第2章:半歩の声の熱
朝の有明は昨日より少し湿っており、舗装の黒に薄い光が乗っていた。まだ人の足音が少ない歩道には夜の水分が細く残っており、朱里は作業用の袋を肩にかけ、株式会社撤収計画の車が停まっている搬入口の前で指先だけを手袋の中へ押し込んだ。
今日は別の会場だった。昨日の白く広い場所とは違い、低い天井に細い配線が這い、壁際には展示台の骨組みがまだいくつも残っている。扉を開けた瞬間、布を巻いたパネルの匂いと床に染みた雨上がりのような湿気がふっと立ち上った。
朱里は一歩入って足元の暗い線を見た。カーペットを剥がした跡が床に長く残っている。昨日の会場が名前を外された後なら、ここはまだ少しだけ剥がされる途中の顔をしていた。
「先に奥の什器。手前は台車を入れてから」
真砂朔也の声が天井の低さに少し近く響いた。名前はないけれど、その声が自分の背中に届くと朱里は自然にうなずいてしまう。
「はい」
返事をしてから、朱里は手袋の端を親指で押さえた。昨日も同じことをした気がする。気づいてしまうと、癖は急に恥ずかしいものになる。
朔也は搬入口の幅を見て台車の角度を変えていた。朔也は話す前にいつも周囲の流れを見ており、その視線の動きを朱里はすでに覚えている。覚えたくて覚えたわけではないのに、朝の光の入り方よりも先にそれを探してしまう。
会場の奥へ進むと、昨日まで使われていた展示台が横倒しに置かれていた。木目調の化粧板には誰かの手が触れた跡が残り、朱里が展示台を持ち上げようとした瞬間、すぐ横にいた朔也が足を止めた。
「そこ、片側だけ重い」
「こっちですか?」
「逆。下に金具が残ってる」
朱里は言われた方へ手を移した。確かに重さに偏りがあった。持つ前にわかる人と、持ってから気づく自分。その差が少し悔しくて、朱里は唇を閉じた。
「無理に上げなくていい。先に外すから」
「わかりました」
朔也は工具を取り出し、展示台の下にしゃがんだ。金属の先が床に触れて乾いた小さな音がする。朱里は、その横で待ちながらしゃがんだ彼の肩越しに、壁の跡を見ていた。
壁には剥がされた企業ロゴの薄い影が残っている。文字はもう読めないけれど、そこに何かが掲げられていたことだけが光の差し込みでわかった。
「持って」
朔也が立ち上がったので、朱里は遅れないように展示台の端を握った。手袋越しに角の硬さが当たり、腕に力が入った。
「そのまま。こっちに倒さないで」
「はい」
「足、もう半歩引いて」
朱里は言われた通りに足を下げた。自分では危ないと思っていなかった位置だった。半歩下がると、展示台の重心が身体の前に移動した。
まただと思った。彼は朱里の危ない場所を朱里よりも少し早く見つけ出す。仕事だから当然だと言い聞かせるものの、その半歩の近さが妙に気になった。
展示台を台車に載せると、木の裏から湿ったほこりのにおいがした。朱里は息を止めかけ、すぐに浅く息を吸い直した。朝の会場には、終わったものだけが持つにおいがある。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「顔、少ししかめてた」
と言われて、朱里は慌てて表情を戻した。見られている、そう思うより先に、見られていたことを知られた気がして落ち着かない。
「匂いが、少し」
「古い什器は残る」
朔也はそう言って次の棚へ目を向けた。会話はそれだけだったけれど、朱里は匂いが残るという言葉が作業の説明として耳に入らなかった。
残るものばかりだ。剥がした跡、持った重さ、短い声、隣を通る時の作業着の擦れる音。消す仕事の中で、朱里の中には逆に何かが溜まっていく。
次に外す棚は背が高かった。上段に残っている透明な板を外すため、朔也が脚立を広げた。金属の脚が床に触れる音は、低い天井の下で細くよく響いた。
「下、押さえて」
「はい」
朱里は脚立の片側に手を添えた。朔也が上がるたびに、金属が少しだけ沈み、手袋の下の指にその重さの揺れが伝わった。
朔也の靴底が一段ずつ上がる。朱里は、顔を上げすぎないように脚立の足元を見ていたが、視界の端に彼の手が板の固定具を外す動きが入った。
