第7章:名を呼ぶ前
朝の有明は昨日より少し光が薄く、雲が空の高いところで細くほどけていた。建物のガラスには白い膜のような明るさが広がり、朱里は作業用の上着の襟を指で整えながら、海に近い風がまだ眠たく冷えているのを感じた。
今日の作業は、展示棟の内側で残った細かな確認から始まった。大きなものはほとんどが運び出され、床には仮設の跡と外された照明の丸い影だけが残っている。派手な撤収作業というよりも、最後に残った息を拾うような作業だった。
朱里は工具袋を肩にかけ、床の端に落ちている小さな白いかけらを拾った。指先ほどのプラスチック片は軽く、手袋の上ではほとんど重さを感じない。しかし、こういうものほど最後に残るのだと、いつの間にか体が覚えていた。
「今日は内側。壁際から見ていく」
真砂朔也の声が会場の中央から届いた。名前は呼ばれないが、その短い言葉だけで朱里の足が向かうべき場所が決まる。
「はい」
と返事をして、朱里は壁際へ歩いた。朝の床は冷たく、靴音が少しだけ硬く響く。会場の広さは前より見慣れてきたはずなのに、何もない場所ほどかえって自分の呼吸が目立つ気がした。
壁には展示台が接していた跡が薄く残っていた。正面から見ると消えているのに、横から光を当てると細い擦れ跡が浮かび上がる。朱里は身をかがめて手袋の指先でそっとそこをなぞった。
「傷じゃない。汚れだ」
朔也の声が近づいてきた。朱里は振り向く前にわかった。靴音の止まり方が、もう彼のものとして耳に残っている。
「拭けば取れますか?」
「たぶん。強くやらなくていい」
「はい」
朔也は布と溶剤を朱里の近くへ置いた。手渡しではなく、少し離れた位置にそっと置く。その置き方が朱里にはわかりすぎるほどわかった。
近づきすぎないようにしているけれど、届く場所には置いてくれる。そういう距離の作り方を彼は仕事の中に紛れ込ませる。
朱里は布を取り、ほんの少しだけ溶剤を含ませた。鋭い匂いが朝の空気に混ざり、擦れた跡を拭くと白い壁の表面がゆっくり元に戻っていった。
「取れました」
「うん」
「見落としそうでした」
「見つけたなら、見落としてない」
その言い方に朱里は少しだけ笑いそうになった。わかりにくい肯定だったけれど、今の朱里にはそのくらいの言葉がちょうどよかった。
朔也はその場から離れずに少しだけ横に立ち、別の跡を見ていた。近くにいる理由は作業にある、と思える距離だった。けれど、作業だけにしては沈黙が柔らかかった。
「ここも」
彼が指で壁の下を示した。
「はい」
朱里は布を移動させた。指示された場所には細い黒ずみがあって、膝をつくほどではないが身を低くしないとよく見えない位置だった。
「よく見えますね」
「端は残る」
「昨日も似たこと言ってました」
朱里はそう言ってから、少しだけ息を止めた。過去を言葉でつないだ声が、思ったよりも近く聞こえたからだ。しかし、これは章の説明ではなく、二人の間に残った会話の記憶だった。
朔也は少しだけ視線を床へ落とした。
「言ったな」
その返事に朱里の胸が小さく温まった。彼は覚えていたのだ、そして残っていたのだ、と思った。
壁際の確認が終わると、次は控室の中へ移った。小さな部屋には、折りたたみ机の跡が床に四角く残っていた。壁には、テープを剥がした後の光の違いが見られた。朝の光が窓から斜めに差し込み、埃の粒を静かに浮かせていた。
朱里は床に残った細い紙片を拾った。案内札か何かの端だろう。文字はなく、ただ白い紙の繊維だけが裂けている。
「袋、こっち」
朔也が小さな回収袋を差し出した。朱里は受け取ろうとして彼の手元を見ると、右手から手袋を外す癖がまだ残っていることに気づき、なぜか見てはいけないような気がして視線を戻した。
