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名札のない微熱  作者: reika1021


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3/10

第3章:名札の箱の底

朝の光は、会場の表側まで届く前にバックヤードの白い壁で一度くすんでいた。朱里の前には透明な名札ケースが詰められた箱がいくつも積まれていた。紙と紐と薄いプラスチックが重なった匂いは昨日まで人の胸元にあったものとは思えないほど乾いていた。


今日は、表の広い床を片付けるより先に、裏側の仕分け作業から始まった。展示会終了後、取り外された名札、案内プレート、受付用札を分類し、再利用可能なものと廃棄するものとに分ける。


華やかだった場所の裏側にはいつもこういう細かい作業が残る。大きな看板を外す音よりもケース同士が触れる軽い音のほうがなぜか胸の奥に長く残る。


朱里は段ボールのふたを開けた。ケースの中で絡まった白いストラップがほどけずに眠っている。指を入れると、ひんやりとしたケースの角が手袋越しに当たり、小さな硬さが爪のあたりに伝わった。


「ケースは右。紙が残っているのは左」


真砂朔也の声が棚の向こうから聞こえた。姿は見えないが、声だけで彼がどのあたりに立っているのかわかった。


「はい」


朱里は返事をして、箱の中へ視線を戻した。名前を呼ばれないことには慣れているはずなのに、姿が見えない場所から届く声はいつもより近く感じた。


名札ケースをひとつ取り出す。中にはもう紙が入っていなかった。透明な枠だけが残り、胸に下げられていた時間もそこに印字されていた誰かの名前も、抜かれていた。


朱里はそれを右の箱へ入れた。軽い音がした。何も入っていないものほど、重ねるとよく鳴る。


バックヤードは、会場の奥にある狭い部屋だった。天井は低く、壁際には折りたたまれたパネルや備品の袋が寄せられていた。蛍光灯の光は少し硬く、朝の光よりも先に働く人の目を覚まさせるようだった。


朱里は、空のケース、紙が残ったもの、ストラップが切れたもの、とひとつずつ名札を分けた。単純な作業なのに、名前の入っていた場所を触るたびに、誰かの声の残りを扱っているようで、指先が慎重になった。


「紙が残っているのは抜かなくていい」


朔也が近づいてきた。足音は軽かったが、棚の影が動いた瞬間、朱里の肩はわずかにこわばった。


「そのまま廃棄ですか?」


「確認してから」


「わかりました」


朔也は朱里の隣ではなく、箱ひとつ分だけ離れた場所に立った。近いようでちゃんと作業の距離がある。その距離を意図的に保たれていることに気づくと、朱里はなぜか胸の内側が落ち着かなくなった。


彼は名札ケースを数枚持ち上げ、紙が入っているものだけを手早く選別した。右手で取り、左手で置く。視線は紙の有無だけを追っているように見えるのに、時折、朱里の手元にもかすかに触れてくる。


見ているのだろうか、見ていないのだろうか。朱里はその答えを知りたくないまま、ストラップの絡まりをほどいた。


「それ、強く引くと切れるよ」


「はい」


朱里は力を緩めた。白い紐は思ったより細く、少し引いただけで指の間に擦れた感触が残る。ゆっくりほどくと、絡まりの中心から透明なケースがひとつ出てきた。


そこには紙が残っていた。知らない名前だった。朱里はそれを読まないようにして左の箱へ入れた。


読まないようにしても文字は目に入る。名前というものはこちらが避けても勝手に輪郭を持つ。朱里はそのことが少し怖かった。


「読まなくていい」


朔也が言ったので、朱里は顔を上げた。


「え?」


「残っていても、読まなくていい。確認はこっちでするから」


彼の声は低かったが、責めるようには聞こえなかった。ただ、「余計なものを持たなくていい」と言われたように感じた。


「……はい」


朱里は短く返した。胸の奥にあった力が少し抜けた。名前を読まなくていい、そう言われただけで指先が軽くなるのが不思議だった。


バックヤードの外では、表の会場で何かが片付けられる音がしていた。大きなものが動く低い振動、台車の車輪が床を走る音、遠くの扉が閉まる乾いた音。ここだけはその音から少し離れていて、箱の中の小さなものだけが時間を刻んでいた。