右手から工具を使い、左手で板を支える、迷いのない手順。朱里は、それを覚えている自分にまた気づいた。
「少し揺れる」
「押さえてます」
「うん」
短いやりとりだったのに、足元の床が少し近く感じられた。朱里は脚立を押さえる手に力を入れた。すると、自分の手の甲のすぐ上で彼の影が動いた。
透明な板が外されると、光が一枚抜けたように周囲の見え方が変わり、棚の奥にたまっていた薄いほこりが舞い、朝の斜めからの光に細かく浮かんだ。
「受け取れる?」
「はい」
朔也が上から板を下ろした。朱里は両手で受けたが、思ったより軽かったにもかかわらず、体は慎重に固まった。
「端、気を付けて。割れてる」
板の端には小さな欠けがあったので、朱里は持つ位置を少し変えた。その瞬間、朔也の手がまだ板に添えられていることに気づいた。
触れてはいないけれど、同じものを支えている。透明な板を挟んで、互いの指の位置だけが妙にはっきりと見えた。
「持てました」
「置いたら下がって」
「はい」
朱里は板を壁際の緩衝材の上に置いた。置いた後も、手のひらに軽い緊張が残っていた。それは物の重さではなく、その受け渡しの近さだった。朱里がそれを認めるには、少し時間がかかった。
作業は静かに進んでいった。外された棚、丸められた布、絡まった延長コード、使われなくなった案内スタンド。ひとつずつ会場から役目が抜け、床が見える面積が少しずつ広がっていく。
朱里は台車を押しながら朔也の歩幅に合わせないようにしていた。合わせようとすると合わせていることが分かってしまうし、わざと少し遅れて歩くと今度は彼が待っている気がして困った。
「そこ、段差」
声がして、朱里は台車を止めた。床の継ぎ目に小さな段差があり、車輪が引っかかりそうになっていた。
「見えてませんでした」
「影で消えてた」
朔也はそう言って台車の前輪を少し持ち上げ、朱里の手元から一瞬、重さが消えた。
「今」
朱里は台車を押し、段差を越えると車輪の音が少しだけ跳ねた。朔也はすぐに手を離した。
「ありがとうございます」
「うん」
その返事の短さにはもう驚かなくなっていたが、慣れることと平気になることは違う。朱里は「ありがとう」のあとに続ける言葉を持てず、台車の取っ手を握り直した。
会場の外では、街の音が少しずつ厚みを増していた。車の走る低い響き、遠くの建物から聞こえる機械音、通路を歩く誰かの靴音。東京は一度動き出すと、こちらの沈黙を待ってはくれない。
それでも、会場の中には独特の静けさが残っていた。ここにいた人たちはもういないのに、声の湿りだけが壁に薄く貼りついているようだった。朱里には、それを剥がすことはできないと思われた。
「休憩、短めに入れる」
朔也が言った。朱里はうなずき、搬入口の端に置かれた折りたたみ椅子に向かった。椅子の金属は冷たく、座ると作業着越しにその冷たさがゆっくり伝わってくる。
水筒を開けると、昨日より少しぬるい水の匂いがした。朱里はひと口飲み、喉の奥に残ったほこりっぽさを流した。息を吐くと、肩の力が少し抜けた。
朔也は少し離れた壁際で水を飲んでいた。右手の手袋を外してから左手を抜く、その順番をまた見てしまった。
見なければいい、そう思うのに目は勝手に拾ってしまう。人の癖を覚えることは仕事にも役立つ、そうやって理由を作ればまだ自分を責めなくて済む。
「手首、昨日より使ってる」
朔也がそう言うと、朱里は水筒を閉める手を止めた。
「そんなに見てました?」
と言ってから、しまったと思った。思っていたよりも素直な言葉が出てしまったのだ。朱里はすぐに視線を床に落とした。
朔也もすぐには答えなかった。会場の奥で、緩んだ布が空調に揺れて、小さな音を立てていた。
「現場では見る」
その返事は正しい。正しすぎて逃げ道がなく、朱里は頷くしかなかった。
「そうですよね」
「でも、痛めそうだったのは本当」
少し遅れて付け加えられた言葉だった。朱里は水筒のふたを閉めたまま、親指で金属のふちをなぞる。短くしすぎた後に補う彼のくせが、今日もそこにあった。
「気をつけます」
「うん」
