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名札のない微熱  作者: reika1021


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4/10

第4章:雨に残る肘

雨は会場の外側から先に朝を濡らしていた。有明の広い道路は灰色に沈み、建物のガラスには空の重さが薄く貼りついている。朱里が作業用の上着の袖を引くと、布に含んだ湿気が手首のあたりで冷たく戻ってきた。


今日の現場は海に近い展示棟の端にある搬入口から入った。正面の明るい出入り口ではなく、車両の跡と雨粒の混じった泥がある裏側の出入り口だった。シャッターの下には水が細く溜まり、床に浸み込んだ雨が白い照明を曇らせていた。


朱里は足を止めた。濡れた床は思ったよりも滑りそうで、靴底の下に薄い膜があるような感覚があった。会場内には湿った段ボールの匂いが濃く漂い、金属製のラックの脚には小さな水滴が付着していた。


「足元、見てから入って」


真砂朔也の声が雨の音に少しだけ沈んで届いた。名前は呼ばれなかったが、その言葉はまっすぐ朱里の足元に落ちた。


「はい」


朱里は返事をして手袋の端を押さえた。布も少し湿っていた。乾いた現場の朝とは違い、今日の空気は指の間まで入り込んでくるようだった。


搬入口の内側には、昨日のイベントで使われた細長いパネルが壁際に寄せられていた。表面には雨を含んだ空気がまとわりつき、端の紙材がわずかに浮いていた。朱里は近づきながら、濡れた段ボールの甘く鈍い匂いを吸い込んだ。


「今日は紙ものを先に避ける」


朔也はそう言って、床に水が入り込まないように位置を目で測った。視線がパネル、台車、搬入口、床の濡れた線に順に通り、その動きは雨の日でも変わらないのに、今日は少しだけ慎重に見えた。


「奥へ運びますか?」


「奥じゃなくて、右の乾いている壁沿い」


「わかりました」


朱里はパネルの端に手をかけた。紙材は水気を吸っていて、見た目よりも重かった。持ち上げた瞬間、重さが腕に沈み、手袋の中で指が少し滑った。


「持ち方、浅い」


朔也がすぐに言った。


「すみません」


「謝らなくていい。濡れているから」


その言葉が雨の音の中でやけに柔らかく響いた。朱里はパネルを持ち直して下側へ手を入れ、紙の端が湿っているのを感じた。指先に冷たい柔らかさが触れた。


朔也は反対側を支えて朱里のほうへ重さが流れないようにし、いつものように自然だった。しかし、今日は滑る床と湿った空気のせいでその気遣いが隠しきれていなかった。


「そのまま。急がない」


「はい」


「急がない」と言われるたびに、朱里は自分の呼吸が少し早くなっていることに気づく。雨の日は音が多い。屋根をたたく水、搬入口の外で跳ねるタイヤ、床に落ちるしずく。それなのに、朔也の声だけが不思議と近く感じられた。


パネルを乾いた壁際に立てかけると、紙の匂いがふわりと立ち上った。湿った紙は乾いた紙よりも記憶に似ている。触れたものをすぐには放さず、空気の中に残ってしまう。


朱里は手袋の指先を見た。水とほこりが混ざって薄い灰色になっている。昨日まで箱の中の名札を分けていた手と同じ手だとは思えなかった。


「滑る場所、先に拭く」


朔也がモップを取った。朱里も布を持とうとしたが、彼が少しだけ首を振った。


「こっちは俺がやる。そっちは紙もの」


「私もできます」


「できるけど、今日は分けた方がいい」


できるけど、という言い方だった。朱里は反発しかけた気持ちを置く場所をなくした。できないから任せないのではなく、濡れた床のほうを彼が引き受ける。その違いを、彼は言葉ではなく作業の振り分けで示した。


「……わかりました」


朱里は紙ものの山へ戻った。少しだけ悔しかったが、その悔しさの中に小さな安心が混ざっていることも自分ではわかっていた。


雨は強くなったり弱くなったりしながら搬入口の外を白くかすませ、開いたシャッターの向こうでは濡れた路面に車の影が揺れていた。会場の中にいても東京の外側が水に包まれているのがわかった。