朱里は名札ケースを重ねながら、ふと、昨日、帰り道で朔也の名字を口にしたことを思い出した。「真砂さん」と声に出した瞬間の間がまだどこかに残っている。


あれはただの呼び方だった。職場で不自然ではない。けれど、呼ぶ前と呼んだ後では何かの位置が少しずれた気がした。


「数、合わない?」


朔也の声で朱里は手元に戻った。ケースの束を数えかけたまま止まっていた。


「すみません。もう一度数えます」


「急がなくていい」


「はい」


急がなくていい、と彼はよく言う。朱里は、その言葉が仕事の速度だけではなく自分の心の奥まで入り込んでくるようで、困った。


ケースを十枚ずつ重ねる。透明な板が合わさるたびに薄い音がして、朱里は数えることに集中した。ひとつ、ふたつ、と声には出さずに目で追う。


朔也は反対側で、紙の残った名札を確認していた。読まなくていいと言った彼が、代わりに誰かの名前を見ている。そのことがなぜか朱里には、少し痛かった。


名前を見ることはただの確認作業だとわかっている。けれど、彼の目に入る名前が自分ではないというだけで胸の端に小さな棘が立つ。


馬鹿みたいだと思った。仕事中にそんなことを考える自分はきっと扱いにくいだろう。朱里は透明ケースの束を右の箱に入れ、音を立てないようにそっと手を離した。


「今、何枚?」


「空ケース、六十です」


「あと四十枚くらいある」


「多いですね」


「昨日の来場者数は、かなり多かったらしい」


来場という言葉で朱里は、表の会場を思い浮かべた。昨日ここには人が溢れていて、名札を胸につけ、互いの名前を見ながら話していたのだろう。今はその名前だけが抜かれ、箱の中で絡まっている。


名前を見せ合うための場所を、名前を呼ばない職場の人間が片づけている。そのことが少し奇妙で、少しだけ寂しかった。


「こういうの、全部外すと」


朱里は言いかけて止まった。言葉がうまく続かない。朔也は紙の束を整えながら、待つでもなく待っていた。


「なんか、急に人がいなくなった感じがします」


と言ってから、少し曖昧すぎたと思ったが、朔也は笑わなかった。


「人より先に名前が残るから」


朱里は手を止め、朔也はそのまま作業を続けた。


「名前が?」


「椅子や机はただの備品に戻るけど、名札には誰かがいた感じが強く残る」


その言葉は静かだった。朱里は、自分だけがそう感じているわけではないのだと知り、少し驚いた。


「真砂さんも、そう思うんですか?」


また呼んでしまった。今度は昨日ほど大きく響かなかったが、それでも朱里の胸にははっきりと残った。


朔也の手が一瞬止まった。ほんの短い間だった。気のせいにできるくらい短い。


「思う」


それだけだった。朱里はうなずき、手元へ視線を落とした。短い返事なのに、胸の中で長く沈む。


バックヤードの空気は少しずつ温まり、段ボールのにおいが強くなってきた。白い壁に当たる光は変わらないのに、外から聞こえる音だけが少し大きくなる。表の会場では大きなものの撤収作業が進んでいるのだろう。


朱里は、紙が残った名札を一枚手に取った。紙の端がケースの中で少し曲がっていた。抜く必要はないとわかっているのに、曲がったままになっているのが気になった。


「触らなくていい」


朔也がそう言うと、朱里は指を止めた。


「曲がっていたので」


「そこまで直さなくていい」


「でも」


「もう返すものじゃない」


その言葉に朱里はなぜか胸が詰まった。「もう返すものじゃない」。役目を終えた名前は整えられる必要もない、そう言われた気がした。


朱里は名札を箱に戻した。透明ケースの中で、曲がった紙の端が小さく浮いている。その浮き上がりが言いそびれた言葉みたいに見えた。


「気になる?」


朔也が聞いた。声は近かった。


「少し」


「真面目だな」


「よく言われます」


と言ってから、誰によく言われるのか考えた。実際には、そんなに何度も言われているわけではない。ただ、自分で自分に言い聞かせているだけなのかもしれない。


朔也は少しだけ視線を横に逸らした。会場の奥ではなく、壁際の棚を見る。そのしぐさを、朱里はすでに知っている。


「悪い意味じゃない」


少し遅れて補われた。朱里は指先を見た。手袋の布に小さな紙粉が付いている。


「わかってます」


本当は少しだけわかっていなかったが、わからないと言うほどでもなかった。朱里はそういう曖昧な場所に自分の感情をよく置き忘れる。


仕分けが半分ほど終わると、バックヤードの扉の向こうから明るい空気が流れ込んできた。表の会場で一部の照明が落とされたらしく、音の方向が変わった。広い空間が少し遠くなり、裏側の部屋だけが浮いたように感じられた。