「ありがとうございます」
「うん」
紙片を袋に入れる。袋の口は彼が持ったまま少し開いており、朱里が入れやすい角度だった。
たったそれだけのことに、なぜ気づいてしまうのだろう。気づかなければただの作業になるが、気づいてしまうからこそ胸に残る。
「また開けてくれてます」
朱里は小さく言った。
朔也の手がわずかに止まった。
「入れにくそうだったから」
「昨日も箱で」
「……そうだったか?」
忘れたふりをしたわけではないと、朱里にはわかった。彼は覚えていることを、そのまま表現するのが少し苦手なのだ。
「覚えてます」
「朱里が?」
呼ばれた。
ほんの一瞬、会場の空気が止まったような気がした。名字ではなく名前だった。けれど、朔也もすぐに気づいたのか、回収袋の口を持つ指に力が入った。
朱里は何も言えなかった。返事をするべきなのに、喉の奥で音がほどけなかった。呼ばれた名前が作業室の白い壁に吸われずにそのまま胸の内側に落ちてきた。
「……悪い」
朔也が先に言った。声は低かった。
「いえ」
朱里はようやく答えた。「いえ」のあとに続く言葉は見つからない。嫌ではないと言うには近すぎるし、大丈夫ですと言うには軽すぎる。
朔也は袋を少し下げ、視線を壁の擦れ跡へ逸らした。感情を隠すときの癖だと、朱里はすでに知っていた。
「今の」
朱里は言いかけて止まった。「今の呼び方」そこまで言えば、場の温度が戻れないところへ行ってしまいそうだった。
「作業、続けます」
そう言って逃げるように床の紙片を探したが、名前を呼ばれた後では床の白さも溶剤の匂いも遠くの作業音も少しずつ違うものに感じられた。
名前を呼ばれた。たったそれだけのことなのに、朱里の中で静かに何かが動いた。今まで呼ばれたことのない名前が、一度だけ形を持ってしまったのだ。
控室の確認にはいつもより時間がかかった。落ちているものは少ないのに、朱里の目はうまく働かない。見ようとするたび、さっきの声が先に浮かぶ。
「朱里」
頭の中で勝手にもう一度聞こえた。仕事の流れで出ただけだ。朔也がすぐに謝ったこともわかっているのに、謝られたことまで含めて胸の奥に残ってしまう。
「そこ、見た?」
朔也の声がした。今度は名前がない。
「見ました」
返事が少し硬くなった。自分でもわかった。朔也も気づいたかもしれないが、何も言わなかった。
控室の隅には小さな椅子が一脚だけ残っていた。誰かが使って畳み忘れたものだろう。朱里はそれを持ち上げ、脚のゴムについたほこりを指で払った。
「それ、こっちで持つ」
朔也が手を出しかけた。
「大丈夫です」
「軽いけど、脚が緩い」
「見ます」
朱里は椅子を広げ、脚の接合部を確認した。確かに少しだけ緩んでいて、揺らすと小さく鳴った。
「本当ですね」
「分ける」
「はい」
椅子を置く場所を変えようとしたとき、朔也が先にスペースを空けた。朱里が通りやすいように段ボールを半歩ずらすその動きも、もう隠れていなかった。
今までならそれに気づいても黙っていたが、今日は黙っていられなかった。
「今のも、少しだけですか?」
朔也は段ボールに手を置いたまま、こちらを見た。
「そうだな」
「名前を呼んだのも?」
言ってしまった瞬間、朱里は胸の奥が熱くなるのを感じた。こんな言い方をするつもりはなかったが、言葉は出てしまった。
朔也はしばらく黙っていた。遠くで台車の音が一度だけ鳴り、控室の壁に反響して消えた。
「それは、少しじゃない」
声は低く、逃げなかった。
朱里は、椅子の背に手を置いたまま動けなかった。「少しじゃない」。その言葉は謝罪よりもずっと強いものだった。