会話はそこで終わったはずなのに、朱里の胸にはまだ何かが残っていた。現場では見る、仕事の言葉だ。でも、痛めそうだったのは本当。その本当だけが別の温度を持っていた。
休憩を終えて立ち上がると、脚の裏に床の冷たさが残っていた。朱里は手袋をはめ直し、布の端を親指で押さえる。 もう何度もしている仕草なのに、今日はやけに自分のものとして見えた。
奥のブースにはまだ長い布看板が吊られていた。文字の部分は裏へ折り込まれているらしく、表からは白い面だけが見える。何かを隠したままそこにぶら下がっているようだった。
「こっちは低い。下から外せる」
朔也はそう言って端の固定具を指で示した。朱里は工具を受け取り、言われた場所に近づいた。金具は少し固く、回すたびに指先に抵抗が伝わってきた。
「力でやると曲がる」
「はい」
「少し戻してから外す」
朱里は一度だけ逆に回し、金具のかみ合わせを緩めた。すると、抵抗がすっと抜けた。あまりにも簡単に外れて少し拍子抜けした。
「取れました」
「そう」
「こういうの、見ただけでわかるんですか?」
朔也は、布看板の端を押さえながら少しだけ視線を朱里に向けた。朱里はまた余計なことを聞いてしまった気がして、工具を握る手に力を入れた。
「何回も失敗したから」
その答えは意外だった。朱里は顔を上げた。
「失敗、するんですか?」
「する」
「あまりそう見えません」
「見せないだけ」
朔也はそう言って布を外した。声はいつも通り淡々としていたが、朱里にはその言葉が少し柔らかく聞こえた。「見せないだけ」。自分の不慣れさや危なっかしさを見られてばかりいる気がしていた朱里にとって、その言葉は妙に胸に響いた。
外した布は思ったよりも重く、中に芯材が入っているらしく腕にじわりと負担がかかった。朱里が端を支えようとしたとき、朔也が位置を変えた。
「そっちは軽い方でいい」
「でも」
「長さがあるから、軽い方でも支えが必要だ」
「できないから軽いほう」ではなく、「必要だからそこを持つ」という言い方がうまいと思った。そう言われると、朱里は引け目を感じずにいられる。
「わかりました」
朱里は軽い方を持った。布の表面はざらりとしていて、指先に細かな繊維が引っかかる。長い看板を丸めると空気が押し出され、こもっていた布の匂いが広がった。
「きつく巻かなくていい。折れるから」
「はい」
「少し緩く」
朔也の手が布の上を押さえた。朱里の手から少し離れた場所だったが、近すぎないのに同じ動きの中にいた。
布は名前を隠したまま、巻かれて小さくなっていった。朱里はその様子を見ながら、呼ばれない名前のことをまた考えた。声にしなければ、名前はどこに残るのだろう。
胸の中かもしれない、と朱里は思ったが、すぐにその考えを消した。大げさだ。仕事中に考えることではない。
昼の光が会場の奥まで差し込むころ、床には取り外したものが整然と並んでいた。朝には雑然としていた場所が、少しずつ形を失っていく。什器も布もパネルも、それぞれの名前が剥がされてただの荷物になっていった。
朱里は回収袋を持って床に残った小さな留め具を拾ったが、手袋越しではつまみにくく、何度か指先から逃げてしまった。
「素手でやると切る」
朔也の声がして、朱里は思わず手を止めた。
「今、外そうとしてません」
「しそうだった」
「……してません」
少しだけ言い返す形になり、朱里は自分の声に驚いた。朔也もほんの一瞬、動きを止めたように見えた。
「ならいい」
それだけだったけれど、空気が少しだけ変わった。責められたわけでも笑われたわけでもないが、朱里の小さな反発が会場の中に薄く残った。
朱里は留め具を拾って袋へ入れた。胸の奥が落ち着かない。言い返したことが恥ずかしいのか、言い返せたことに少し安心したのか、どちらなのか分からなかった。
朔也はその後、いつも通り作業を続けた。変に距離を取ることも近づくこともなく、その変わらなさが朱里にはありがたくて少し物足りなくもあった。
会場の空気は徐々に温まった。低い天井のせいか湿気が逃げにくく、作業着の内側に薄く汗がにじみ、首の後ろに髪が張り付く。
朱里は髪を耳にかけようとして手袋のほこりを思い出し、やめた。代わりに首を少し振ると、近くで朔也が台車を止めた。