朱里は、濡れかけた段ボールを一枚ずつ、乾いた場所に移した。角がふやけているものは、持ち上げると形が崩れそうになる。慎重に持つほど、紙の弱さが手のひらに伝わった。


「それ、下から」


朔也の声がした。


「はい」


「角じゃなくて、底」


朱里は手を入れ直した。底を支えると、段ボールの形が崩れずに持ち上がった。朔也は床を拭きながらこちらを見ていないように見えた。


見ていないのにわかる。いや、見えているのだと思う。見ようとしていなくても必要なところだけ拾ってしまう人なのだと朱里はすでに知っていた。


段ボールを置いた後、朱里は無意識に朔也の足元を見た。濡れた床の境目を避けるように彼の靴は少し斜めに置かれており、雨の日の動き方まで体が覚えているようだった。


「真砂さん」


と呼んでから、朱里は一瞬だけ息を止めた。名字はすでに何度か口にしたはずなのに、雨の音の中ではいつもと違って響く。


朔也が顔を上げた。


「何?」


「ここの紙、濡れたものは別ですか?」


「別。あとで確認する」


「わかりました」


用件はそれだけだった。仕事のための呼びかけだったけれど、声に出したあと朱里の喉の奥には薄い熱が残った。


朔也はそのまま作業に戻った。変わらないことに安心すると同時に、変わらないことが少し寂しくも感じた。自分でも面倒だと思う。


搬入口の近くでは、雨粒が風に押されて斜めに入り込み、床の濡れた線が少しずつ広がっていた。朔也がモップで押し戻しても、外からまた細い雨が入り込んでくる。


「閉めますか?」


朱里が聞くと、朔也はシャッターの外を見た。


「今閉めると、荷物が通らない」


「じゃあ、このままですか?」


「少しだけ下げる」


彼はシャッターの操作盤へ向かった。重い音を立てて入口が少し狭くなり、雨の白さが半分ほど遮られた。外の音が遠くなり、会場内の湿り気だけが残り始めた。


「これで入りにくくなる」


「ありがとうございます」


「まだ床は見る」


朔也はそう言って戻ってきた。朱里はうなずきながら、なぜかその言葉が自分に向けられているように感じた。 床を見る。足元を見る。危ないところを先に見る。


彼の気遣いはいつも、人の真ん中ではなく周辺にある。真正面から差し出されないから、受け取ったあとに気づく。気づいたときにはもう、胸の中へ入っている。


紙ものの移動が終わると、今度は濡れた養生シートをたたむ作業になった。床に広げられた透明のシートは雨水を含んでおり、端を持つと冷たい水が手袋にしみ込んだ。朱里は思わず眉を寄せた。


「冷たい?」


「少し」


「無理なら交代する」


「大丈夫です」


大丈夫と言った後、また言ってしまったと思った。朔也はその言葉を否定しなかったが、朱里が持っている側へ目を落とした。


「じゃあ、半分でやめる」


「半分?」


「全部一気にやると重い」


朱里はうなずいた。シートを少しずつ折る。水が内側へ逃げ、床に細く流れた。雨のにおいとビニールのにおいが混ざり、指先が冷えていく。


朔也は反対側で同じようにシートを折っていた。透明なシートの向こうに、彼の手の動きがぼんやりと見える。近いのに、間に一枚シートがある。その距離感が今日の空気によく似ていた。


「そこ、滑る」


声がした瞬間、朱里の足が少し滑った。靴底が水に接し、体の重心が後ろへ傾く。床が思ったより滑った。


息が詰まる前に、手袋越しの何かが朱里の肘の下に入った。強く掴まれたわけではない。落ちる方向だけを止める、短い支えだった。


「止まって」


朔也の声が近い。朱里は動けなかった。シートを持つ手は水で冷えているのに、支えられた肘のあたりだけが急に熱かった。


「……はい」


返事が遅れた。自分の声が少し震えているのがわかった。朱里は足元を見ようとしたが、視線がうまく下がらない。


朔也の手はすぐに離れた。離れた後、そこには形だけが残った。手袋越しだった。作業の中の一瞬だった。そう自分に言い聞かせるには、距離が近すぎた。


「足、痛めてない?」


「大丈夫です」


「本当に?」


朔也の声が少しだけ低くなった。朱里はうなずいた。大丈夫ではあったが、胸のほうが大丈夫ではない気がした。


「滑っただけです」


「滑っただけで済んだ」


その言葉に朱里は何も返せなかった。彼の目は床ではなく、朱里の足元にとどまっていた。責めているわけではないが、軽く済ませようとしたことを見透かされていた。


「すみません」


「謝るより、次は止まって」


「はい」


会話は短かったが、その短さの中に雨の日の冷たさとは違う温度があった。朱里はシートを持ち直し、今度は足を置く場所を確かめてから動いた。


肘の下にはまだ支えられた感覚が残っていた。触れたのは手袋越しで肌ではなかったが、布の隔たりがある分、かえってその瞬間がはっきりと感じられた。


朱里はそれを考えないようにした。考えると、足元よりも胸の内側の方が滑りそうだった。


シートを半分ずつ折りたたみ、台車の上に載せる。水を吸ったビニールは重く、置いた瞬間に鈍い音を立てた。外ではまた雨が強くなり、シャッター下の細い隙間から白い飛沫が見えた。