「じゃあ」
続きが出ない。「じゃあ、何ですか? どういうつもりですか?」と、そう聞けるほど朱里の中のものはまだ整っていなかった。
「悪かった」
「嫌だとは言っていません」
今度は、はっきり言えた。言った後で、手袋の中の指先が小さく震えた。
朔也の目が少しだけ揺れた。すぐに壁のほうへ逃げるかと思ったが、今日は逃げなかった。
「困った?」
「困りました」
朱里は正直に答えた。
「でも、嫌ではないです」
同じ言葉をまた言っている。けれど、同じではなかった。雨の後に言った時よりも、広い会場で言った時よりも、ずっと近い場所に置いた気がした。
朔也は小さくうなずいた。
「わかった」
短い返事だったが、その中に彼自身の乱れが少しだけ残っていた。朱里はそれを見逃さなかった。
作業に戻ると、空気は前と同じ形をしているのに、中身だけが変わっていた。控室の壁も畳まれた椅子も回収袋も全部同じもののはずだったけれど、名前を呼ばれた後ではどれも少しだけ近く見える。
朱里は椅子を分别スペースへ運んだ。軽い。けれど、手のひらには妙な重さが残っている。名前は重さを持つのだと思った。
朔也は反対側の棚を確認していた。以前より距離を取っているわけではない。むしろ、確認の仕方が慎重になっている。近づきすぎないようにしながらも、必要なところにはちゃんといる。
それがわかるから、朱里は余計に苦しくなる。
昼の気配は控室の窓からではなく外の通路の音で入ってきた。台車の往来が少し増え、人の声が遠くで重なる。会場のどこかで照明が落とされ、空気の色が少しだけ変わった。
「一度、外周の棚を見る」
朔也が言った。
「私も行きます」
と言ってから、朱里は自分でも少し驚いた。いつもなら彼が行くなら、別の場所を探したかもしれないが、今日はそれをしなかった。
朔也も一瞬だけ間を置いた。
「わかった」
外周の棚には予備のサインスタンドがまだ残っていた。細い脚が何本も重なっており、少し動かすと金属同士が乾いた音を立てた。朱里は一本ずつ抜き取り、歪みがないか確かめた。
「これは使えます」
「右へ」
「これは脚が少し…」
「左」
短い確認のやりとりが続き、声と手の動きが交互に重なる。名前は口にされないが、さっき一度呼ばれた名前が会話の下にずっと敷かれているようだった。
朱里はスタンドの脚を確認しながら、朔也の横顔を見ないようにした。見れば、また問いが増える。どうして呼んだのか、いつから呼びそうだったのか、自分だけなのか、と。
「無理に普通にしなくていい」
朔也が言った。朱里は手を止めた。
「普通にしてます」
「少し違う」
「そんなにわかりますか?」
「わかる」
その返事に迷いはなかった。朱里はスタンドの脚を握ったまま唇を閉じた。
「それも見えるんですか?」
「見える」
「困りますね」
「うん」
朔也が素直にうなずいたのを見て、朱里は思わず顔を上げた。
「そこは否定しないんですか?」
「困らせているのはわかっている」
声に自分への苛立ちが少し混じっていた。朱里は、それを初めて聞いた気がした。いつも落ち着いている彼の中にも、処理しきれないものがあるのだ。
「私だけじゃないんですね」
「何が?」
「困ってるの」
朔也は答えなかった。沈黙がそのまま答えのように落ちた。
朱里はスタンドを右の束へ置いた。金属が触れ合う音がした。軽いはずの音なのに、会場の端まで響いた気がした。
「仕事、しづらくなりますか?」
朱里は聞いた。
「ならないようにする」
「そうじゃなくて」
言葉が続かない。朔也は待っていた。待つのがうまい人だと思う。その待ち方のおかげで、朱里は何度も逃げ道をもらってきた。
