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名札のない微熱  作者: reika1021


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6/10

第6章:置かれた温度

朝の空気は昨日までの雨をどこかに隠したまま、乾き始めていた。有明の建物の足元には、薄い水の匂いだけが残り、ところどころの舗装が鈍く光っていた。朱里は作業用の上着の袖を整えながら、まだ湿りを含んだ風が首筋を通るのを感じた。


今日の会場は海側に開いた展示棟の外周から入る現場で、大きなホールの内側ではなく通路や控えスペース、搬出用の細い動線を順に戻していく。目立つ看板よりも端に置かれた備品や隅に残った仮設棚のほうが多い朝だった。


朱里は作業台の前で手袋をはめた。布は乾いているが、昨日の雨の日の感覚がまだ肘の奥に少しだけ残っている気がした。思い出さないようにしても、濡れた床で体が傾いた一瞬だけがふいに蘇ってくる。


「外周から見る。内側はまだ触らない」


真砂朔也の声が通路の先から届いた。高い天井の下ではなく、今日は少し狭い空間に声が響く。名前はないのに、朱里の体は自然にそちらに向いた。


「はい」


返事をしてから、朱里はすぐに視線を戻した。昨日の夜に残った言葉を、まだうまくしまえていなかった。嫌ではなかった。そう言ってしまった自分の声が、乾きかけた舗装の匂いと一緒に胸の奥で少しだけ温まっている。


外周の通路には、撤収を待つ細長い部材が壁際に並べられていた。案内板の支柱、折りたたみ式の受付台、足元灯のケーブル、取り外された誘導パネル。表の華やかさから少し離れた場所には、舞台裏の道具だけが静かに置かれている。


「その支柱、先に結束」


朔也が言った。


「三本ずつですか?」


「四本。重さはこっちで見る」


朱里は言われた通りに支柱を四本ずつまとめた。金属は見た目より軽いものの、長さがある分、扱いにくかった。端が少し揺れるだけで、通路の壁に当たりそうになる。


「立てすぎないように」


「はい」


「寝かせて、壁から離す」


朔也の指示は短い。けれど今日は、その短さの中に、前よりも多くのことを聞いてしまう。重さを確認している。壁との距離を確かめている。朱里の手元だけでなく、朱里が次に困りそうな場所まで見ている。


朱里は支柱を床に近い角度に倒し、結束バンドを通した。指先に金属の冷たさが移る。強く締めすぎないように加減すると、支柱の束は少しだけ息をするように収まった。


「これでいいですか?」


「いい」


その返事だけで朱里の肩の力が少し抜けた。褒められたわけではないが、やり直しではないとわかるだけで朝の体が少し現場に馴染んだ。


朔也は次の束を持ち上げ、自分の側へ重い方を寄せ、朱里には短い方を向けた。その動きがあまりにも自然で、朱里は一瞬、気づかないふりをしそうになった。


「こっち、軽いですね」


と言ってから朱里は彼を見た。朔也は支柱の端を床に置きながら少しだけ視線を逸らした。


「長さが違うから」


「本当に、それだけですか?」


自分でも驚くほど声は静かに出た。責めるつもりはない。ただ聞いてしまいたかったのだ。


朔也はすぐには答えなかった。通路の奥で台車の車輪が短く鳴り、その音が壁に当たって戻ってくる。


「それだけではないかもしれない」


朱里は手元の結束バンドを見た。胸の奥で何かがゆっくり広がる。彼がはっきりと答えないことには慣れているはずなのに、今日は曖昧さの中に逃げ道ではなく温度がある。


「そうですか?」


「困る?」


またその言い方だった。困るかどうかを先に聞いて、近づきすぎないように自分の言葉の置き場所を確認している。


朱里は少しだけ考えた。困る。たぶん困る。けれど、嫌ではない。そういう答えをまだ上手に言えない。


「少しだけ」


朔也はうなずいた。否定もしないし、笑いもしない。


「じゃあ、少しだけにする」


その言葉に朱里は何も返せなかった。「少しだけにする」そんなふうに加減される優しさがあるのだと初めて知った気がした。


作業は外周の奥へと進んだ。通路の窓から差し込む光は白く、床に細長い帯を作っていた。雨上がりの湿気はすでに薄れ、代わりに乾いたほこりと金属のにおいが空気に混じり始めていた。


