表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名札のない微熱  作者: reika1021


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第1章:看板の匂う朝

有明の朝は、海の近くにあるのに少し乾いていた。ガラス張りの建物の表面に白い光が薄く広がり、夜の間閉じ込められていた冷気が舗装の上を低く流れている。瀬戸内朱里は作業用手袋を片方だけ握ったまま、搬入口の前で息を吸った。


展示会場の扉が開くと、紙と金属と人の熱が混ざった匂いが奥から押し寄せてきた。昨日までここに何かがあり、大勢の足音や声、視線が床に溜まっていたことだけがまだ消えずに残っている。朱里はその空気を胸に吸い込むと、いつも少し黙ってしまう。


会場の中は広かった。広いというより、何かを剥がされた後の皮膚のように見えた。床にはテープの跡が細く残り、壁際には取り外された案内板が裏返しに立てかけられていた。


「奥から外す。手前は後でいい」


真砂朔也の声が空っぽの天井にぶつからずそのまま朱里の耳に届いた。名前は呼ばれなかったが、誰に向けた言葉なのかは振り向かなくてもわかった。


朱里は手袋をはめながらうなずき、返事をしようとして一度だけ指先を見た。布の端が少し浮いていたので親指で押さえ、それから顔を上げた。


「わかりました」


その声が思ったより小さく出て、自分でも少し恥ずかしくなった。会場の広さに吸われたのか、胸の奥で折りたたんでいたものがそのまま音になったのかは、朱里にはわからなかった。


朔也はそれ以上何も言わず、外された看板の束に近づき、右手で端を確かめてから、左側の角を少し浮かした。無駄のない動きだった。優しいというのとは違っていたが、雑ではなかった。


朱里は、その動きを見すぎないように足元のテープ跡に視線を落とした。朝の光を受けて、白い床に残った粘着の線は細く鈍っていた。そこに誰かの名前や企業のロゴが立っていたはずなのに、今は跡だけが居残っていた。


「そっち、持てる?」


「持てます」


と言った後で、少し早かったかもしれないと思った。朱里には、重さを確かめる前に答えてしまう癖があった。できないと思われたくないのではなく、できるまで待ってもらう時間が苦手に感じられたのだ。


パネルの角を持ち上げると、腕に硬い重みが落ちてきた。手袋越しでも縁の冷たさがわかる。朱里は息を浅く吸い、肩に力を入れないようにした。


「少し内側」


その言葉と同時に、朔也が持つパネルの角がわずかに下がり、朱里のほうへ重さが来ない角度になった。偶然のように見えるほど自然な動きで、余計に胸が変に鳴った。


「すみません」


「謝るところじゃない」


短い返事だったが、冷たくはなかった。朱里はそれが少し困ると思った。冷たい方が、ただの先輩として心の中に置いておける。


パネルを台車に乗せると、表面から乾いた接着剤のにおいが立ち上った。そこにはもう文字がなかった。剥がされた名前の跡だけが薄く浮かび上がり、会場の白い光の中で読めないまま残っていた。


朱里は手袋の端を親指で押さえた。名前が消える場所で働いていると、呼ばれることも呼ぶことも少し大げさに感じられた。声に出した瞬間、その人だけが他のものから切り離されてしまうような気がした。


「次、こっち」


朔也はそう言って歩き出した。朱里の名前はない。けれど声の向きだけで、自分がそこへ行くのだとわかった。


会場の奥は、まだ照明が半分しか入っていなかった。高い天井の影が床まで薄く降りていて、空気に冷たい層がある。朱里が台車を押すと、小さな車輪の音が床をなぞった。


昨夜の人いきれは消えかけているのに完全には消えておらず、誰かが急いで歩いた熱や配られたパンフレットの紙粉、機材の裏にたまった金属のにおいが混ざり合って朝の会場を妙に生々しくしていた。


「止めて」


朱里は台車を止めた。すぐ前に、床から少し浮いたケーブルカバーがあった。気づかずに進めていたら、車輪が乗り上げていたかもしれない。


朔也はしゃがんでカバーの端を押さえ、手袋の甲を床に近づけた。朱里はその動きを見て、なぜか自分の呼吸まで浅くなるのを感じた。


「ここ、まだ外れてない」


「見落としていました」


「今見えたならいい」


それだけだった。責めるでもなく、励ますでもなく、仕事の言葉としては短すぎるくらいなのに、朱里の中には妙に長く残った。


彼が立ち上がると、作業着の袖が少し擦れた。布の音は小さく、会場の奥で響く金属音よりも朱里にははっきりと聞こえた。


自分は何を聞こうとしているのだろう、と朱里は思った。その瞬間、朱里はわざと台車の取っ手を握り直した。手のひらに布のざらつきが戻り、胸の奥へ行きかけた意識が少しだけ仕事に戻った。