「表、少し見る」


朔也が言った。


「はい」


「ここ、続けてて」


「わかりました」


朔也が出て行くと、バックヤードは急に狭くなった。人が1人減っただけなのに、棚の影や段ボールの角が近づいてくる。朱里はその感覚が嫌で、名札ケースを重ねる音を少しだけ大きくした。


ひとりで作業するのは嫌いではない。むしろ落ち着くことが多い。けれど今は、さっきまであった声の位置が空いてしまい、その空き方だけが目立つ。


朱里は箱の中へ手を入れ、絡まったストラップをほどいた。白い紐が指にまとわりつく。ほどけないものを無理に引けば切れると知っているから、焦らず中心を探す。


そういうところは恋に似ている、と思いかけてすぐにやめた。恋という言葉はまだ早い。早いというより、使うとすべてが雑になってしまう気がする。


朔也が戻ってきたのは、朱里が三つ目の箱を開けたころだった。扉が開き、外の空気が少しだけ流れ込む。彼の作業着には、表の会場のほこりが薄くついていた。


「残り、どのくらい?」


「空ケースはあと二箱です。紙入りはこっちに」


「早いな」


褒められたのか、ただの確認なのか分からなかった。朱里はすぐに返事を探したが、うまく出てこなかった。


「数えやすかったので」


「そうか」


それだけで会話が終わる。けれど朱里は、「早いな」という言葉を胸の中で繰り返してしまう。大きなことではない。大きなことではないからこそ、余計に印象に残る。


次の箱には来場者用ではなく、スタッフ用らしい名札が入っていた。ケースが少し大きく、ストラップの色も違っていた。紙の端に役割名が書かれているものがあり、朱里は読まないように目を細めた。


「これは?」


「別にする」


朔也が新しい箱を引き寄せて、朱里の手元に近い位置に置いた。重い箱ではないのに、その置き方が静かだった。


「こっちへ」


「はい」


朱里はスタッフ用の名札を分け始めた。来場者の名札とは少し温度が異なる気がした。働いていた人の名前。案内した人、立っていた人、支えていた人。


自分たちの仕事にも名札があるのだろうか、と思った。会社名の入った作業着はあるけれど、現場で名前を見せるために立っているわけではない。むしろ、名前を消していく側だ。


「こっちは名前が残ってますね」


「スタッフ分は戻りが雑になりやすい」


「忙しかったんでしょうね」


「終わるときが一番、雑になる」


朔也の言葉に朱里は手を止めた。「終わるときが一番、雑になる」それは仕事の話だったけれど、胸の中で別の意味を持ちそうになった。


人は、終わらせるときほど自分の形を乱すのかもしれない。もう必要ないと思ったものに対して、一番本音が出るのだと朱里は考え、紙入りの名札を箱へ入れた。


朔也は箱の角を少し押さえ、朱里が入れやすいように箱の口を広げていた。何も言わないままの気遣いだった。


そういうことをやめてほしいと思うことがある。優しくされたいわけではない。優しくないなら楽なのにと思うだけだ。


「入れにくい?」


「いえ」


「箱、曲がってる」


「あ、本当ですね」


朔也は箱の底を直した。朱里はその間、名札を持ったまま待っていた。彼の指が段ボールの折り目を押し込み、箱の形が元に戻った。


「これで入る」


「ありがとうございます」


「うん」


短いやり取りがバックヤードの白い壁に吸い込まれていく。朱里は名札を箱へ入れた。さっきより静かに落ちた。


外の音が少しずつ変わっていった。朝の硬さはなくなり、人の出入りも減って表の会場から聞こえる金属音もまばらになった。バックヤードの蛍光灯だけが時間に関係なく、同じ白さで天井に貼りついていた。