朱里は誘導パネルを重ねていった。表にあった矢印や案内の紙は剥がされ、今はただの白い板になっている。矢印がなくなると、どこへ向かえばいいのかわからなくなる。


「それ、向きそろえなくていい」


朔也が言った。


「でも、運ぶときに崩れませんか?」


「崩れない。角だけ合わせればいい」


「きれいにしたくなります」


「だろうな」


その返事に朱里は少しだけ口をつぐんだ。「だろうな」。彼は朱里が気にするところをもう知っているのだ。そのことが嬉しいのか、それとも怖いのか。朝の光の中では判断がつかなかった。


朱里は角だけを合わせた。完全には整っていない束は少しだけ不格好に見えるが、運ぶにはたぶんそのほうが早い。


「こうですか?」


「そう」


「気持ち悪いです」


「我慢」


「はい」


短いやり取りの後、朱里はほんの少しだけ笑いそうになった。声には出さないが、唇の内側で固かったものがほどけた。


朔也はそれを見たのかもしれない。何も言わず、朔也は次のパネルを朱里の手元に置いた。それは、重いものではなく軽いものだった。


まただ、と朱里は思った。


重いものを自分の側へ置く。通りやすい道を空ける。濡れている場所を先に踏む。言葉にされない小さな振り分けが日ごとに増えている。気づかないふりをするにはもう少し多すぎた。


「真砂さん」


朱里はパネルを持ったまま呼んだ。


「何?」


「いつも、重い方を持っていませんか?」


朔也は手を止めた。通路の光が彼の横顔の端に薄く当たっている。


「現場では普通だろ」


「誰にでもそうですか?」


朱里は聞いてしまった。聞いた瞬間、手袋の中で指先を丸めた。答えがほしいのに、答えが怖い。


朔也は少しだけ息を吐き、目線をパネルではなく床の乾いた線に向けた。


「誰にでも、ではない」


その言葉は通路の狭さの中でひどく静かに響き、朱里はパネルを持つ手に力を入れた。重くないはずなのに、急に腕が重くなった。


「それは」


続きが出なかった。「それはどういう意味ですか」と、そう聞けたら楽だった。けれど、その問いは名前を呼ぶよりずっと直接的で、まだ声にできなかった。


「仕事に支障が出るならやめる」


朔也が先に言った。


「そういうことじゃないです」


朱里の返事は早かった。早すぎて、隠す余地がなかった。


朔也はその声を受け止めるように黙った。朝の通路に、遠くの作業音だけが細く響く。


「じゃあ、続ける」


「……はい」


朱里はうなずいた。何を続けるのか、言葉にすると怖い。重いものを持つことなのか、少しだけ特別扱いすることなのか、名前のない距離を保つことなのか。


わからないまま朱里はパネルを運んだ。わからないままでも手の中には確かに重さがあった。


外周の通路を一回りするころには、朝の白さが少しずつ透明になっていった。窓の外では雲の切れ間から光が差し込み、建物のガラスが水の膜を脱いだように明るくなった。昨日までの雨は街の端にだけ残っているようだった。