案内板を外す作業は静かに進んだ。壁に残った粘着テープを剥がすたびに空気に甘く古い匂いが混じった。朱里は剥がしたテープを丸めながら昨日までここに貼られていた文字を想像しないようにした。


しかし、消えたものほどその輪郭は残る。名札の穴、看板の影、誰かが立っていたはずのブースの角。目に見えないはずのものが、見えるものよりも長くそこに存在することがある。


「指、挟むなよ」


朱里の手が少し止まった。朔也は隣を見ていなかったが、なぜわかるのだろうと思った。


「大丈夫です」


「大丈夫そうに見えなかった」


言い方が淡々としていたせいで、かえって逃げ場がなかった。朱里は唇を閉じ、テープの切れ端を回収袋に入れた。名前を呼ばれたわけでもないのに、自分だけを見られたような気がした。


外から差し込む光が少し強くなり、床の白さが変わった。搬入口の向こうに見える空は薄く乾き、遠くの車道からタイヤが乾いた音を立てて通り過ぎていく。東京の朝は、思ったよりも感情を持たない顔をしている。


株式会社撤収計画に入ってから、朱里は何度もこういう朝を見てきた。華やかなものの翌日ばかりを片づける仕事。人が集まるために作られた場所を、人がいなかった場所へ戻していく仕事。


最初はそれが少し寂しかったが、今は終わった後の空気にも手触りがあると知っている。むしろ始まる前より、終わった後のほうが本当の温度に近い気がする日さえある。


「休むなら今」


朔也の声が台車の向こうから聞こえた。朱里は顔を上げた。彼は外されたパネルの束を壁際に寄せながら、こちらを見ずに言った。


「まだ平気です」


「平気なうちに水飲んだ方がいい」


その言い方は命令ではなかったが、逆らう理由も見つからなかった。朱里は小さくうなずき、搬入口の近くに置いた自分の水筒へ歩み寄った。


水筒の金属は朝の空気を吸って冷たくなっていた。ふたを開けると、ぬるくなりかけた水のにおいがした。朱里は一口飲み、喉を通る温度で自分が少し緊張していたことに気づいた。


朔也は少し離れた場所で手袋を外していた。右手から先に抜く。朱里はそれをもう知っていた。知っている自分に気づいた瞬間、水筒の口から唇を離すのが遅れた。


知っていることがいつから特別になるのだろう。作業の順番、歩幅、声を出す前に周囲を見る癖。仕事で一緒になる相手なら覚えて当然のことだと自分に言い聞かせる範囲は、まだ残っている。


それでも胸の奥に残るものまでは説明できない。朱里は蓋を閉める音を小さくしようとしてかえって指先に力が入った。


「無理してる?」


朔也の声が近い。いつの間にか隣に立っていた。近いと言っても触れるほどではなく、作業着の布が空気を少しだけ動かす距離だった。


「してないです」


「ならいい」


それで会話は終わるはずだった。終わるはずなのに、朱里の中では続いてしまう。彼の言葉は短すぎて、余白が多すぎるのだと思った。


「……あの」


言いかけて、朱里は止まった。何を聞こうとしていたのか、自分でも分からなかった。さっきのカバーに気付いてくれて助かったことか、水を飲むように言われて少し楽になったことか、それともただ、何でもないことを話したかっただけなのか。


朔也は急かさず、ただ視線を会場の奥に向けたまま、次の言葉が置かれる場所を空けているように見えた。


「さっき、ありがとうございます」


「さっき?」


「ケーブルのところ」


「ああ」


彼はそれ以上言わなかった。朱里もそれ以上言えなかった。感謝という言葉は便利なのに、今日に限って少し足りない。


会場の空気が少し温まり始めた。照明の白さと外の光が混ざり合って壁の影が薄くなり、撤収されたブースの骨組みは遠くから見ると街の骨のように見えた。


作業がまた始まった。朱里は台車を押し、朔也は壁際のパネルを外していく。名前を呼び合うこともなく、二人の動きだけが同じ方向を向いていた。


「そこ、持ち替えて」


朱里は言われた通りに手をずらした。持ち替えた位置は確かに軽かった。朔也は朱里が答える前に反対側を支えて重さの流れを変えていた。


「ここですか?」


「そこ」


たったそれだけの会話がなぜこんなに身体の奥に残るのか。朱里は、自分の心が大げさなのだと思おうとした。しかし、現場の音に紛れずに届く声はいつも自分を少しだけ困らせる。


