第5章:広い床の声
朝の展示ホールは、まだ人を受け入れる前の駅のように広々としていた。高い天井の奥では照明が半分だけ白く灯り、残りの暗さが鉄骨の隙間に薄く溜まっていた。朱里は入口脇に置かれた作業台の前で手袋をはめながら、空気の乾いた冷たさを喉の奥に感じていた。
今日の会場は広かった。昨日までの湿った搬入口や狭いバックヤードとは違い、視界の先までブースの骨組みが並び、取り外されたパネルや什器が通路の両側に山のように積まれていた。撤収作業というよりも、街を解体していく作業のように見えた。
床には色の違う養生材が広く敷かれ、場所ごとに足音の響き方が異なる。硬い場所では靴音が響き、布の上では吸い込まれるように音が消える。朱里は、その音の響き方の違いだけで、自分が今どの区画にいるのかを少しずつ把握していった。
「今日は奥から流す。真ん中は最後」
真砂朔也の声が広いホールの中で少し遠くに響いた。名前はないが、その声は人の動きよりも先に朱里に届いた。
「はい」
朱里は返事をした後、彼のいる方を見ないようにした。見れば、また立ち位置や手の動きや声の向きを拾ってしまう。今日は大きな現場だから、余計なことを考える隙間なんてないはずだった。
それなのに聞こえる。工具が置かれる音、台車の向きを変える車輪の短い鳴り、誰かに向けた低い指示。その中から朔也の声だけを拾ってしまう自分がいて、朱里は胸の奥をそっと閉じるように息を吸った。
最初の作業は奥の展示壁を分解することだった。白いパネルは背が高いため、連結部分の金具を外してから順に横へ倒していく。朱里は端の固定具を確認し、ネジの位置を手で探った。
「そこ、上からじゃなくて横」
遠くから声が飛んだ。朱里は手を止め、顔を向ける前に声が示した場所を見た。
「横ですね」
「うん、先に外れる」
言われた通りに工具を差し込むと、金具は思ったより軽く緩んだ。朱里は小さく息を吐いた。彼のほうを見なくても、見られている場所がわかってしまう。
それが少し苦しかった。近くにいないのに声が届くことが、近くにいるよりも逃げにくいと感じた。朱里は外れた金具を手のひらに受け、工具袋の中に静かに落とした。
「いける?」
声がまた遠かった。朱里は顔を上げずに答えた。
「いけます」
「じゃあ、倒すときだけ待って」
「はい」
「待って」と言われただけで体が少し止まる。作業上の指示なのに、言葉の端が胸に触れたような気がした。朱里はそんな自分を持て余し、パネルの白い面だけを見るようにした。
ホールの奥では片付けられたブースの骨組みがむき出しになっており、昨日まで掲げられていたはずの色や光は剥がされて代わりに銀色の支柱と仮設の床だけが残っていた。派手だったものほど終わった後に無口になる。
朱里は金具を外しながら、今日はできるだけ朔也の近くへ行かないようにしようと思った。避けるというほど強い言葉ではないが、声の届く範囲にいて視線を交わさないようにする、ということだ。
理由は自分でもうまく言えなかった。雨の日の肘の下に残った感覚がまだ完全には消えていないからかもしれないし、名前を呼びそうになった夜のことをもう一度なかったことにしたいからかもしれない。
「倒す」
朔也の声が近づいた。朱里は気づかないふりをしてパネルの端に手を添えた。
「はい」
朔也は反対側を持った。会場が広いせいか、同じパネルを挟んでも距離があるが、重さは同じものから来ていて、その事実だけが妙に近い。
「『せえの』は言わないほうが良い?」
朱里は思わず聞いた。以前なら黙って合わせていたかもしれないが、今日は沈黙のまま息を合わせるのが少し怖かった。
朔也は一瞬だけこちらを見た。
「言うか」
「はい」
「じゃあ、せえの」
声が重なったわけではない。朔也の低い声に朱里の小さな息が少し遅れて重なった。パネルはゆっくりと倒れ、床に敷いた養生材の上に落ち着いた。
ただそれだけの作業だったが、朱里は胸の奥で何かが乱れるのを感じた。言葉を合わせることは距離を合わせることに少し似ている。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
いつもの返事が返ってきた。自分でももう少し違う言い方ができればいいと思うが、彼の前では「大丈夫」という言葉が先に出てしまう。