「少し休む」


朔也が言った。休むという言葉が珍しく彼のほうから出たので、朱里は顔を上げた。


「真砂さんが?」


「俺も濡れた」


言われてみれば、彼の作業着の袖が雨を吸って色を濃くしていた。朱里はそこを見てしまい、すぐに視線を外した。


休憩場所は搬入口から少し離れた壁際で、椅子はなかったため、二人は立ったまま荷物台のそばに寄った。雨の音が少し遠くなり、代わりに濡れた布の匂いが近づいてきた。


「さっき、ありがとうございました」


朱里は言った。肘のことだとわかる言い方だった。


「間に合ってよかった」


朔也はそれだけ返した。助けたとは言わない。自分が何かをしたという形をできるだけ残さない言い方だった。


「よく見えてましたね」


「床?」


「私が滑ったところ」


「見えてた」


「……そうですか?」


朱里は指先を見た。濡れた手袋の布が少し重かった。いつもの癖で端を押さえようとしても、湿った布はきれいに戻らなかった。


朔也は何も言わず、少しだけ距離を置いた。たぶん、朱里が落ち着くための距離だった。そういうことが分かってしまうのも、困ってしまう。


「怖かった?」


と不意に聞かれた。朱里はすぐに答えられなかった。滑ったことは怖かったが、本当に怖かったのは支えられた瞬間に自分が安心してしまったことだった。


「少し」


「なら、次から濡れた床は先に言う」


「私も見ます」


「見ていても滑る日はある」


その言葉は仕事の話としては正しかったが、朱里には見ていても避けられないものがあると言われたようにも聞こえた。


「真砂さんでも?」


「滑るときは滑る」


朱里は少しだけ笑いそうになった。大きく笑うほどではなく、雨に濡れた会場の端でほんの少し息が柔らかくなる程度だった。


朔也はそれを見たのか見ないふりをしたのか、視線をシャッターのほうへ移した。外では雨が水の幕となって落ちており、作業を止めた短い時間だけ、会場はやけに静かだった。


休憩の後、濡れた資材を乾いた場所に移す作業が続いた。朱里は無理に急がず、足を置く前に床を確認し、持つ前に重さを確かめた。朔也の声が届く前に、自分で一つずつ確認した。


それでも、彼の声は届く。


「右、濡れてる」


「はい」


「そこ、置くと染みる」


「こっちですか?」


「もう少し奥」


言葉の数は少ないけれど、雨の中ではその少なさがかえってはっきりしていた。朱里は指示に従いながら、彼が自分を呼ばないことを意識していた。


名前を呼ばれないのにこんなに届くのなら、名前を呼ばれたらどうなってしまうのだろう。そんなことを考え、朱里はすぐに段ボールの角に目を落とした。


紙の山を移し終えるころ、会場外の雨は弱まっていた。シャッターの下にたまった水がゆっくり流れて排水溝に落ちていく。濡れた床には照明の白が柔らかくにじんでいた。


「奥の確認、行ける?」


朔也が聞いた。


「行けます」


「滑る場所があれば、先に止まって」


「はい」


朱里は少しだけ慎重に歩き出した。奥の通路には、濡れた資材を運んだときの水跡が点々と残っていた。靴底が触れるたびに、かすかな湿り気が音になった。


通路の先には外されたパネルのフレームが立てかけられていた。アルミの表面は冷えていて、触れると手袋越しにも冷たさが伝わってくる。朱里はフレームを一本ずつ確認し、曲がったものがないか見ていく。