昼の気配は会場の外から先に訪れた。搬入口の隙間から差し込む光が硬くなり、アスファルトの匂いに乾いた熱が混じり始める。遠くの道路を走る車の音も朝より少し太く聞こえた。


朱里は、外された名札の箱を運んだ。箱の中には、透明なケースや白いストラップが絡まり、誰かの肩にかかっていた重さだけが残っていた。名前の紙は抜かれており、空の枠ばかりが重なっていた。


その箱を持った瞬間、朱里はなぜか声を出しにくくなった。名前を入れるためのものが名前を失い、箱の中で音を立てている。かすかなプラスチックのぶつかる音が妙に寂しく響く。


「重いなら置いて」


朔也が言った。朱里は首を振りかけて途中でやめた。癖のように大丈夫だと言う前に、箱の重さが腕に食い込んでいることを認めた。


「少しだけ、重いです」


「じゃあ半分持つ」


朔也は箱の反対側に手をかけた。指が触れたわけではないが、同じ重さを挟んだだけで朱里の呼吸は一拍ずれた。


「すみません」


「それも謝るところじゃない」


同じような言葉なのに、朝とは少し違って聞こえた。朱里が変わったのか、彼の声が変わったのかはわからない。会場の光が強くなったせいで、目に見えるものが少し増えただけなのかもしれない。


箱を台車に載せると、中の空の名札が小さく鳴った。朱里はその音を聞いて、自分の胸の中にも似たような空白があると思った。まだ何も書かれていないのに、何かが入る場所だけが先にできているのだ。


「昼、外出る?」


朔也が聞いた。朱里は少し遅れて顔を上げた。質問の意味は単純なのに、彼から投げかけられると、余計な意味を探してしまう。


「会場の中で済ませます」


「外、風強い」


「じゃあ、中にします」


「その方がいい」


それだけで会話はまた作業の中へ戻っていった。特別な誘いではないし、心配というほど甘くもない。けれど、朱里はその短いやり取りを、水筒の冷たさよりも長く覚えてしまう気がした。


休憩の間、朱里は搬入口の端に座って簡単な昼食をとった。包装のビニールを開ける音が広い空間に小さく響く。会場の奥では、取り外された看板が影の中で眠っているように見えた。


朔也は少し離れた場所にいて、近すぎず遠すぎず、会話をしなくても不自然ではなく、何かあればすぐ届く距離という、そういう位置取りが彼はとてもうまい。


朱里は食べながら床の白い跡を見ていた。ここに展示台があり、そこに企業名があり、昨日は人が立っていた。そのにぎやかさを知らないまま片づけているのに、なぜか終わった後のほうが胸に残る。