「真砂さんがしんどくならないですか?」
言えた。自分のことではなく、彼のことを聞いたのだ。言ってから急に胸が熱くなった。
朔也の目がほんの少し大きくなったが、すぐに元に戻った。しかし、朱里には見えた。
「俺は」
彼はそこで止まった。通路の光がスタンドの脚に反射し、細く揺れている。
「俺は、『仕事だから』って言えるうちは楽だった」
朱里は動けなかった。
「今は?」
と、聞いてはいけない気がした。けれど、もう聞いてしまっていた。
朔也はスタンドの束を見て、視線を逃がしているようだが、逃げきれていない。
「楽ではない」
その言葉は告白ではなかったが、仕事の報告でもなかった。朱里の胸の奥で静かに熱が広がっていく。
「すみません」
「謝るところじゃない」
いつもの言葉だったけれど、今度は朔也のほうが少し苦しそうに言った。
「俺が勝手に、そうなってるだけだから」
朱里は何も言えなくなった。勝手にそうなっているだけ。自分も同じだと思った。気づくと、声を拾い、置かれた飲み物を大切にし、名前を呼ばれたことを胸の中で何度も確かめていた。
誰かのせいではない。勝手に、そうなっているのだ。
「私もです」
と、小さく言った。
朔也がこちらを見た。
「何が?」
「勝手に、そうなっています」
と言ってしまった。言ってしまった後で、もう取り返しのつかないことだとわかった。けれど、不思議と後悔はなかった。
朔也はしばらく黙っていた。会場の外で動いていた作業音が少し遠ざかり、空気の中に二人の呼吸だけが残ったように感じた。
「そうか」
やっと返ってきた言葉は短かったが、その一言の中に彼が受け止めるまでの時間がすべて凝縮されていた。
朱里は頷いた。視線はスタンドの束に置いたままだった。顔を見てしまえば、これ以上何かがこぼれ出てしまいそうだった。
午後の作業は外周の細かな備品確認から会場内の照明回りへと移った。高い天井の下ではなく低い位置にある補助灯を外し、ケーブルをまとめ、床の端を確認する。音は少なく代わりに沈黙が増えた。
朱里は補助灯のコードを巻いていた。黒い線が手袋の中で少し反発してきれいな輪にならず、焦れば焦るほど歪んでいく。
「広めに」
朔也が言った。
「はい」
「急がなくていい」
「わかってます」
少しだけ強く返してしまった。朔也は黙った。朱里もすぐに後悔した。
「すみません」
「いや」
彼は短く言った。
「近いとやりにくいかと思って」
朱里はコードを巻く手を止めた。「近いと、やりにくいかと思って」。彼は距離を測っている。ずっと測っている。自分が困らないように、自分が傷つかないように。
「近いのが全部だめなわけじゃないです」
声は思ったより小さく出たが、消えなかった。
朔也は返事をしなかった。朱里はコードを巻き直した。今度は大きめの輪にした。形は少し不揃いだったが、折れずに収まった。
「できました」
「うん」
「今の距離は大丈夫です」
と言ってから、朱里は耳まで熱くなるのを感じた。まるで仕事の確認のように言ったが、その言葉には別の意味が込められていた。
朔也は低く答えた。
「覚えとく」
その言葉が朱里の中に深く沈んだ。彼は本当に覚えるのだろうか。重さも、距離も、声の揺れも。朱里が困らないくらいの場所をまた探すのだろうか。
それを思うと胸が苦しくなって、少しだけ嬉しかった。
会場の照明は端から少しずつ落とされていった。まだ作業は続いているが、使わない区画の照明から落としていく。白かった床に青みが戻り、壁の影が深くなる。
朱里は照明が落ちる前に最後の床確認をした。小さな金具、切れた結束バンド、剥がれた紙片。見つけるたびにそれらを袋へ入れた。