朔也はそれ以上聞かずに、パネルの端を確認していた。その引き方を見て安心すると同時に、朱里はまた傷つくような気もしていた。
次の区画では、天井から吊られていた装飾の部材を下ろす作業があった。高所のものは朔也が担当し、朱里は下で外した部品を受け取って分類した。脚立の足音が広いホールに細く響いた。
朱里は顔を上げすぎないようにした。前に透明板を受け取った時の距離を思い出したくなかったが、上から降りてくる部品を受けるにはどうしても手元だけでは足りなかった。
「受けて」
朔也の声が降りてくる。朱里は両手を出した。
「はい」
軽いはずの部品が上から渡されると、少し重く感じた。朱里はそれを受け取り、足元の箱へ入れた。箱と言っても、今日は名札のような小さなものではなく、金属の部品が入る浅いケースだった。
「それ、角が鋭い」
「気をつけます」
「手袋、薄い方じゃないよな」
「厚い方です」
「ならいい」
「ならいい」。その言葉はいつも、確認のあとに置かれる。朱里は部品を入れる手を止めずに胸の中で小さく反応した。
彼の気遣いは言葉だけでは終わらない。見ている場所、確認する順番、そして少し遅れて付け加えられるひと言。それらを知ってしまったことが朱里を少しずつ逃げにくくさせていた。
作業が進むにつれ、会場の中は明るさを増していった。外の光が高い窓から差し込み、床に敷かれた養生材の繊維を淡く浮かび上がらせる。空気の冷たさは薄れ、代わりに人の動きで舞い上がるほこりと外した金属のにおいが広がった。
朱里はケースを運び、壁際に並べた。今日は荷物の量が多く、ひとつ終えても次が見えている。終わりが遠いことは少しありがたかった。忙しさに紛れれば考えなくて済む。
しかし、忙しければ忙しいほど声は必要になり、指示が飛び、返事が返り、金属音が重なる。その中では、朔也の声が聞こえるたびに朱里の肩の奥だけがわずかに固まった。
「そっち、通る」
朔也が背後から言ったので、朱里は反射的に道を空けた。
「はい」
台車が通り過ぎた。すぐ横を過ぎる際、作業着の布が空気を少し動かした。触れてはいないが、通り過ぎたあとに残る風だけで朱里の体はその人の存在を覚えてしまう。
近づかないようにしているのに現場の流れが近づけてくるし、避けようとしても別の動線でまた交差してしまう。朱里にはそれが少し意地悪な仕組みに思えた。
「疲れてる?」
朔也の声がした。朔也は台車を押しながらこちらを見ずに聞いていた。
「疲れていません」
「返事、早い」
と言われて、朱里は口を閉じた。確かに早かった。否定したい気持ちだけが先に出てしまった。
「少しだけです」
と言い直したが、朔也は台車を止めなかった。
「じゃあ、水分だけ」
「はい」
水分という言葉に、これまで何度かあった短い休憩の気配が重なりそうになって、朱里はすぐにその記憶を振り払った。今日は違う。今日は立ち止まらない。そう決めていた。
しかし、彼は朱里に休む場所を指示することはなかった。ただ言葉だけを置いて、台車と一緒に別の区画へ行った。その気遣いは、床に置かれた小さな部品よりも目立っていた。
朱里は作業台の端で少しだけ水を飲んだ。ペットボトルの冷たさが手袋越しに鈍く伝わる。飲み込んだ水は喉を通り、胸の中の熱までは消してくれなかった。
大きな会場には人の気配が散らばっていた。名前のない動き、声だけの指示、場所で呼ばれる作業。あっち、こっち、奥、手前。名前を使わなくても現場は進む。
それなのに、朱里の中では一人だけが名前を持ちすぎている。真砂朔也。声にしなくても、文字にしなくても、もう消えない形でそこにある。
昼に近づくにつれ、外の明るさは白から少し黄色を含んだ色に変わっていった。高い窓の向こうでは雲が薄くなり、ガラスに反射した光がホールの床に長く伸びた。広い空間の温度がほんの少しだけ上がった。
「奥の台、ばらす」
朔也が言った。朱里は工具を持って向かったが、途中で足を止めた。彼の近くに行くことを体が少しだけためらっていた。
「どうした?」
と、気づかれた。朱里はすぐに首を振った。
「何でもないです」
「足元?」
「違います」
「じゃあ?」
問いが短く重なる。答えられない。足元なら言えた。荷物のことなら言えた。けれど、近づくのが少し怖かったとは言えない。
「工具、確認していました」
嘘ではない。朱里は手元の工具を、見せるように少し持ち上げた。朔也はそれを見て、何も追及しなかった。