朱里は小さな受付台を解体した。天板を外し、脚を折り、金具を袋に入れる。小さな作業が続くと、指の感覚が細かくなる。金具の冷たさ、ネジの溝、布手袋につく木粉。


「その袋、こっち」


朔也が隣に空のケースを置いた。朱里が入れやすいように、口が少し開いた状態になっている。


「ありがとうございます」


「うん」


「これも、少しだけですか?」


朱里はそう言ってから、胸が小さく鳴るのを感じた。からかうほど軽くはないが、かといって全く冗談ではないとも言い切れない声だった。


朔也はケースの縁に手を置いたまま、少しだけ黙った。


「たぶん」


「たぶんですか?」


「全部、説明できるわけじゃない」


その言葉に朱里は息を吸った。全部説明できるわけじゃない。仕事の判断でも気遣いでも、彼自身の中でまだ名前のないものがあるのかもしれない。


朱里は金具をケースへ入れた。すると、小さな音がして、その音がやけに鮮明に響き、朝の通路の空気が少しだけ変わった。


「私も、説明できないことがあります」


言ってしまってから、朱里は手元を見た。ネジがひとつ、袋の端に引っかかっていた。


「知ってる」


朔也の声は静かだった。


「知ってるんですか?」


「わからないって言ってた」


閉じた箱の前で言葉を逃した夜の感触が朱里の喉の奥に戻ってきた。「わからない」という言葉に頼る自分を少し嫌だと思ったのに、その言葉を彼が覚えていることに胸が熱くなった。


「覚えてたんですね」


「言われたから」


「全部ですか?」


「全部じゃない。残ったところだけ」


「残ったところだけ」朱里は、その言葉を手のひらの中でそっと転がすように聞いた。彼はいつも、残ったものを見る。消えた後に浮かぶ跡、言い終わった後に残る息、否定しきれなかった返事。


「私も、残ります」


朱里は、言ったあとに自分の声が思ったより近いことに気づいた。


朔也はすぐに何も言わなかった。通路の窓から差し込む光が、彼の手袋の甲を白く照らしていた。


「何が?」


「声とか、置き方とか」


それ以上は言えなかった。重い方を持つこと、箱の口を開けてくれること、言葉を少しだけ補うこと、そういうものまで言ってしまったら、もう仕事の話に戻れない。


朔也は小さくうなずいた。


「そうか」


その短い返事は「受け取った」という意味に聞こえた。朱里はそれだけで十分だった。十分なのに、足りない気もした。


昼に近い光が通路を照らすころには、外周の作業は半分ほど進んでおり、表のホールでは別の撤収音が遠くに響いていた。こちらにはその余波だけが聞こえ、大きな音の外側で小さな作業が続いていた。


朱里は仮設棚の板を運んだ。軽い板のはずなのに、何枚も重ねると腕にずっしりとくる。朔也はすぐに枚数を減らした。


「三枚でいい」


「五枚いけます」


「いけるのは知ってる。今日は三枚」


「どうしてですか?」


「あとが長い」


その理由は正しかった。今日は外周だけでは終わらない。奥の控えスペース、通路脇の備品置き場、そして最後に表の端の確認がある。体力を温存するのも仕事のうちだ。


それでも朱里は少しだけ言いたくなった。


「私だけ少ない気がします」


朔也は板を持つ手を止めた。


「気づいた?」


「気づきます」


「じゃあ、隠れてないな」


「隠していたんですか?」


「少し」


彼の口から出る「少し」は、いつも朱里を困らせる。少しだけ重さを変える。少しだけ距離を置く。少しだけ特別にする。


朱里は板を三枚だけ持った。軽い。軽いことが、今日は一番重かった。


「隠さなくていいです」


自分で言って、喉の奥が熱くなった。


朔也がこちらを見た。長くはないが、いつもの確認よりも少し深かった。


「本当に?」


「隠されると余計に気になります」


そこまで言って朱里は視線を板に落とした。言い方が近すぎたかもしれないが、取り消すことはできなかった。


朔也はゆっくり息を吐いた。


「わかった」


それだけだった。けれど朱里には、その返事が一枚の板を持つよりもずっと重く響いた。


昼を過ぎるころ、通路には人の熱が薄くこもっていた。外の光が強くなり、窓際の床は少し乾いた匂いを立てていた。朝には冷たかった金属も、触れるとわずかに温かかった。


朱里は控えスペースの片付けに移った。そこには展示会で使われた予備の椅子や折りたたまれた布クロス、飲み干された紙コップの束が残っていた。表に出なかったものばかりが静かに積まれていた。


「ここ、ひとりでいけます」


朱里は先に言った。朔也が何かを言う前にそう言いたかったのだ。


「わかった。隣の棚を見る」


「はい」


彼は本当に隣の棚へ行った。任せると決めたら手を出しすぎない、という引き方がさっきよりもはっきりと感じられた。


朱里は椅子を折りたたみ、壁際に並べた。折りたたむたびに、金属の関節が小さく鳴る。布クロスはほこりを含んでおり、広げると柔らかな繊維のにおいがした。


一枚、端がほつれているものがあったので、朱里はそれを別に分けた。小さな傷を見落とせないのは、もはや癖のようだ。直せるものなら直したくなるし、直せないものならせめて乱れたまま箱に入れたくない。