朱里は残りのストラップをほどきながら、朔也の名前を心の中で一度だけ浮かべた。「真砂朔也」。文字にすると声よりも遠く感じられた。


呼ぶとしたら名字だろう。名前ではない。職場で名前を呼ぶ理由はないし、ましてや下の名前を声にする理由などどこにもない。


それでも、紙の中に残った知らない名前を分けているうちに、彼の名前だけが異なる質感を持ち始めた。知っている名前なのに、まだ触れてはいけないもののように思われた。


「疲れてる?」


朔也が聞いた。朱里は顔を上げた。


「少し、目が疲れただけです」


「細かいからな」


「真砂さんは平気ですか?」


また呼んだ。今日だけで何度目だろう、と朱里は数えたくなかった。


朔也は名札の束を整えながら、少しだけ手を止めた。


「平気」


「こういう作業、得意そうです」


「得意ではない。嫌いじゃないだけ」


「嫌いじゃない?」


「残っているものを見る方がわかりやすい」


朱里はその言葉をすぐには飲み込めなかった。残っているものを見る方がわかりやすい。彼はいつもそういう場所を見ているのかもしれない。


床の跡、持ち方の癖、手首の動き、言いかけた言葉……見られたくないところほど残っているのかもしれない。


「わかりやすいですか?」


朱里が聞くと、朔也はすぐには答えなかった。


「全部じゃない」


「全部じゃない?」


「見えても、わからないことはある」


その言葉が静かに響いた。朱里は、名札ケースを持つ手に力が入るのを感じた。


彼にもわからないことがある。そう思うだけで少し近づいた気がしてしまう。近づいたわけではないのに。


バックヤードの空気が少し重くなり、段ボールの紙粉が喉に軽く貼りついた。朱里は小さく息を吸い、名前のない作業の積み重ねが思ったよりも体の内側に入り込んでいることに気づいた。


「窓、少し開ける」


朔也が言った。バックヤードの高い位置にある細い窓に手を伸ばす。窓というよりも、外気を逃がすための小さな隙間だった。


開けると、外から湿った風が入ってきた。東京の午後の匂いがした。アスファルトに残る熱、遠くの排気、そして、海の近さを思い出させる薄い塩気。


「この匂い、会場の外って感じがします」


朱里は思わず言った。


「外に出たい?」


「そういうわけじゃないです」


「じゃあ?」


「中にいるってわかる匂いです」


自分でも変なことを言ったと思ったが、朔也は変だとは言わなかった。


「わかる気がする」


それだけで朱里は少し黙った。わかる気がする。完全にはわからないけれど、拒まない言い方だった。朱里はそれが不意にうれしくて、すぐに名札の箱へ視線を移した。


午後の終わりが近づくにつれて、バックヤードの白さは青みを帯びていった。蛍光灯の色は変わらないのに、外の光が弱まると、壁の温度まで少し下がって見える。箱の影も濃くなり、透明なケースの端に暗さがたまった。


仕分けはほとんど終わっていた。空ケースは束ねられ、紙入りの名札は確認用の箱に収まり、切れたストラップは小さな袋に分けられていた。底のほうに絡まった数本だけが、まだ残っていた。


朱里はそのうちの一本をほどこうとして指を止めると、ストラップの輪の中にひとつだけ名札が残っているのに気づいた。紙には役割名だけが見え、名前の部分は裏返っていた。


「これ、どうしますか?」


朔也が近づいてきて、朱里の手の中を見て少しだけ黙った。


「確認箱」


「中、見ますか?」


「こっちで見る」


彼は手を出した。朱里は名札を渡そうとして、ほんの少しだけためらった。理由はなかったが、それを渡すと何かを手放すような気がした。


朔也は急かさず、差し出された手をそのまま待っていた。


朱里は名札を置いた。彼の手袋の上に透明ケースが軽く乗るが、指は触れなかった。ただ、手放したものが彼の側へ移るだけだった。


「ありがとう」


朔也が言った。珍しく先に礼を言われたので、朱里は一瞬だけ返事を忘れた。


「……いえ」


その短い間を彼が気づいたかどうかは分からなかったが、分からなくてもよかった。朱里は空になった箱の底を見た。


底には細かな紙くずとストラップの糸くずが残っていた。名前をすべて取り出してもこういうものは残るものだ。朱里は指先でそれらを集めて小さな袋に入れた。


「そこまでやる?」


朔也が少しだけ低い声で言った。


「気になります」


「だろうな」


「だろうなって」


朱里は思わず顔を上げた。責めるつもりはなかったのに、少しだけ素の声が漏れた。


朔也は視線を壁へ逸らしたが、口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。笑った、と言えるほどではない。