「こっち」
それだけ言って作業台の端を指さした。逃げ道を残されたことに朱里は安心したが、その安心がまた苦しくなった。
作業台は大きく、天板と脚を分けて運ぶ必要があった。朱里が片側のネジを外すと、朔也が反対側を支えた。近い。会場はこんなに広いのに、作業のための距離はいつも急に狭くなる。
「そこ、固い?」
「少し」
「工具、こっちを使って」
朔也が別の工具を差し出したので、朱里はそれを受け取った。指先は触れなかった。最近、触れないことばかりを意識している気がした。
「ありがとうございます」
「うん」
工具を替えると、ネジはすぐに回った。朱里は手元に集中する。金属が緩む音、天板が少し沈む気配、朔也が支える側の重さ。そのすべてが、同じ作業の中でつながっている。
「外れます」
「持ってる」
「いきます」
「いい」
短い言葉だけで作業は進む。名前はない。余計な説明もない。けれど、呼吸は合ってしまう。
朱里はそれが怖かった。声にしなくても合うこと、合わせようとしなくても相手の間がわかってしまうことが。仕事で必要な感覚だとわかっていても、胸の奥では別の意味を持ち始めている。
天板を外して壁際へ運ぶ。朱里は、朔也との距離を空けるためではなく、重さの都合だと言い聞かせながら、持つ位置を少し遠くにした。
「そこを持つと、腕に来る」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃなくなる前に変えて」
朔也の声は淡々としていた。朱里は一瞬だけ返事を遅らせた。
「……はい」
持つ位置を変えると、確かに楽になった。そういうところが嫌だと思った。彼の言うことが正しいからこそ、自分の反発まで見透かされてしまうのだ。
天板を置いた後、朱里は少し離れて工具をまとめた。朔也もそれ以上は近づかなかった。忙しい現場の中で避けようとする朱里を追わないのは、彼の優しさなのかただの配慮なのか、朱里にはもう分からなくなっていた。
午後に入ると、ホールの中央に残っていた大きな展示構造の解体が始まった。幅のあるフレームを外し、床材を剥がし、照明のケーブルをまとめる。音が増え、空気に熱が混じる。
朱里はケーブルの束をまとめる作業についた。黒いコードは長く絡まりやすいため、ひとつずつ輪を作り結束バンドで留める。単調な作業だが、油断するとすぐに形が崩れる。
「巻きが小さい」
朔也が通り過ぎながら言った。
「大きめですか?」
「もう少し。折れる」
「はい」
朱里は輪を広げた。黒いコードが手袋の中で硬く跳ねる。湿り気はないのに、昨日の雨の感覚が少しだけ戻ってきた。
朔也はすでに別の場所へ行ってしまったらしく、声だけが残った。離れているほうが楽なはずなのに、残された言葉のほうが長く朱里に絡みついてくる。
「声だけ聞こえるの、ずるい」
思わず口の中で言ってしまった。声にはほとんどならなかったが、自分の耳には届いた。
朱里は慌てて周囲を見た。朔也は遠くで別のフレームを押さえていて、聞こえていないようだった。朱里はそう思って息を吐いた。
自分は何を言っているのだろう。ずるいなんて、仕事中の指示に対して使う言葉ではない。朱里はケーブルを強く握りすぎて、手袋の布がきしむのを感じた。
広い会場は時間が経つにつれ空いていき、朝には林のように立っていた支柱が減って床が見え始めた。人の動きも一方向へ流れ、撤収が終わりに近づいていることが空気から伝わってきた。
終わりが近づくにつれ、朱里の落ち着かなさは増していった。忙しさに紛れていたものが、広がった床の上に少しずつ戻って来る。避けていた声、見ないようにしていた背中、言いそびれた返事。
「中央、最後の確認」
朔也が言った。朱里は少し離れた場所でうなずいた。
「はい」
「そっち側から見て」
「わかりました」
朱里はホールの片側を歩いた。床に残ったケーブルの跡、外された床材の境目、小さな部品が落ちていない場所。見るべきものは多いが、意識は反対側を歩く朔也の気配を拾ってしまう。
広い空間の端と端に分かれているのに、彼がどこで立ち止まったか、どのあたりで屈んだかが音だけでわかった。靴音の止まり方、工具袋の金属音、短く息を吐く気配。
名前を呼ばない職場では、こうやって相手を覚えてしまうのかもしれない。声、歩き方、物を置く音、沈黙の長さ。名前よりも先に体が相手を識別してしまう。