「別にした?」


隣の棚から朔也の声がした。


「ほつれてました」


「やっぱり」


「やっぱり?」


「見つけると思った」


朱里は、布クロスを畳む手を止めた。そんな風に予測されていたことが胸の奥をくすぐるように残る。


「変ですか?」


「変じゃない」


「面倒では?」


「助かる」


短い言葉なのに、朱里はしばらく返事ができなかった。褒められるよりも、必要だと言われたような響きがあった。


「……なら、よかったです」


声は少し小さくなった。隣の朔也は、何も言わなかった。無理に広げないところが、彼らしいと思った。


控えスペースの奥には未開封の飲み物が数本残っていた。イベント側の備品ではなく現場用に置かれていたものらしく、朱里が箱を動かすうちの一本が作業台の端へ転がった。


通りかかった朔也が黙ってそれを拾い、捨てるのかと思いきや、朱里の作業位置から少し離れた台の上に置いた。


「これ、どうしますか?」


「飲んでいいやつ」


「私が?」


「喉、触ってた」


朱里は無意識に首元へ手を当てた。確かに少し乾いていたが、自分ではほとんど気づいていなかった。


「そんなところまで見てるんですか?」


責めるような声ではなかった。驚きと少しだけ困った気持ちが混ざった声だった。


朔也はすぐに視線を逸らした。


「見えた」


「見えた、ですか」


「言う必要があると思った」


前に聞いた言葉が朱里の中で静かに重なった。見えたら必要なら言う、と。彼はその通りにしているだけなのかもしれない。


それなのに、作業台に置かれた飲み物はただの備品には見えなかった。透明なキャップが光を拾い、まだ誰にも触れられていない冷たさを持っていた。


「ありがとうございます」


「うん」


朱里はすぐには飲まなかった。置かれたままの温度を少し見ていたかったのだ。変なことだと思ったが、彼が自分のために置いたとわかるものをすぐに消費してしまうのが惜しかった。


作業が進むにつれて控えスペースは空になっていった。椅子の列が消え、布クロスの箱が運ばれ、床に残った細かいほこりだけが光を受けて浮いていた。朱里は最後に作業台を拭いた。


飲み物はまだそこにあったので、朱里は手を伸ばしてキャップを開けた。水ではなく薄い甘さのある飲み物で、ひと口飲むと喉の奥に乾いた砂のように残っていた違和感がゆっくり消えた。