「見ていたら、そう思った」


その言葉に朱里の胸がゆっくり熱くなった。「見ていたら」さっきよりも曖昧で逃げ道の少ない言葉だった。


「また見てたんですね」


「見えただけ」


「同じじゃないですか?」


「違う」


「どこがですか?」


言ってから、朱里は自分が少し踏み込んでいることに気づいた。バックヤードの狭さが言葉の距離まで近づけてしまったのかもしれない。


朔也はすぐに答えなかった。外から入る風が紙箱のふたを小さく揺らし、薄い音がした。


「見ようとすると、相手が困る」


朱里は息を止めた。


「見える分には?」


「必要なら、言う」


仕事の話だ、そう思えばいい。けれど、朱里の中でその言葉は別の場所へ落ちた。見ようとはしない、でも見える、必要なら言う、その距離の取り方がずるいと思った。


「困らせないためですか?」


朱里は聞いた。小さな声だったが、バックヤードには十分届いた。


朔也は名札の箱に視線を落とした。透明なケースが重なり合って、蛍光灯の光を細く反射していた。


「そのつもり」


そのつもり、という断言しきらない言い方が朱里の胸をまた揺らした。彼にもわからないことがある。彼自身、自分の距離の取り方を全部は理解していないのかもしれない。


「困るときもあります」


と言ってしまった。朱里はすぐに手袋の端を押さえたが、もう遅かった。言葉は箱の中へ落ちた名札のように戻せない場所へ入ってしまった。


朔也は動かなかった。怒った様子も驚いた様子もなく、ただ少しだけ呼吸が浅くなったように見えた。


「そうか」


それだけだった。けれど、その一言の前にあった沈黙は朱里にとって十分すぎるものだった。


「すみません。変な意味じゃなくて」


「わかってる」


「仕事中なのに」


「それも、わかってる」


朱里はそれ以上言えなかった。わかっている、と二度言われると何も隠せなくなる気がした。何を隠しているのか自分でもまだわからないのに。


外の明るさはいつの間にか薄くなり、バックヤードの小窓にはもう昼の色は残っていなかった。代わりに、遠くの建物の光が小さくにじみ始めていた。


朱里は、仕分けた箱を閉じる作業に入った。空ケースの箱、紙入りの箱、切れたストラップの袋。朱里は、ラベルのない箱をひとつずつテープで留める。


「強く押さえなくていい」


朔也が言った。


「剥がれませんか?」


「運ぶだけなら足りる」


「きれいに閉じたいんです」


「知ってる」


「知ってる」。その一言が朱里の手元を乱し、テープの端が少し斜めになった。


「あ」


「貼り直す?」


「……直します」


朱里はテープをそっと剥がした。紙の表面が少し毛羽立ち、きれいにしたかったのに余計に跡が残った。


朔也は何も言わず、新しいテープを少し切って差し出した。朱里はそれを受け取ったが、指先は触れていなかった。しかし、触れていないことが、もう一つの触れ方のように思えた。


「ありがとうございます」


「うん」


朱里は箱のふたを閉じ直した。今度はまっすぐに貼れた。たったそれだけのことなのに、深く息が吸えた。


夜が近づくにつれ、バックヤードの音はさらに少なくなった。表の会場もほとんど空になったらしく、大きな作業音は聞こえなくなった。残っているのは、空調の低い唸りと箱を動かす手元の音だけだった。