朔也は少し後ろにいて、朱里が立ち止まるたびに同じ場所で止まるが、近くには来ない。


守られている、と思いそうになって朱里はそれを打ち消した。「守る」という言葉は重すぎる。これは仕事だ。濡れた現場で危険を避けているだけだ。


でも、仕事なら全部説明できるはずなのに、肘の下に残ったあの感覚だけがどうしても説明の外に出てしまう。


「曲がり、あります」


朱里はフレームの端を見せた。小さく歪んでいる。


「どこ?」


朔也が近づいた。肩が並ぶほどではないが、同じフレームを見るために距離が縮まった。


「ここです」


朱里が指さした場所を朔也がのぞき込むと、濡れた金属のにおいがした。彼の袖からは、雨を含んだ布のにおいがした。


「これは分ける」


「使えませんか?」


「使うと次で浮く」


「少しだけでも?」


「少しだけがあとで目立つ」


少しだけがあとで目立つ。朱里はその言葉に胸のどこかを押された気がした。


小さな違和感ほど残る。名前を呼ばないこと、距離が近づいたこと、助けられた肘の熱、どれも大きな出来事ではないのにあとから目立ってしまう。


「じゃあ、分けます」


朱里はフレームを別の場所へ移した。朔也は支えようとして手を出しかけたが、少し止めた。


「持てる?」


「持てます」


「わかった」


彼は手を引いた。任せられたことに朱里の胸は少しだけ軽くなったが、完全に離されたわけではなかった。彼の視線はフレームの先と朱里の足元を静かに追っていた。


奥の確認が終わると、会場には雨の日特有の疲れが残った。乾かしたはずの床もどこかしっとりとしており、空調の風が当たる場所だけが少し乾いていて、そこには紙と金属の匂いが薄く漂っていた。


朱里は濡れた手袋を外した。指先が少し冷えて、爪のあたりが白くなっていた。乾いたタオルで拭くと、皮膚に戻る温度が遅かった。


「替え、ある?」


朔也が聞いた。


「あります」


「次から早めに替えた方がいい」


「まだ使えると思って」


「使えると、無理は違う」


朱里はタオルを持つ手を止めた。「使える」と「無理」は違う。それは作業道具の話、濡れた手袋の話だった。それなのに、自分の中のどこかがその言葉に反応した。


「覚えておきます」


「うん」


朔也は自分の手袋も外した。右手から先に抜いた。湿った布が指から離れる音がして、朱里は見てはいけないものを見るように目を伏せた。


素手が見えると、急に人の輪郭が変わる。作業の中にあった距離がほんの少し、生活に近づいた気がした。朱里は替えの手袋を取り出し、急いではめた。


外の雨は細くなり、音の粒が小さくなっていた。搬入口の向こうの空はまだ重かったが、建物のガラスには薄く街の光が戻り始めていた。朝から濡れていた道路は暗い鏡のように車の光を受けていた。


「最後、搬入口だけ見て終わる」


朔也が言った。


「はい」


朱里は彼と少し離れて歩いた。床の濡れた跡は朝よりずっと少なくなっていたが、それでも完全に消えたわけではなく、シャッターの近くに細い水の筋が残っていた。


「ここ、まだ」


朱里が先に言った。


朔也はその場所を見て少しだけうなずいた。


「気づいたな」


褒められたのか、確認されただけなのか、やはりわからない。けれど、朱里はその曖昧さを今日は少しだけ受け取れた。


「見てましたから」


「うん」


短い返事だったが、見ていたことを否定されなかっただけで胸の奥が静かに温まった。


朱里は布で水の筋を拭き、床の白さが少し戻った。雨の跡は完全には消えなかったが、歩くには十分だった。


「これで大丈夫ですか?」


「大丈夫」


朔也の「大丈夫」は、朱里の「大丈夫」よりも少し重みがある。軽く言っているようで、確認のあとにしか使われない言葉だ。だから、その言葉を聞くと、朱里は少しだけ安心してしまう。


搬入口のシャッターを下ろすと、外の雨音がぐっと遠くなった。会場の中に残ったのは、濡れた資材を移動させた後の匂いと、床にしみ込んだ水分の冷たさだった。


照明の下で朱里の作業着を見ると、小さな雨の跡がいくつか残っていた。袖口、膝のあたり、肘の下。支えられた場所を見ないようにしても、目はそこに戻ってしまう。


朔也は荷物をまとめていたが、いつもより少し静かだった。雨の日の作業で疲れたのか、それとも朱里が滑った瞬間のことをまだ気にしているのかは分からなかった。


「今日、ありがとうございました」


朱里がそう言うと、何に対しての礼なのか言わなくてもわかる気がした。


朔也は工具袋の紐を結びながら少しだけ手を止めた。


「ケガしていないならいい」


「してません」


「ならいい」


彼はそう言ったが、声にはまだ少しだけ雨の湿り気が残っているようだった。


「真砂さんは濡れましたよね」


「少し」


「袖、冷たそうです」


と言ってから、朱里は自分が思ったよりも近いことを言ってしまったことに気づいた。これは作業上の確認ではない。ほとんど、ただ見ていたことを告白したようなものだった。


朔也は自分の袖を見て、それからほんの少しだけ視線を逸らした。


「乾く」


「そうですね」


会話はそれだけだったけれど、朱里には乾くという言葉が少しだけ寂しく聞こえた。濡れたものは乾き、冷えたものは元に戻る。触れた感覚も、そのうち消えてしまうのだろうか。