「甘い」


と、思わず言うと、隣の棚を片づけていた朔也が答えた。


「苦手?」


「苦手じゃないです」


「ならよかった」


ならよかった、と彼はそれ以上こちらを見なかった。朱里はボトルを持ったまま、唇の内側に残る甘さを感じていた。


こういうことをされるたびに、仕事の範囲だと言い聞かせる場所が減っていく。けれど、恋という言葉はまだ近すぎる。朱里はその中間の名前のない場所で、今日も立っている。


午後の光が通路の窓から斜めに入り始め、床に長い影が伸びて外の建物の輪郭が少し柔らかく見えた。昼の熱は強くないのに、閉じた空間には人の作業した温度が残っていた。


朱里は台車に備品の箱を積み、重さを見て軽いものを上にした。朔也に言われる前にできた、そう思った瞬間、彼が少し離れた場所からうなずいたのが見えた。


「合ってる?」


朱里が聞くと、朔也は短く答えた。


「合ってる」


その言葉は作業の確認だったが、朱里にはもう少し別の意味も含んでいるように聞こえた。自分の判断が認められること、特別扱いを受けるだけではなく自分で立てること。


「今日は、少しわかります」


「何が?」


「置く場所とか、重さとか」


「そうだな」


「前よりは」


「前より見てる」


朱里は台車の取っ手を握ったまま朔也を見た。


「私が?」


「うん」


「真砂さんを、じゃなくて?」


言ってしまった瞬間、朱里は自分の耳が熱くなるのを感じた。冗談のように聞こえたかもしれないが、完全な冗談ではなかった。


朔也は少しだけ黙った。通路の外では、遠くの作業音が鳴り響き、空気が薄く震えていた。


「それも、少し」


朱里は返事ができなかった。彼の声が低かった。否定ではなく、受け止めた上で返されたような言葉だった。


「すみません」


「謝るところじゃない」


いつもの言葉だったけれど、今日はいつもより少し近く響いた。


朱里は台車を押した。車輪が床をなぞる音が通路にまっすぐ響く。少し後ろを彼が歩いている気配がした。守られているのではなく任されている、それでも必要な時には届く距離。


その距離が朱里には少しだけ心地よかった。


夕方の気配が建物の端から降りてくるころ、外周の撤収作業はほとんど終わっていた。朝に残っていた備品の山は消え、通路は長く何もない線になっていた。窓の外では雲の底が淡く染まり、ガラスに反射した光が床を薄い桃色に変えていた。


朱里は壁際の最後の確認をした。小さな金具、貼り残し、擦れた跡。目立たない場所ほどあとで目立ってくる。仕事の中でそんなことを何度も教わった。


「そこ、見なくても大丈夫」


朔也が言った。


「でも、端なので」


「見てると思った」


彼はそう言いながら別の場所を確認していた。朱里は少しだけ笑った。


「じゃあ、言わなくてもいいじゃないですか」


「言いたくなった」


その言葉に朱里の手が止まった。言いたくなった。仕事の必要だけではなく、ただ言いたくなった。それだけで通路の空気が少し変わった。


朔也は、自分の言葉に気づいたのか視線を壁へ逸らした。それは、感情を隠すときの癖だった。朱里は、その様子を見て胸の奥が少し苦しくなった。


「そういうのも、残ります」


朱里は小さく言った。


「何が?」


「言いたくなった、みたいな言葉」


朔也は壁際の擦れ跡を見たまま答えなかった。沈黙が長く続いたが、拒まれている感じはしなかった。


「じゃあ、気をつける」


「気をつけなくていいです」


すぐに言ってしまった。今度も早かったが、引っ込めたくはなかった。


「残るのが嫌ではないので」


通路の奥で誰かが台車をたたむ音がした。金属音がひとつ鳴ってすぐに消えた。朱里の言葉だけがしばらくその場に残った。


朔也はゆっくり朱里を見た。真正面ではなく、少しだけ角度をずらした視線だった。相手を困らせないための視線だが、今は十分に届いていた。


「そうか」


彼はそれだけ言った。


朱里はうなずいた。たった一言なのに胸の中に静かに灯るものがあった。名前をつけるにはまだ早いけれど、消すにはもう温かすぎる。


最後の確認を終えると、通路には何も残っていなかった。窓から入る夕方の光が床の端に細く落ち、朝にあった備品の影や濡れた匂いの名残はほとんど消えていた。


「終わり」


朔也が言った。


「はい」


朱里は作業台に残したボトルを取りに行った。中身は少しだけ残っていた。彼が置いたものを最後まで飲みきれなかったことがなぜか心に引っかかった。


「それ、持って帰れば」


朔也が言った。


「いいんですか?」


「開けたし」


「そうですね」


朱里はボトルを鞄に入れた。たったそれだけなのに、何かを持ち帰るような気がした。仕事の疲れでも現場のほこりでもなく、置かれた温度の残りだった。


外へ出ると、夜はまだ完全に降りていなかった。空の低いところに薄い明るさが残り、建物のガラスは淡く光を放っていた。雨の匂いはもう遠く、舗装からは乾いた一日の終わりが立ち上っていた。