朱里は床の小さなネジを拾い、指先でつまんだ。金属は少し温かく、誰かの手から落ちたばかりなのかもしれない。
「落ちてました」
と声を出すと、ホールの広さに声が少し散った。朔也がこちらを見た。
「こっちに」
朱里はネジを持って歩いた。中央の空白を横切り、朝には構造物があった場所を今はただの床として歩いている。
朔也の前まで来ると、急に距離が近くなった気がした。広さを渡ってきた分、近さが濃くなったのだ。
「これです」
朱里は手のひらを開いた。朔也がのぞき込む。
「それ、照明側」
「残ってたら危なかったですか?」
「踏むと滑る」
「また滑るところでしたよ」
言ってから、朱里は、雨の搬入口で肘を支えられた瞬間を自分で呼び戻してしまったことに気づいた。朔也も、一瞬だけ黙った。
「今日は止まった」
「はい」
「それでいい」
短い言葉だったが、そこには雨の日の続きが少しだけ残っていた。朱里は手のひらのネジを彼に渡した。指は触れなかった。
触れなかったことに今度は少しだけ安心した。触れたらどこかが決まってしまいそうだった。
夕方の色がホールの高い窓ににじみ始めるころ、中央の構造物はほとんど消えていた。朝の広さとは違う広さだった。何かが始まる前の空白ではなく、終わった後に息をしている空白。
朱里は少し離れた場所からその床を見た。外されたものの跡が薄く残っている。拭いても運んでも完全には消えないものがある。
「避けてる?」
朔也の声が横から聞こえた。朱里は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「え?」
「今日、近くに来ないから」
心臓が会場の床に落ちたみたいに重く鳴り、朱里はすぐに否定しようとしたが、声が出なかった。
「そんなことは」
と言いかけて止まる。そんなことはないと言えば嘘になるが、かといって「避けています」と言えるほど整理された気持ちでもない。
朔也は追い詰めるようには見えず、視線は朱里の顔ではなく少し横の床に置かれている。それが余計に逃げられなくさせた。
「作業、やりにくかったなら言って」
「違います」
朱里はすぐに答えた。今度は早すぎる返事でも嘘ではなかった。
「じゃあ?」
「……わかりません」
また、その言葉になった。閉じた箱の前で言葉を逃した、あの夜の感触が喉の奥に戻ってくる。「わからない」という言葉に甘えているようで、嫌だった。
けれど、わからないものをわかったふりをしてごまかすほうが、もっと怖い。
朔也は黙っていた。ホールの奥で台車の音が遠くなり、広い床に夕方の光が伸びていた。
「昨日のことですか?」
朱里は小さく言った。雨の日のこと、と言うべきだったのかもしれないが、朔也には昨日のことだけで伝わる気がした。
「肘?」
その短さに朱里は顔を伏せた。
「はい」
「痛かった?」
「痛くはなかったです」
「なら、何か残った?」
声が静かだった。責めていない。けれど、まっすぐだった。
朱里は答えられなかった。何かが残った。確かに残った。けれど、それを何と呼べばいいのかまだ分からなかった。
「残った、と思います」
ようやくそれだけ言った。朱里の声は広いホールの中で、思ったよりも小さかった。
朔也はしばらく黙った。沈黙が床に薄く広がっていく。会場が広いのに逃げ場がない。
「困らせたなら、ごめん」
その言葉は低く、少しだけ硬かった。朱里は顔を上げた。
「違います」
「でも、避けてた」
「それは、困ったからじゃなくて」
続きが出なかった。困ったからではない。でも、平気ではない。助けられたことが嫌だったわけではない。むしろ、嫌ではなかったことが怖かった。
「嫌ではなかったです」
と言ってしまった後、朱里は自分の手元を見た。手袋の指先に今日のほこりが薄く付いている。
朔也は動かなかったが、ほんの少しだけ呼吸が変わったように見えた。
「そう」
それだけだった。けれど、その一言はこれまでのどの返事よりも遅く置かれた。
朱里は、もう何も付け加えることができなかった。嫌ではなかった。それ以上言えば、仕事から気持ちが離れてしまいそうだった。会場の広さが急に胸に迫ってきた。
「作業に戻ります」
朱里は逃げるような言葉で言った。
「うん」
朔也は追わなかった。その代わりに、少しだけ作業の位置を変えた。朱里と同じ方向へ向かわず、反対側を確認しに歩いていった。
