葉、石の底に沈むような苦み。


リゼットは無香紙へ外紙の粉をほんの少し移した。水を落とさず、硝子管で朝の空気だけを通す。


紙の端が、灰色に曇った。


「夜薔薇の澱を、消しません」


自分の声が、思ったより低く出た。


「押さえて、閉じ込める香組みです。火を絶やさず使えば、部屋の底へ沈みます。十年前のものは丁寧です。だから長く残った。今の旧試供瓶は、ここから閉じ込める考え方だけを雑に写し、苦みを抜かず、白花で隠しています」


ベルナールは目を細める。


「香聖女印章は、十年前の花冠小印そのものではない」


「はい。同じ印ではありません。ただ、欠けた花冠小印を写し元にした可能性があります。調香の考え方も、同じ場所から出ています」


「同じ場所とは」


リゼットは外紙を見た。角の折り返し。古い無香紙の内側に、墨の細い記号が残っている。


花冠小印貸出、王宮再検、第七棚。その下に、さらに小さく、返却先が書かれていた。オルラン工房、第五配合帳控。指先が冷えた。


「リゼット?」


アルセーヌの声が、少しだけ低くなる。彼は近づかない。名前だけが届く。


リゼットは紙を長卓へ置いた。全員が見える向きに。


「外紙に、返却先があります。オルラン工房、第五配合帳控。十年前の再検後、調合の控えがオルラン工房へ戻された可能性があります」


マリウスが椅子を鳴らした。


「古い紙の端の書き込みで、当家を疑うのか」


「今は、次に確認する場所です」


リゼットは彼へ向いた。


「第五配合帳は、婚約破棄の日に私が返還を求めた帳面の一つです。あなたは、工房の所有物だと言って渡しませんでした」


審問室の空気が、花のないまま重くなる。副長老は若い書記へ目を向けた。


「予備審問記録に、配合帳返還の申立ては」


「あります。リゼット・オルランが、個人の手順記録と工房配合帳の区別を求めた件です」


マリウスの白花香が、急に濃くなった。隠せない。外紙を見たまま、セラフィナは言った。


「王宮香薬局に、第七棚の貸出簿があります。十年前の花冠小印管理者も、そこで追えます」


「それなら」


リゼットが言いかけると、白い印章がセラフィナの手に取られた。


「リゼット・オルラン個人印章申請について。仮受理を継続し、本審査へ上げます。理由は二つ。第一に、二本線の仮印は、複数家の立会いと記録のもとで保全手順として機能した。第二に、申請者は開ける技術だけでなく、開けない責任を示した」


白い印章が、申請書の端へ押された。音は小さかった。それでも、リゼットには審問室の石床まで響いたように聞こえた。


「正式印章完成まで、王宮香薬局および香薬師ギルド立会い案件に限り、交差二線を臨時保全印として認めます」


若い書記が、息を止めた。侯爵夫人が胸元へ手を当てる。ベルナールの目元に、ほんの少し皺が寄った。マリウスが立ち上がる。


「そんなものを認めれば、誰でも傷をつけただけで印章を名乗れる」


「違います」


リゼットは言った。声は、もう掠れなかった。


「線だけなら足りません。誰の前で、何を守るために、何を混ぜないために入れた線か。それを記録できなければ、ただの傷です」


彼女は自分の控えを長卓へ置いた。名前の横の二本線。


「私は、この線を飾りに使いません。消えないように使います」


審問室の上窓から、朝の風が入った。無香布が一枚、壁際で揺れる。セラフィナは赤い封紐を結び直した。


「次回、王宮香薬局第七棚貸出簿を照会します。同時に、オルラン工房第五配合帳控の提出命令を出します」


マリウスの顔から、初めて色が抜けた。木槌が軽く鳴った。


「本日の審問はここまで」


椅子が引かれ、人が動く。リゼットは立ち上がろうとして、膝が少し遅れた。倒れるほどではなかったが、長卓の縁へ指を置いた時、斜め前から黒い手袋が差し出された。


触れない距離で、ただそこにある。


「歩けるか」


アルセーヌが聞いた。


リゼットは白い印章の押された申請書を見た。二本線の控えは、紙の端で消えずに残っている。


「歩けます」


「なら、君の速さで」


審問室を出る廊下には、花の匂いが戻っていた。誰かの外套についた香だろう。けれど、さっきまでとは違う。苦みが隠れきっていないことを、リゼットはもう知っている。


廊下の向こうで、王宮香薬局の使いが走ってきた。白い封筒を抱えている。封には第七棚の細い印。封筒を受け取ったセラフィナは、封を見た瞬間、眉を寄せた。


「貸出簿の頁が、一枚足りません」


マリウスの足音が、廊下の角で止まった。リゼットは、白い封筒から漏れる古い紙の匂いを嗅いだ。そこにも、焦げた蜜があった。

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