朔也は少し離れた場所で工具をまとめている。いつもよりこちらへ声をかけるタイミングが遅い気がして、名前を呼んでしまったことを彼もまだどこかで気にしているのだと思った。
「そっち、終わった?」
「あと少しです」
「手伝う?」
朱里は少し考えた。
「来ても大丈夫です」
そう答えると、朔也が近づいてきた。ゆっくりとした足取りで、急に距離を詰めないようにしているのがわかる。
「ここ、細かいです」
朱里は床の端を指さした。補助灯の下に、いくつかの小さな部品が落ちていた。朔也はしゃがみ、朱里の横ではなく、少し斜め前の位置を取った。
「この角度なら見える」
「本当ですね」
二人で同じ床を見る。近い。けれど、息が苦しいほどではない。朱里はその距離を体で確かめた。
「大丈夫?」
朔也が小さく聞いた。
「はい」
「近い?」
「少し」
朔也が動こうとした。
「でも、大丈夫です」
朱里は急いで付け加えた。朔也の動きが止まる。
「そうか」
その声はとても静かだった。安心したようにも、困ったようにも聞こえた。
床の部品を拾い終えると、照明がひとつ落ちた。すぐ近くではないが、会場全体の明るさが少し減って空気が深くなった。明かりが減ると、言えないことの輪郭だけが濃くなる。
朱里は立ち上がり、朔也も少し遅れて立った。互いの影が床に伸び、ほんの少しだけ重なった。
「明かりが落ちると」
朱里は言いかけた。
「うん」
「声が近くなりますね」
朔也は照明の落ちた区画を見た。白い壁が暗くなり、奥の方だけが淡く残っている。
「そうだな」
「名前を呼ばれたときも、近かったです」
朱里はそう言ってしまった自分に驚いたが、もうその言葉から逃げたくなかった。
朔也は目を伏せたが、今度はすぐに逃げなかった。
「また呼んだら、困る?」
朱里の胸が小さく跳ねた。
「今ですか?」
「いや、いつか」
いつか、その言葉が夜に向かう会場の中で静かに響いた。今ではない、けれど、もう二度とないとは言えない。
朱里はすぐに答えられなかった。困る、きっと困る。けれど、聞きたくないわけではない。
「困ると思います」
「うん」
「でも」
続きが出ない。嫌ではない、だけでは足りない気がした。嬉しいと言えば近すぎるし、待っていると言えば決まりすぎる。
朔也は待っていた。急かさず、逃げ道も塞がず。
「聞こえないふりは、できないです」
ようやく言った。今言える中で一番本当の言葉だった。
朔也はゆっくりとうなずいた。
「わかった」
その返事だけで朱里は息を吸えた。「わかった」と彼が言うとき、本当にわかろうとしてくれているのだと思えた。
作業の終わりはいつもより静かだった。大きな音も慌ただしい指示もほとんどなく、明かりが落ちていく区画のそばで工具袋を閉じ、回収袋をまとめ、最後の確認をしていく。
朱里は作業台に置かれた飲み物に気づいた。透明なボトルが一本、昨日と同じような距離に置かれていた。飲んでいいと言われなくても、もう意味はわかる。
「また置いてあります」
朱里は言った。
朔也は工具袋を持ちながら少しだけ気まずそうにした。
「困らないくらいにしたつもりだった」
「困ります」
彼の目が上がった。
「でも、嫌じゃないです」
朱里はボトルを持った。冷たさはほとんどなく、常温に近いけれど、置かれていた時間の温度があるように感じた。
「少しだけ、ですよね」
「少しだけ」
朔也はそう言った。二人の間にその言葉が静かに置かれた。それは、小さな約束のようで約束ではない、まだ名前のないものだった。