恋もこういうものなのだろうか。始まった瞬間ではなく、何かが剥がれた後にようやく跡だけが見える、と。そう考えて、朱里はすぐにその言葉を心の奥へ押し戻した。


まだ恋ではない、と決めるには少し勇気がいる。けれど、恋だと認めるのはもっと怖い。


「午後、奥の吊り看板から」


朔也の声がした。朱里は包装をたたみ、立ち上がった。膝の裏に床の冷たさが残っていた。


「はい」


返事をしてから、彼がこちらを見る前に視線を外した。名前を呼ばれていないのに呼ばれたような気がするのは変だと思ったが、その感覚は消えなかった。


午後の会場は朝より少しだけ現実的だった。照明がすべて入り、影の逃げ場が減っている。剥がすもの、畳むもの、運ぶものがはっきり見える分、心を紛らわせやすかった。


朱里は工具を受け取り、壁際の固定具を外した。ネジを緩めるたびに、金属の匂いが手袋に移る。小さな音がひとつずつ落ちていき、白い床の上で乾いていく。


「回しすぎない」


朔也の声が近くで止まったので、朱里は手を止めた。見ると、ネジは外れかけて斜めになっていた。


「すみません」


「焦らなくていい」


その言葉だけで少し息が戻り、朱里は工具を握り直してゆっくり回した。急がない動きは思っていたより難しい。


朔也は隣で支えており、重さが落ちないように片腕で看板の下を押さえていた。作業着越しに腕の筋に力が入っているのがわかり、朱里はそれを見ないようにした。


「外れます」


「うん」


「持てますか?」


「持てる」


彼の返事は静かだった。けれど、その静けさに朱里はまた置いていかれそうになった。自分の声だけが少し湿って聞こえた。


吊り看板が外れると、壁の高いところに薄い四角の跡が残った。そこだけ色が違っていた。時間がそこを避けて通ったみたいだった。


朱里はその跡を見上げた。何かがあった場所というのは、なくなった後にかえって目立つものだ。人の気配も、名前も、声も、きっと同じなのだと思う。


「下、見る」


朔也の言葉で朱里は足元へ視線を戻した。床に外した部品がひとつ転がっていた。危なかった。


「ありがとうございます」


「うん」


また短い。けれど、その短さに慣れてきた自分がいる。足りない言葉を勝手に補ってしまうくらいには、朱里の中で彼の声が場所を持ち始めていた。


夕方の手前、会場の光は少しだけ弱くなり、白かった床は淡く黄みを帯び、搬入口の外に伸びる影は長くなった。遠くの海から湿った風が入り、紙の匂いは弱くなっていった。


朱里は台車を押しながら朝に入ってきた扉を見た。あの時残っていた人の熱はほとんど消えていて、代わりに今日の作業の匂いがそこに重なっていた。


撤収は何かを終わらせる仕事だと思っていたが、一日ここにいると、終わった場所にも別の時間が始まっているように感じられる。剥がすたび、運ぶたび、なくなったものの輪郭が変わっていく。


「疲れた?」


朔也が尋ねた。朱里は台車の取っ手を握ったまま、少しだけ首を振った。


「少しだけです」


「少しならいいよ」


「いいんですか?」


「無理していないなら」


その返事に朱里は笑いそうになった。笑うほどの言葉ではないが、胸のどこかがふっと緩んだ。


朔也は、その表情を見たのか見ていないのかすぐに会場の奥へ視線を移した。感情を見つけても掴まない人なのかもしれない、と朱里は思い、少しだけ怖くなった。


掴まれないから安心できる。けれど、掴まれないまま近づいてくるものもある。名前を呼ばれない距離は安全なはずなのに、今日の終わりが近づくにつれ、そこに熱がたまっていく。


「最後、床を見る」


朔也の声に朱里はうなずいた。会場にはもう大きな看板も名札の箱も色のついたパネルもほとんど残っておらず、白い床だけが広がっていた。


朱里は床に残った小さなテープ片を拾った。爪先ほどの透明なかけらだ。指でつまむとまだ少し粘りがある。そこに貼られていたものはもうないのに、離れきれない感覚だけが残っている。


「それ、こっち」


朔也が回収袋を差し出した。朱里はテープ片を入れようとして袋の口に触れた彼の手袋を見た。ほんの少し近い。


触れたわけではないのに、手袋越しの距離を意識してしまった朱里は、視線を落としてテープ片を袋へ入れた。


「これで全部ですか?」


「たぶん」


「たぶん?」


「見落としは最後に出る」


そう言って、朔也は会場を見渡した。話す前に周囲の動線を確認する癖。朱里は、そのことをまた覚えてしまった。覚えたくないと思うほど、細部が胸に刻み込まれた。


外の光が落ち始めると、会場は急に広くなった。照明はまだついているのに、壁の白さがどこか冷めている。朝には残っていた看板のにおいも、今は床に吸われて薄くなっていた。


朱里は空になった会場の真ん中に立った。何もない場所を見るのは思ったより体力がいる。あったものを想像してしまうからかもしれない。


朔也は少し離れたところで工具をまとめており、金属が布袋の中で小さく鳴っていた。朱里は、その音を聞きながら今日何度も彼の声に助けられたことを思い返した。


「助けられた」という言葉で片づけていいのだろうか。仕事の指示、現場の判断、先輩としての距離。そういう説明を並べれば、どれも間違ってはいない。


しかし、言葉だけでは足りない日もある。朱里はそれを認めたくなくて、床の白い跡を再び見た。名前のない場所ばかり見ていれば、自分の中に生まれかけたものにも名前をつけずに済む気がした。