「暑い?」
「少しだけです」
「搬入口、開ける?」
「大丈夫です」
「空気を入れたいだけ」
そう言って、朔也は扉の方へ歩いていった。朱里は、その背中を見送った。自分のためではないと言われれば、そう受け取れる。けれど、本当にそれだけなら、なぜこんなに胸に残るのだろう。
扉が開くと、外の風が細く入ってきた。湿りを含んだ空気が会場の空気を押し出し、布の端が少し揺れた。そこには、東京の昼の匂いが混ざっていた。車の排気と舗装の熱、そして、遠くにある水の気配。
「このくらいでいい?」
朔也が振り向かずに聞いたので、朱里は少し遅れて返事をした。
「はい」
声が会場の奥へ伸びた。名前はまだない。けれど、その問いが自分に向けられていることは疑いようがなかった。
午後の作業は細かい確認が多かった。床の傷、壁の粘着、ケーブルカバーの下、展示台の裏。派手なものを外し終えた後のほうが目は忙しくなる。
朱里は膝をついて床のテープ跡を剥がした。粘着剤が伸びて指先に重い抵抗を残し、剥がれた跡にはうっすらと色の違う線が残っていた。
「そこ、溶剤少しだけ」
朔也が小さなボトルを差し出したので、朱里はそれを受け取った。蓋を開けると、鋭い匂いが鼻の奥に突き刺さった。
「多いと床が曇る」
「少しだけですね」
「布に取ってから」
朱里は布に少量を含ませ、床を拭いた。粘着の跡がゆっくり薄くなり、消えていく瞬間はいつも少しだけ気持ちがいい。しかし、完全に消えると今度はそこにあったものが急に遠くなる。
「消えました」
「光、横から見る」
朔也はそう言って少し身をかがめたので、朱里も同じく横から床を見た。すると、正面からは見えなかった薄い跡が斜めの光で浮かび上がった。
「まだありますね」
「最後は角度」
その言葉も朱里の中で、作業の説明だけでは終わらなかった。正面から見えないものが角度を変えると、まだ残っている。自分の気持ちもそうなのかもしれない、と思いかけた朱里は、布を床に押し当てた。
考えすぎると手元が遅くなるが、今日はその考えすぎまで現場の湿った空気に混じってしまう。朱里は跡を拭きながら、名前を呼ばないまま近くにいることの難しさを少しずつ知っていった。
夕方の色は低い天井の会場にも入り込んできて、搬入口の外は白から淡い灰に変わり、床の影が少し深くなった。遠くの車音は昼よりも丸く聞こえた。
朱里は、台車に積まれた布看板を固定していたが、ベルトを通す位置が少しずれて荷物の片側が浮いていた。締め直そうとしたとき、朔也の手が反対側から差し込まれた。
「一回緩める」
「でも、もう少しで」
「そのまま締めると崩れる」
朱里は手を止めた。言い返そうとしたわけではないが、もう少しでできると思っていた自分の気持ちが手袋の中で少し行き場を失った。
朔也はベルトを緩めて布看板の位置を少しずらし、朱里の側に負担がかからないように重い部分を奥へ逃がした。その動きは自然すぎて見逃しそうになるほどだった。
「ここ、持って」
「はい」
朱里が押さえると、朔也がベルトを通した。指先が近い。会場の音が一瞬だけ遠くなった気がした。
「引いて」
朱里がベルトを引くと、固い布が締まって荷物が台車の上で落ち着いた。ようやくきれいに収まった。
「できました」
「うん」
その短い返事に朱里は少しだけ笑いそうになった。褒められたわけではないが、できたことを否定されないだけで胸が軽くなった。
こういうところが困るのだと思った。派手に優しいわけではないし、余計な言葉で近づいてくるわけでもない。ただ、こちらが折れそうなところを、折れない角度に戻していくのだ。
それを仕事と呼べばたぶん全部片付く。朱里はその呼び方にすがっていたが、指先にはまだ同じベルトを引いた感触が残っていた。
「積み終わったら、床だけ」
朔也が言った。朱里はうなずき、回収袋を持った。会場は朝とは違う広さになっていた。物が減ったのに空間が膨らんだように感じられた。
床にはいくつもの跡があった。台車の車輪、撤収した棚の足、剥がしたテープ、誰かが立ち止まった場所。目に見える汚れを消しても、そこに時間があったことまでは消せない。