距離を置かれたが、それは突き放すためではないと朱里は理解した。彼はいつも、相手が困らない場所を探す。その優しさが今日は少し痛かった。
夕方には、ホールの床が薄い金属色に変わっていった。照明はまだ点いているのに、外の光が弱まるにつれ、天井の高さが冷えて見えるようになった。人の声も少しずつ減り、作業音の合間に広い沈黙が訪れるようになった。
朱里は最後の養生材を丸めた。朝から踏まれていた布は細かなほこりを含み、腕の中で重く沈んだ。巻き終えると床の素地がまっすぐに現れた。
何もなくなると苦しくなることがある。物があるうちは、そこに役割があり、動きがあり、声をかける理由がある。物がなくなると、ただそこに立っている自分だけが残る。
「そこ、置く場所違う」
朔也の声がした。いつものように、仕事の言葉だった。
朱里は少しだけほっとした。まだ仕事の言葉がある。まだこの距離を仕事で保てる。
「どこですか?」
「柱の影じゃなくて、出口側」
「わかりました」
朱里は養生材を運び直した。朔也が近づいてくる気配がしたが、今度は避けなかった。彼も必要以上には近づかなかった。
作業が終わりに近づくにつれ、ホールの端に置かれた大きな照明が一つずつ落とされていった。白かった床が少しずつ青みを帯び、外の空と同じ温度になっていく。その広さは目に見えるよりも先に、音の響きでわかった。
「最後、中央だけ見て終わり」
朔也が言った。
「はい」
朱里は彼と少し離れて歩いた。朝とは違い、もう避けるための距離ではない。近づきすぎないための距離でもない。ただ、今の自分が呼吸できる場所だった。
中央の床には小さなテープ片が1枚残っていた。朱里が拾う前に朔也もそれに気づいたようで、2人は同じ場所を見て少し足を止めた。
「取ります」
朱里は言った。
「うん」
しゃがんでテープの端を剥がすと、粘着は弱くすぐに取れた。手袋の指先に、今日の最後の小さな抵抗が残る。
立ち上がると、少し先には朔也がいた。彼は、会場の広さを背負うように立っていた。朱里は、その背中を見て、朝からずっと避けていたものが自分の中に戻ってくるのを感じた。
「真砂さん」
と声に出した。今度は天気の話でも作業の確認でもなく、朔也が振り向いた。
「何?」
その「何?」が静かすぎて、朱里は一瞬言葉を失った。
「今日、避けていたのは」
そこまで言って息が詰まり、続きをどう言えばいいのかわからなかった。説明すればするほど、何かが異なる形になりそうだった。
朔也は待っていた。広いホールの中で急かさずに待つ、それだけで朱里の胸は少しずつ熱くなった。
「嫌だったからじゃないです」
ようやく言えた。声は細かったけれど、消えなかった。
朔也はしばらく何も言わなかった。外の光が床から少しずつ消え、照明だけが彼の横顔を白く照らしていた。
「わかった」
たったそれだけだったけれど、朱里はその返事で十分だった。十分すぎて逆に何も言えなくなる。
「それだけ、言いたかったです」
「うん」
彼はうなずいた。仕事の合図みたいで、でもそれだけではないうなずきだった。
夜の気配がホールの隅から濃くなっていった。大きな会場は空になり、朝あった骨組みやパネル、養生材はなくなっていた。残っているのは床と壁、そしてわずかなほこりのにおいだけだった。
空になった場所には声がよく残る、と朱里は思った。今日何度も聞いた朔也の声が、柱の影や床の端にまだ残っているような気がした。
「戻るか」
朔也が言った。
「はい」
二人は歩き出した。広い床を横切る間、足音だけが静かに響き、会話はなかった。けれど、さっき交わした言葉が沈黙を少しだけ変えていた。
出口近くで朱里は一度だけ振り返った。大きなホールは、何もなかった場所に戻りつつあったが、朱里の中では何もなかったことにはならなかった。
朔也も少しだけ立ち止まり、朱里が見ているものを追うように空の床へ視線を向けた。
「広いですね」
朱里は言った。
「空になると余計に」
「声、残りそうです」
と言ってから、少しだけ恥ずかしくなったが、朔也は変な顔をしなかった。
「残ることはある」
「真砂さんの声も」
言葉が出た瞬間、朱里は自分の口を閉じたくなった。言い過ぎた。作業の話として逃げられるかもしれないが、自分の中ではもう逃げられなかった。
朔也は朱里を見た。長くはないが、避けるには十分な時間だった。