消えてほしいのか、残ってほしいのか、朱里にはまだ分からなかった。


夜に向かう会場の外では雨が上がりかけており、シャッターを少し開けると湿った風が入り、舗装の匂いが立ち込めた。遠くの街灯が水たまりに映り、揺れる光が足元に散らばっていた。


「出るとき滑るなよ」


朔也が言った。


「はい」


「さっきみたいに」


「……覚えてます」


「ならいい」


その言葉に朱里は少しだけ目を伏せた。忘れられるわけがない。肘の下に添えられた手袋の感触も、近くで聞こえた「止まって」という声も、雨の匂いと一緒にまだ残っている。


外へ出ると、空気が肌に触れた。雨の後の東京はいつもより近く感じられ、建物の輪郭は湿り、遠くの車音は柔らかく響き、足元の水たまりには薄い夜が溜まっていた。


朱里は慎重に歩いた。滑らないようにではなく、さっきの自分をなぞらないように、濡れた床で崩れかけた体と支えられた一瞬の呼吸をもう一度思い出さないように。


けれど、思い出してしまう。手袋越しだったからこそ余計に、肌に触れられていないのに距離だけが触れてしまったような感覚だった。


朔也は少し前を歩いていた。雨上がりの光の中で、作業着の肩に残った水分が小さく光る。朱里はその背中を見て、名前を呼びそうになった。


呼ぶ理由はあった。袖が濡れていること、足元が滑ること、今日の礼をもう一度言うこと、理由はいくらでも作れる。


けれど、どれも本当の理由ではない気がした。


「真砂さん」


結局、朱里は名字だけを呼んだ。声は雨上がりの空気に少し吸い込まれた。


朔也が振り向いた。呼ばれたから振り向いた。当たり前のことなのに、朱里の胸は小さく鳴った。


「何?」


「……明日も雨でしょうかね」


朱里は、自分が何を言っているのかわからなかった。天気の話をしたかったわけではない。言葉にできないものを雨の形にして、朔也に差し出しただけだった。


朔也は空を見た。厚い雲の切れ目から、街の明かりが薄く反射していた。


「まだ残りそうだな」


「そうですか」


「濡れる現場なら、替えの手袋を多めに」


「はい」


彼はそこで言葉を止めかけたが、少し遅れてまた付け加えた。


「あと、靴底も見といた方がいい」


朱里はうなずいた。仕事の忠告だった。優しさと言い切るにはあまりにも現場に馴染んでいるが、だからこそ胸に残る。


「わかりました」


「うん」


会話は終わったが、その終わりは雨の上がりきらない空のようにどこか曖昧だった。


会社の車の近くで荷物を整えていると、夜の湿度はさらに高まっていた。濡れた舗装から立ち上る匂いに、海の気配が薄く混じる。朱里は手袋を鞄に入れようとして、肘のあたりをそっと押さえた。


痛みはない。ただ、そこにあった一瞬を確かめたかっただけだった。


朔也はそれに気づいたのかもしれないが、何も言わなかった。見えても必要なければ言わない、第3章で聞いたその言葉が朱里の中にまた浮かんだ。


言わないことが、こんなに近いこともあるのだと思った。


「お疲れ」


朔也が言った。


「お疲れさまです」


朱里は返した。雨のせいか、その言葉はいつもより柔らかく落ちた。


別れる前の短い沈黙に、濡れた街の音が入ってきた。遠くで車が水をはね、ビルのガラスには細かな明かりが散らばっている。朱里は、その音の隙間で彼の名前を心の中に置いた。


まだ声には出さない。声にしてしまえば、今日支えられた場所が仕事の一部ではなくなってしまう気がした。


家に向かう道の途中、朱里は自分の歩き方が少し慎重になっていることに気づいた。足元を見て、濡れた場所を避け、滑らないように体を少しだけ整える。


それは今日覚えた作業の注意だったけれど、同時に彼に言われた言葉の残りでもあった。


雨はほとんど降っていなかったが、街灯の下にだけ細かな雨粒が見え、空気の中でゆっくり消えていった。朱里は、その光を見ながら手袋越しの温度がまだ胸の奥に残っていることに気づいた。


名前を呼ばないまま、何かは確かに近づいている。近づいたとは言えないほど静かに、しかし離れていないことだけはわかるほど確かに。


夜の湿った風が首筋をなでた。朱里は息を吸い、雨のにおいと一緒に彼の短い声をもう一度思い出した。


「止まって」


その一言だけが、濡れた床よりも深く朱里の中に残っていた。


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