朱里は確認用の箱を持ち上げようとしたが、思ったよりも重かった。名札は一つ一つは軽いのに、集まると腕にずっしりとくる。


「それ、こっち」


朔也が手を伸ばした。


「持てます」


「重い」


「持てます」


少し強く言ってしまった自分に、朱里は驚いた。朔也は手を出したまま止まった。


「わかった」


彼は引かなかったが、奪うように持とうとはしなかった。ただ、朱里が持ち上げるのを見て、箱の底の片側だけを支えた。


「これなら、いい?」


朱里は尋ねた。声が少しだけ震えた。


「いい」


その返事に、なぜか泣きそうになった。守られることとできないと思われることは、違う。朔也はその境目を言葉ではなく、手の位置で示していた。


箱を台の上に置くと、朱里の腕から重さが抜けたが、胸の奥には別の重みが残った。


「ありがとうございます」


「うん」


「さっき、困るって言ったの」


朔也は箱のふたに手を置いたまま朱里を見た。朱里は視線を合わせきれず、箱の角を見た。


「困るのは、嫌だからじゃないです」


言葉がうまく出なかった。出してはいけないものが混じりそうで、何度も喉の奥で止まる。


「じゃあ?」


朔也の声は静かだった。急かしてはいないが、逃げ道を作りすぎているわけでもない。


「……わからないです」


朱里は正直にそう答えた。わからない。今の自分にはそれしか言えなかった。


朔也は少しだけ目を伏せた。バックヤードの白い光の下、その表情はいつもより柔らかく見えた。


「わからないなら、それでいい」


「いいんですか?」


「急いで決めなくていい」


その言葉は今日のどの指示よりも深く朱里に響いた。作業の速度の話ではない。たぶんそうではないけれど、そうだと断言するのも怖かった。


朱里はうなずいた。箱のふたに貼ったテープのまっすぐな線を見つめる。まっすぐに貼れたものほど、はがすときに跡が残ることを知っている。


最後の箱を閉じるころには外はすっかり暗くなり、小窓の向こうには有明の灯りが小さく点在していた。表の会場に残っていた熱も遠くなり、バックヤードには段ボールと古い紙の匂いだけが静かに漂っていた。


朔也が確認用の箱に手をかけると、朱里も反対側を持った。重さは均等だった。朝なら少し緊張したかもしれない距離が、今は息を合わせるためのものになっている。


「いく」


「はい」


箱を運ぶ。廊下に出ると、表の会場はもう暗く、奥の非常灯だけが床の縁を淡く照らしていた。人のいない広さは朝よりもずっと静かだった。


箱の重さを挟んで歩く速さが自然に揃う。朱里はその事実だけで胸が苦しくなった。近づいたわけではないのに離れていないことだけがはっきりしてしまう。


保管スペースの台に箱を置くと、中には読まれなかった名前、読まなくていいと言われた名前、そして、確認されるために残された名前が入っていた。蓋を閉じると、箱はただの箱になった。


「これで終わり」


朔也が言った。


「はい」


朱里は返事をした。喉の奥が少し乾いていた。もう何もすることはないはずなのに、帰るための一歩がなかなか出ない。


朔也は照明のスイッチに向かい、朱里は彼の背中を見た。朝から何度も聞いた声の持ち主が、暗くなる会場の中で少し遠く感じられた。


名前を呼べばきっと止まるだろう。名字なら不自然ではない。さっき何度も呼んだ。けれど今、呼ぼうとする音は名字よりも少し奥から聞こえていた。


朱里は唇を開きかけた。声になる前の息だけが喉に触れた。


「真砂さん」と呼ぶつもりだったのかもしれない。あるいは、もっと近い名前を心の中だけで押し出しそうになったのかもしれない。自分でもわからないまま、朱里は言葉を飲み込んだ。


朔也が振り向いた。呼ばれていないのに、振り向いた。


「忘れ物?」


朱里は首を振った。胸の奥で呼ばれなかった名前と呼べなかった名前が重なり、熱だけが残っていた。


「何でもないです」


「そう」


朔也はそれ以上聞かなかった。聞かれないことが今は助かったが、聞かれないことが少しだけ寂しかった。


照明が落ちると、バックヤードの白い壁は夜の色に沈んだ。閉じられた箱の角だけが非常灯の淡い光を受けて、細く浮かび上がっていた。朱里は、その箱を見つめた。今日一日分の名前が、中で静かに眠っているのだと思った。


外へ出る前、朔也が扉を押さえた。朱里はその横を通り過ぎる。肩が触れるほどではないが、通り過ぎる一瞬だけ彼の呼吸が近く感じられた。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


それだけの言葉で一日が閉じていく。名前はまだ呼ばれない。呼べもしない。


夜の有明は、建物のガラスに散った光を抱えたまま静かだった。風は少し湿っていて、遠くの車の音が水の向こうから届くように丸く響いた。朱里は歩き出しながら、胸の中で彼の名前をもう一度だけ形にした。


声にはしなかったが、声にしなかった分だけその名前は深く沈んだ。


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