「そうか」
返ってきたのはやはり短い言葉だったが、その声は少しだけ低く、少しだけ遅かった。
朱里は頷くしかなかった。これ以上言えば、名前を呼ぶより先に気持ちの方が声になってしまいそうだった。
外へ出ると、夜の有明は雨のない冷たさを持っていた。 舗装は乾き、建物のガラスには細い灯りがいくつも映っていた。 昼間の熱気は消え失せ、海のほうから吹く風が作業着の袖をそっと揺らした。
朝から避けていたはずの距離は夜には少し違う形になっていた。近づいたわけではないが、逃げるための距離ではなくなっていた。
朱里は作業袋を肩にかけ直した。今日は肘も手首も痛くない。痛みとして残るものはなかった。だからこそ胸の奥に残った、あの声の温度がはっきりと感じられた。
「明日も大きい現場ですか?」
朱里は聞いた。
「たぶん」
「また中央からですか?」
「いや、明日は外周から」
「外周?」
「広いところほど、端から見る」
朔也の言葉は仕事の説明だったが、朱里はそれを自分のことのように聞いてしまった。真ん中にあるものよりも、端に残るもの。目立つ感情ではなく、逃した視線や言いそびれた言葉。
「端のほうが残りますか?」
「残ることが多い」
朱里はうなずいた。夜の風が作業着の襟元から入り込む。寒いほどではないのに、少しだけ身が引き締まる。
会社の車に向かう途中、朔也はいつもより少し後ろを歩いた。朱里の歩幅に合わせているわけではないのかもしれないが、置いていかれない速度だった。
「今日のこと」
朔也が言った。朱里は足を止めずに聞いた。
「はい」
「避けていた理由、無理に言わなくていい」
朱里は横を見たが、朔也は前を向いたままだった。
「でも、言いました」
「言った分でいい」
「言った分でいい」。その言葉に朱里の胸が静かにほどけた。全部を言わなくてもいい。わからないところはわからないままでいい。
「真砂さんは」
朱里は言いかけて、少し止まった。
「何?」
「困りましたか、今日」
朔也はすぐに答えなかった。夜の道路を車が通り、ライトが足元を短く照らして消えた。
「少し」
朱里は息を止めた。
「でも、嫌じゃない」
その言葉は低く、夜の音にほとんど混ざりそうだったが、朱里にははっきりと届いた。
嫌じゃない。自分が言った言葉と同じ場所に、彼の言葉が置かれた気がした。
「……そうですか?」
それしか言えなかった。言葉が足りないのではなく、足してはいけない気がした。
夜の有明は広い会場よりもさらに広く感じられた。建物の間にある空気が冷えていて、遠くの信号が小さく点滅している。朱里は、その光を見ながら今日のホールに残った声を思い出した。
名前はまだ呼ばれない。呼べないまま、声だけが少しずつ濃くなっていく。逃げようとしても、忙しさに紛れても、空になった場所にはその声だけが戻ってくる。
車の近くで荷物を置くと、朔也はいつものように短く言った。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
朱里は返した。今日は、その言葉のあとに少しだけ間があった。どちらもすぐには動かなかった。
会場の明かりが背後でひとつ落ちた。大きな建物の中から白い光がすっと抜け、夜がそこへ入り込んで朝からの作業を静かに閉じていった。
朱里はその暗くなった場所を見ていた。何もなくなった床、残った声、避けた距離、嫌ではなかったという言葉、すべてが空の会場に薄く広がっていた。
「また明日」
朔也が言った。珍しい言葉だった。朱里は少しだけ目を上げた。
「はい、また明日」
名前はなかったが、明日という言葉があった。それだけで胸の奥に小さな熱が生まれた。
帰りの空気は乾いていた。雨の匂いはもうなく、舗装の表面には夜の冷たさだけが残っている。朱里は歩きながら、自分の中で何かが少し変わったことを認めた。
まだ恋とは言えない。そう言えば、すべてが急に決まってしまう。けれど、今日の会場で彼の声を避けきれなかったことだけは、もうなかったことにはできない。
広い場所ほど声は遠くなるはずなのに、遠い声ほど胸の奥に入ってきた。
朱里は夜の風を吸った。少し冷たくて、少しだけ乾いていて、作業のほこりをまだ含んでいる。空になった展示ホールのにおいが服のどこかに残っていた。
その匂いの中で、朔也の声だけがいつまでも消えなかった。