朱里は屈んで最後の小さな破片を拾った。それは、爪の先ほどの透明なプラスチックの破片で、夕方の光を受けてかすかに輝いていた。
「見つけた?」
朔也が少し離れた場所から聞いた。
「小さいのが残ってました」
「そういうのがあとで目立つ」
「残ったものほど?」
朱里は言ってから、自分の言葉に少し驚いた。朔也はゆっくりこちらを見た。
「そう、残ったものほど」
その返事が会場の中に落ちた。朱里は透明な破片を袋へ入れた。残ったものほど目立つ。自分で言ったのに、その言葉が胸の奥に戻ってきた。
名前を呼ばれないこともたぶん残る。呼ばれた記憶よりも呼ばれなかった時間の方が形を持つことがある。朱里はそんなことを考え、すぐに目の前の床に意識を戻した。
外の明るさが弱まり、搬入口の縁が濃い影になったころには、会場はほとんど空いていた。低かった天井も、荷物がなくなると少しだけ高く感じられた。湿った匂いは薄れ、代わりに拭き取った溶剤の鋭い匂いが残っていた。
朱里は最後の確認のため、壁際を歩いた。触れた棚の跡、拭き残し、金具の忘れ物。指先で壁に近い空気をたどるように見ていく。
朔也は反対側を見ていた。会場の端と端に分かれているのに、同じものを探している感じがした。声はない。けれど、その沈黙は気まずくなかった。
気まずくない沈黙は少し危ない、と朱里は思った。言葉がないのに居心地が悪くないと、その人の存在が生活の中に入り込んでしまう。
「こっち、終わりました」
「こっちも」
朔也が工具袋を閉めた。金属が布の中で鳴り、今日の作業が終わる音がした。朱里はその音を聞くと、身体の奥にためていた力がゆっくりと抜けていった。
「帰る準備」
「はい」
朱里は手袋を外した。指先には布の跡が残り、爪の横が少し白くなっていた。手首を回すと、かすかな疲労感が鈍く広がった。
それを見られないように手を下ろしたつもりだったが、朔也は荷物をまとめながら言った。
「帰ったら冷やした方がいい」
朱里は動きを止めた。
「手首ですか?」
「うん」
「本当に見てますね」
今度は言った後であまり後悔しなかった。少しだけ怖かったけれど、声は逃げなかった。
朔也は工具袋の口を閉めて視線を会場の出口に向けた。感情を隠すときの逃がし方だと朱里はすでに知っている。
「見てるつもりはない」
「でも、見えてるんですね」
しばらく返事がなかった。外から入る夕方の風が搬入口のシートをかすかに揺らした。
「危なそうなところだけ」
それは答えになっているようで、なっていない気もした。朱里はそれ以上聞けなかった。聞いてしまえば、自分が何を確かめたいのかまで見えてしまう。
「ありがとうございます」
「うん」
やっぱり短い。けれど今日は、その短さが少しだけ優しく聞こえた。優しいと決めるのは怖いから、朱里はただ静かだと思うことにした。
外へ出ると、空気が濃くなっていた。朝に残っていた湿りは夜へ向かう街の匂いと混ざり、舗装の熱は引ききらず足元からぼんやりと上がってきた。
有明の建物には窓ごとに違う明かりが灯り、ガラスの面に車の光が滑って遠くの信号が小さくにじんでいた。朱里は作業袋を肩にかけ直して手首の違和感を隠すように指を握った。
「痛い?」
朔也はすぐ隣ではなく少し前から、振り向かない声で聞いた。
「少しだけです」
「明日まで残ったら、言って」
「言ったら、どうなりますか?」
自分でもなぜそんなことを聞いたのかわからなかった。朔也が足を止め、朱里も一歩遅れて止まった。
夜の手前の空気が間に入り、通りの向こうでは車が流れ、建物の入口から出てきた風が朱里の髪を少し揺らした。
「持つもの、変える」
朔也はそう答えた。
「それだけですか?」
「それが必要なら」
朱里は何も言えなくなった。それだけという言葉で逃げようとした自分が少し恥ずかしかった。彼は大きな言葉を使わない。ただ、必要なところを変えるだけだ。
それがたぶん、一番困る。
駅に向かう道は昨日より人が少なく、ビルの足元にたまる影は濃くなり、歩道の端には昼の熱を失いかけた風が流れていた。朱里は少し後ろを歩きながら朔也の歩幅を見ていた。