「帰る準備」


朔也の声がして、朱里はうなずいた。喉の奥が少し乾いていた。


「はい」


作業用の袋を閉じ、手袋を外す。指先に残った布の跡がじんわりと熱を持っている。朱里は右手の親指で左手の指先をなぞり、今日一日中握っていたものの重みを思い出した。


搬入口の外に出ると、空気が変わっていた。昼の乾きはなく、海から吹く湿った空気が街の光に混ざっている。遠くのビルの窓が点々と明るくなり、舗装された道路の黒さが増していた。


朝に見た有明とは別の場所みたいだった。白く乾いていた建物は、今はガラスの中に夜を少しずつためている。車の音は遠くへ流れ、足元の小石が靴底で小さく鳴った。


朱里は会社の車の近くで荷物を整えた。少し前では、朔也が積み残しがないかを確認していた。彼の背中の線は、暗くなりかけた空に沈んでいた。


名前を呼べば振り向くのだろうか、と朱里は思った。その瞬間、胸の奥が強く縮んだ。呼ぶ理由はいくらでも作れる。工具のこと、明日の現場のこと、今日の確認のこと。


けれど、どの理由を使っても声に出した瞬間に何かが変わってしまいそうで、朱里は唇を閉じた。言葉の手前で止まることに少しずつ慣れてしまっていた。


「忘れ物」


朔也が振り向かずに言った。朱里ははっとして、自分が水筒を搬入口の脇に置いたままだったことに気づいた。


「あ」


取りに戻ろうとしたとき、朔也は先に歩いて行った。朔也は水筒を拾って朱里の方に差し出した。手渡されるまでの短い距離が夜の空気の中で妙に長く感じられた。


「ありがとうございます」


「次から置く場所を変えた方がいい」


「はい」


「見えにくいから」


少し遅れて補われた言葉だった。朱里はその補い方をもう知っていると思った。短くしすぎた後、相手が困らないようにひとつだけ足す。


水筒を受け取るとき、指は触れなかったが、手の中の金属だけが温かく感じた。朱里はそれを気のせいにするために、蓋のあたりを強く握った。


「今日は助かりました」


朱里はそう言った。今度は逃げるような声ではなかったと思う。けれど、言った後で少しだけ怖くなった。


朔也はすぐに返事をしなかった。会場の方を一度見ると、外された看板や名札が消えた暗い入口を見つめた。夜の湿った風が作業着の裾を小さく揺らしていた。


「こっちも」


それだけだった。朱里はその短い言葉をどう受け取ればいいのかわからなかった。仕事のことだと言われればそうだし、それ以上ではないと言われればそれまでだった。


けれど、胸の奥に残る熱はそう簡単に仕事の棚へ戻ってくれなかった。朱里は水筒を鞄にしまい、肩にかけた。ベルトが作業着の布に擦れて今日の終わりを知らせるような音がした。


駅に向かう道は朝よりも少し柔らかく感じられた。街灯の光が舗装された地面に広がり、ガラスの壁には通り過ぎる影が淡く映っていた。海の近くの夜は冷たいはずなのに、朱里の首筋だけが薄く熱を持っていた。


朔也は少し先を歩いている。近づきすぎず、離れすぎない。今日一日ずっと、その距離だった気がする。


朱里はその背中を見ながら、名前を胸の中で一度だけ形にした。声には出さない。出さない方が良い気がした。しかし、声に出さなかった名前は、呼ぶことがなかった分だけ胸の奥に深く沈んでいった。


駅の明かりが近づくにつれ、会場のにおいは少しずつ薄れていった。紙と金属と接着剤の残り香が夜の湿気に溶けていく。代わりに朱里の意識に残ったのは、短い指示の温度と手渡された水筒の重さだった。


朱里は歩きながら、今日何度も呼ばれなかった自分の名前を思った。呼ばれないことはただの空白のはずだったのに、その空白に彼の声だけが入り込んでいる。


何も始まっていない、そう思おうとすればするほど、終わった会場の床のように跡だけがはっきりと浮かび上がっていく。


夜の道で朱里は一度だけ息を吸った。潮の香りが薄く混ざり、遠くの信号の光が濡れたように揺れている。名前を呼ばないまま進んだ一日の終わりに胸の奥だけが外された看板の裏側のようにまだ温かかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