朱里は荷物を肩にかけ直した。鞄の中でボトルが小さく揺れ、甘さの残った飲み物が歩くたびにかすかに音を立てた。


「今日、変でしたか?」


朱里は聞いた。自分で聞いておきながら、何を指しているのか分からなかった。重さに気付いたことか、特別扱いを問いかけたことか、残るのが嫌ではないと言ったことか。


朔也は少し前を歩きながら足を止めた。


「変じゃない」


「本当に?」


「いつもより言うようになった」


朱里はその言葉を受け止めた。怒られているわけではない。むしろ、見つけられたような気がした。


「嫌ですか?」


「嫌じゃない」


昨日と同じ言葉がまた別の温度で投げかけられ、朱里は胸の奥がゆっくり熱くなるのを感じた。


「そうですか」


「うん」


短い返事。けれど、もうその短さだけで彼を遠く感じることは少なくなっていた。足りない部分を勝手に埋めるのではなく、足りないままでも受け取れるようになってきたのかもしれない。


夜に向かう有明の道では風が乾いており、遠くの車の音は硬く響き、歩道の端に残った小さな水たまりだけが空の名残を映していた。朱里は、その横を通りながら今日一日で何度も気づいた小さな特別扱いを思い返した。


重いものをずらす、飲み物を置く、箱の口を開ける、軽い枚数にする、言葉を少しだけ足す。


どれも告白ではないし、恋の言葉でもない。けれど、全部を仕事だけで説明しようとするとどこかが余る。その余った部分に朱里の胸は静かに熱を持っていた。


「明日は」


朔也が言った。


「はい」


「内側の確認が多い。細かいと思う」


「じゃあ、見つけます」


朱里がそう言うと、朔也は少しだけこちらを見た。


「見つけそうだな」


その言い方が今日のどの言葉よりも自然だった。朱里は頷いた。通路で言われた「助かる」という言葉がまだ胸に残っていた。


「見つけます」


今度は少しだけ強く言った。自分のためにも、仕事のためにも、彼に見つけてもらうだけではなく、自分で見つけたいと思った。


会社の車の近くで荷物を置くと、空はようやく深い青に沈んだ。建物の窓に明かりが灯り、ガラスの壁には細い光の線がいくつも走っていた。作業を終えた体には、外の風が少し冷たく感じられた。


「お疲れ」


朔也が言った。


「お疲れさまです」


朱里は返した。そこで終わるはずだった。いつもなら、それだけで一日を閉じる。


しかし、今日は鞄の中のボトルが小さく鳴り、その音に背中を押されたように朱里は一歩立ち止まった。


「今日の飲み物」


「うん」


「甘かったです」


「そうか」


「でも、助かりました」


朔也は少しだけ黙った。街灯の光が彼の作業着の肩に淡く落ちていた。


「ならよかった」


その言葉を聞いた瞬間、朱里は、今日の通路に置かれたものがすべてひとつにつながるのを感じた。重さ、距離、水分、そして少しだけ残るのが嫌ではないという自分の声。


「また置いてもいいですか?」


朔也が言った。唐突ではなかったが、朱里には十分すぎるほど唐突だった。


飲み物のことだとわかる。現場への気遣いのことだとわかる。それでも、その言葉はもう少し広い場所へ届いた。


朱里はすぐには答えられなかった。夜の空気を吸う。乾いた風が喉を通り、胸の中の熱を少しだけ揺らす。


「困らないくらいなら」


ようやくそう言った。自分でも曖昧な答えだと思ったが、今の朱里にはそれが一番正直な気持ちだった。


朔也は小さくうなずいた。


「少しだけにする」


またその言葉だったけれど、今度は朱里も逃げなかった。


「はい」


返事をすると、夜の中で何かが静かにほどけた。名前はまだ呼ばれない。呼ばれないまま、置かれるものが増えていく。


帰り道、朱里は鞄の中のボトルに指先を触れた。プラスチックはすでに冷たくなくなっていたが、今日の通路に置かれた時の温度だけがまだそこに残っている気がした。


東京の夜は乾いた光をガラスに流していた。遠くの道路を車が通り過ぎ、建物の隙間から海に近い風が抜けていく。朱里は歩きながら、自分がもう何かに気づき始めていることに気づいていた。


恋とはまだ言わない。けれど、仕事だけでは片付かない小さな温度が日ごとに増えている。


名前を呼ばない職場で、彼は今日も朱里の名前を呼ばなかったが、重さを変えて飲み物を置き、困らない程度の距離を取った。


それだけで胸の奥に、名札のない微熱が残った。


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