合わせないようにしているのに、いつの間にか同じ速さになる。彼が速すぎないからだと気づいて、朱里はまた胸がざらついた。たぶん、気づかなければ楽なことばかりだった。
「今日の会場、昨日と違いましたね」
朱里は仕事の話としてそう言った。朔也は前を向いたまま、少しだけうなずいた。
「狭いと、距離が出る」
「距離?」
「近くにいても、動線が悪いと遠くなる」
朱里はその言葉を聞いて歩道の白い線を見た。近くにいても遠くなる。遠くにいても声だけが近いことがある。そんなことを考えないようにしたかった。
「難しいですね」
「慣れる」
「慣れますか?」
「たぶん」
「たぶん」という言葉が少し珍しく感じられ、朱里は顔を上げそうになった。朔也はすぐ前を歩いている。街灯の下に入るたびに、横顔の輪郭だけが淡く浮かび上がる。
「真砂さんでも、たぶんなんですね」
言ってしまった後、朱里は息を止めた。今日初めて、彼の名字を口にしたのだ。仕事上の呼び方としては不自然ではないが、朱里には自分の声がやけに大きく聞こえた。
朔也は立ち止まらなかったが、返事までの間が少しだけ長かった。歩道の上を車の光が流れ、朱里の靴先を白く照らして消えた。
「たぶん、のほうが多い」
その答えに朱里はうまく返せなかった。名字を呼んだことを彼がどう受け取ったのかはわからなかった。わからないまま胸の奥だけが静かに熱を持った。
「そうですか?」
「そう」
会話はそこで細く終わったが、その終わり方が朱里の中に残った。名前を呼ぶよりずっと軽いはずの名字でさえ、声に出した後は空気の色が少し変わる。
駅の明かりが近づくにつれ、街は急に現実の顔を取り戻した。改札に向かう人の靴音、どこからか漂ってくる食べ物の香り、エスカレーターの機械音。会場の静けさは、街のざわめきに少しずつ溶けていく。
朱里は改札の手前で鞄の紐を持ち直した。手首にかすかな痛みが走った。思わず小さく息を吸うと、朔也が横で足を止めた。
「痛む?」
「少しだけ」
「今日は冷やして」
「はい」
「本当に?」
その補い方が今日の終わりに残った。短い言葉の後に少しだけ足される温度。朱里はうなずきながら胸の奥がまた困ったように揺れるのを感じた。
「わかりました」
朔也はそれ以上何も言わなかった。駅の光が彼の肩に落ちて、作業着の布に付いた細かな埃を浮かび上がらせる。朱里は、その埃を払いたくなってしまった。そして、すぐに自分の手を鞄の紐へ戻した。
そんなことを思うのはまだ早い。早いというより、どこにも置けない。仕事の先輩に対してそんな風に手を伸ばしたくなる理由を朱里はまだ持っていなかった。
改札の前で別れるときも名前は呼ばれず、朔也は軽くうなずき、朱里も同じようにうなずいた。それで十分なはずだった。
けれど、今日の朱里は知ってしまっている。十分なものがあとになって足りなくなることがあることを。作業中に何度も変えられた立ち位置、見つけられた手首の違和感、名字を口にした後の短い間。
ホームに下りると、地下の空気が少しぬるく感じられた。電車が近づく前の風が線路の奥から吹いてきて、朱里の前髪を揺らした。手首にはまだ、ベルトを引いた時の重さが残っていた。
朱里は鞄の中の水筒に触れた。冷たいはずの金属が手のひらには少し温かく感じられ、昨日手渡された水筒の記憶と今日の短い言葉が重なった。
電車の窓に映る自分の顔は少し疲れて見えたが、その疲れの奥にはまだ消えていない小さな熱があった。朱里はそれを見ないふりをして目を伏せた。
名前を呼ばないまま、今日も一日が終わっていく。けれど、呼ばれなかった名前の代わりに、見られていた場所だけが増えている。手首、足元、持つ位置、危ない角度。
朱里は電車の揺れに体を預けながら、心の中で一度だけ彼の名字をなぞった。声には出さない。出してしまうと、今日の歩道に残った間まで揺らぎそうだった。
窓の外では東京の夜が流れていき、黒いガラスに光がにじむ。電車が駅に止まるたびに、人の気配が乗り換わる。朱里は手首をそっと押さえ、そこに残ったかすかな痛みをなぜか冷やすのが少し惜しいと感じた。