夜の色が会場の隅まで入り込むころ、最後の明かりが落ちる前の確認が終わった。白い床は広く、何もない。朝にあった備品、棚、コードは消え失せ、空間には音の残響だけが薄く漂っていた。
「終わり」
朔也が言った。
「はい」
朱里は返事をした。返事のあと、少しだけ間があった。いつもの終わりの間ではなかった。
朔也は照明のスイッチに向かい、朱里は彼の背中を見ていた。呼び止める理由はない。作業は終わったし、忘れ物もない。
けれど、今呼ばなければ、明かりが消えた後で残るものが少し変わってしまいそうだった。
「真砂さん」
声が出た。名字だった。まだそれが精一杯だった。
朔也が振り向いた。
「何?」
朱里はボトルを軽く持ち上げた。
「これ、持って帰ります」
「うん」
「置いてくれてありがとうございます」
「うん」
それだけだったけれど、言えた。置かれたものを受け取ったことを言葉にできた。
朔也は少しだけ目を伏せた。
「また必要なら置く」
「必要じゃなくても」
朱里はそう言って止まった。言い過ぎたと思ったが、朔也は聞き返さなかった。
「困らないくらいなら」
彼が続けた。
朱里はうなずいた。
「はい」
照明が落ち、会場の奥が暗くなった。出口近くの非常灯だけが、床の縁を淡く照らしている。空になったその場所は、朝よりもずっと深く見えた。
外へ出ると、夜の有明は乾いた風を持っていた。雨の名残はもうほとんどなく、舗装の匂いも軽かった。建物のガラスには、会場で落とした明かりの代わりに街の光が散らばっていた。
朱里は鞄の中のボトルを確かめた。中で小さく揺れる音がする。その音だけで今日の会場の雰囲気が少し戻ってくる。
朔也は隣ではなく少し前を歩いていた。近づきすぎない距離だが、昨日よりも少しだけ迷いが少ない距離だった。
「今日」
朔也が言った。
「はい」
「名前、呼んだことある?」
朱里は足元を見た。夜の舗装に細い街灯の光が落ちている。
「はい」
「なかったことにはしない」
その言葉が乾いた夜の中に静かに響いた。朱里は息を吸った。胸の奥が痛いほど温かかった。
「私も、しません」
それだけ答えた。声は小さかったが、消えなかった。
朔也はうなずいた。会話はそこで終わったが、終わった後も名前を呼ばれた朝の空気と明かりが落ちる前の沈黙が朱里の中でゆっくりつながっていく。
会社の車の近くで荷物を置くと、夜はさらに深くなっていた。遠くの道路を車が流れ、建物の間に風が通る。海に近い街の暗さは冷たすぎず、しかし簡単には温まらない。
「お疲れ」
朔也が言った。
「お疲れさまです」
朱里は返した。いつもの言葉だった。けれど、今日はその前に一度だけ名前を呼ばれた日だった。
それだけで、いつもの言葉まで少し違って聞こえる。
別れ際、朔也は一度だけ何かを言いかけた。朱里はそれに気づいた。彼の口元が動く前の、ほんの短い呼吸を拾ってしまった。
けれど彼は言わなかった。朱里も聞かなかった。聞かないことが今は必要だった。
帰り道、朱里は夜の空気を吸った。乾いた風の中に、会場のほこりと、置かれた飲み物の薄い甘さと、名前を呼ばれた時の熱が混ざっている。
名前は一度だけだった。たった一度。けれど、呼ばれなかった日々が長かった分、その一度は深く残った。
朱里は鞄の中のボトルに指先を触れた。もう冷たくない。けれど、置かれた時の温度は消えていなかった。
名前を呼ばないまま進んでいた恋は、ほんの一度だけ声の形を持ったが、まだ告白にはならない。ならないまま胸の奥で、明かりが落ちる前の会場のように静かに熱を残している。
夜の有明に、遠い車音がにじむ。朱里は歩きながら、自分の名前を呼んだ朔也の声をもう一度だけ、心の中で聞いた。




